30




 一度だけ。
 一度だけで、いいから。
 きっともう二度と、あなたに何かを望むことはしないから。
 愛されなかった千年の代わりに、彼にあなたの祝福を。

 この世で最も、あなたの父に似ている男に。
 どうか。

 わたしはあなたがうなずくのを見た。だから、ふたたび、混沌の夜から黎明の朝へ。




 ルカは死んだものと思われた。それぐらいの血がぶしゃっと、間欠泉のように噴き出して、さしものリグディたちも動転して、悲鳴をあげるなどしていたのだが。
 果たして、ルカはひとたび頭をぐらんと回すと、全く無傷でそこに立っていた。ここに現れていたときには負っていたいくらかのかすり傷などもなく。服の焼け焦げや、切り裂かれた布地の部分が、かつてそこに生々しく覗いていた傷だらけの皮膚を知らせるのみ。
 いったい、なにが……リグディたちはただあまりの当惑に絶句していた。人知を超えたなにごとかが、目の前で起きていた。だが、つまりはリグディたちの知を超えているわけだから、なにを言えるわけもないのだ。
 ただ、ルカは、透き通るような瞳でリグディたちを一度ちらと見、シドの前に向き直って膝をついた。肩にかけられた上着の裾がはためき、わずか遅れて床に落ちる、その姿がなにか妙に儀式めいた印象を与え、その厳かさに口を差し挟む余地を奪われてしまう。
「先輩。大丈夫ですよ。もう、大丈夫ですからね」
 ルカの手が、そっと、シドの手に重なる。ずっとその手を覆っていた手袋を、白い指が抜き取る。
 息を呑んだ。リグディも、部下たちも皆。
「烙印ッ……!」
 ファングたちのものとは違う。けれどもそれがルシの烙印であることを知っている。聖府が保護していたコクーンのルシ、ドッジ=カッツロイ少年の肌に刻まれたものと同じだったからだ。
 ルカだけは、薄く形作った笑みを保ったまま、その手を持ち上げるように掴む。そしてゆっくり、その烙印に唇を寄せる。
「■■■■■■■■■■■■」
 なにごとかを呟く。明らかに知らない言語。ルカはいま、なんと言った?
 理解の追いつかないままの、その瞬間だった。
 なにかが、膨れ上がり、パチンと弾けたのを……リグディたちでさえ理解した。

 それは熱のない光だ。閃光弾よりずっと静かで痛烈な光が、破裂するようだ。そこには声がなかった。音がなかった。風だってなかったのに、ぱっと顔を上げたルカの髪は下からゆっくりと持ち上げられるように宙を揺蕩っている。目を閉じ、シドの手を掴み、祈るような仕草。
 神に祈るような仕草。俯いた横顔が、淡紅色の光に照らされていた。
「一度くらい……」
 ルカの唇が動く。声はもっと深く下の方、地の底から響くようである。
「一度くらいっ……私の願いも叶えてよ……!!」
 そのくせ、その言葉は、子供じみていた。思春期の子供が親に地団駄を踏むときみたいに。
 そして、光は……もう一段階、激しい爆発をした。無音の暴虐。先程までの発光とは次元が違う、目を閉じても劈くような光。リグディは唸りながら、とっさにルカに銃を向けている。この光が攻撃でない保証はなく、……攻撃でないなら……これは、何だ? リグディの理解の埒外の現象だった。だから反応ができない。
 そして、すぐさま光はルカの足元を縁取るように丸く収束しはじめた。さざなみのように揺れながら、ルカとシドの周りをまわる光が、不意にパチンと閉じる。
 まるでまぶたが落ちるみたいに。
「母エトロよ!!!!」
 ルカが叫ぶ。強烈な磁場が発生したみたいになにもかもがおかしくなる。上下の別がわからない、世界が左右に揺れる。痛みと吐き気がいっぺんに襲ってきて、そして嵐のように去っていった。リグディは立っていられず、思わず膝をつく。コクーンそのものを掴んで逆さに振ったみたいな衝撃だった。
 だが、過ぎ去った。それらすべては、一瞬以下の間隙に詰め込まれ、済んだあとには何も残らないように清かで、静かだ。
 ルカの髪が背に落ちる。光はどこにもなかったかのように消え去り、あれだけの激しい発光だったというのにリグディの目は何の損傷もないようだった。すべてはそのまま、ルカがシドの手にキスしたまえと変わらないまま。
 ただ、一つだけ、徹底的に変化していた。
 シドの手にはあの黒い紋様がなく……そして、シドは、あの空虚な目を辞め、驚いたような顔でルカを見下ろしているのだ。
「……ルカ……? いまのは、なんだ、君は……一体何を……?」
 ルカは目を開き、シドを見つめる。それからゆっくり立ち上がって、いつもみたいに笑った。
「ファルシごときが何をしようが、上位の神の介入があれば、一切は改変できます。うまく使えば、あなたのシルシを消すことぐらいできる。もちろんこんなのは……私ごときが望むには過分で、二度とできない最終手段ではありますが」
 だからルシたち全員を解放したりはできない。彼らには死地へ行ってもらわなきゃならないし、それにはルシの力が必要だもの。
 歌うようにルカは言う。
「……待て、君は……君はなんだ? 君は……下界で何を見た。君は何だ。私は、何を、計画に巻き込んだ!?」
 シドの手が強くルカの手を掴む。ルカはその手を見下ろして、静かに立っている。あんまりな言い様にリグディは反射的に、「それより前に言う事があるだろう」と呻くように言った。シドははっと顔をあげる。
「……ああ。ああ、そうだ。すまなかった。ルカ、リグディ、皆も。裏切ってしまった……」
「そうじゃねえだろ! あんたが謝んなきゃならないのは!!」
 限界だった。限界だったので、リグディは何を意識するでもなく、憤激する心の思うままに叫ぶ。
「あんたが謝んなきゃならないのは、俺たちを適切に測れなかったことだ!! 俺たちの行く先を、何もかも勝手に決めたことだッ!! 何もかも諦めやがって!! 俺たちはただファルシからの解放のために戦ってたんじゃねえ!! 俺たちはッ……!!」
 何が言いたいのかわからない。自分でも、何を叫びたいのか。でも、吐き出すうちに、心は行き先を見つける。
「俺たちは……あんたの助けにならないのかよ……」
「……先輩。あなたはそうやって、簡単に死んでいい人じゃないみたいですよ」
「……ああ」
 シドは、どこか呆然とした気配は残したまま、その青い目を地面に落とす。リグディに怒鳴られるようなことは初めてだったろうし……そもそも予想の外に決着するような事態が初めてなのだろう。自分がどうやって死ぬのかまですべてを既定路線としていた。何もかもが覆れば、言葉など出てくるはずもない。
 そんな沈黙を、壊す声があった。
「うん……ま、私も女ですからね。こういうときの作法ぐらいわかります」
 ルカだった。
「おい、歯ァ食いしばれや」
 彼女の腕がにゅっと伸び、シドの胸ぐらを掴む。
「な」
 にを、シドが二の句を次ぐより先。バッチィン。響く破裂音。ルカの素手が、シドの横っ面をベチコンッとやっていた。
 平手打ちである!!! なにしてんだお前!!!?
「リグディ、許した?」
「はっ!? なに言って、なにしてんだお前!?」
「君たちは許した? 許してないならもっかい殴るけど」
「何言ってんですか!?」
 リグディの部下は慌てたように素っ頓狂な叫び声を上げた。「まだなのね了解っ」だが、ルカが頷きながらふたたび右手を振り上げたのを見るに、大急ぎでルカを取り押さえにかかる。リグディも一緒だ。シドはあまりのことに抗議ひとつせず、ただ呆然とルカを見上げている。
「離せよお! 殴らせろよお! いっぱい殴る理由があるんだよお!! 私にはこいつを殴る理由があるんだよおおお!!」
「わかったからやめろ!! わかったから!! いたたまれないから俺たちも!!」
「うるせーッ!! 男同士の連帯なんぞクソ喰らえだ! 女に対してだけすぐ意気投合しやがってクソが! このクソども!! 好き勝手暴走ばっかしやがって!!」
「ごもっともだお前の言う通りだお前が全部正しい! でもやめろ!! 暴力は良くない!! あと上司が目の前で殴られるの本当いたたまれないの!!」
 ルカを必死になって取り押さえるのに数分。それだけの時間があれば、シドだって勝手に落ち着く。すべてを理解する。
「……私は……人間に戻ったのか。生きているのか……」
 その声に安堵が滲む。リグディでさえ聞いたこともないような声だ。ルカは知っているのだろうか。己の前途にじたばたするような、シドの人間らしい側面を。だから、ここに来たのだろうか。
 果たしてルカは、考えるような仕草を何度か繰り返したあと、リグディの足元をじっと見た。
「……あのさ、リグディ。ごめんなんだけど。ちょっとだけ、二人にしてくんない」
 そう言われる予感はあった。ルカはただ一人だ。シドのただ一人だ。リグディは代わりが存在しうる。他の誰しも。でもルカだけは、そうじゃないはずなのだ。
 ずいぶん昔からよく知る二人の間に甘やかなものを見たことがほとんどなくても、二人には二人の時間が必要だということを知っている。
「……扉の外にいる。異変を感じたら、すぐ戻るからな」
「無いよ。起こさない」
 もう殴らないという意味でもあるし、腹の中に企みはないという意味でもある。リグディはルカに深い頷きを返し、手をドアのほうに振って部下たちを連れ、一度部屋を出ることにする。
 ドアを閉じるまで、ルカはシドのほうを見もせず、傍らに立っていた。ドアが音を立てて閉まり、少しすると、何事か話す声が聞こえ始めたが、リグディは意識してそれを聞かないように努めたし、声はくぐもり、判然としなかった。二人はしばらく会話をしていた、リグディが知るのはただそれだけなのである。






「……さて、どうしましょうかね」
 ルカが言った。いつものルカの声だった。シドが殺してしまったはずの女。殺したくなかった女。シドの腕の中で、シドを抱きしめながら絶命していったはずの彼女が、すぐそこで生きている。いますぐにでも抱きしめたかったけれど、もうそういう状況ではなくなってしまったこともわかっていた。
 ルカは、生きているのだ。腹を貫かれ、ファルシにも土台無理な奇跡を起こして、その後も平然と生きている。そんなことがあるわけがないから……つまり、ルカはもう、シドの女ではないのだ。
 味方ではないのだ。たぶん、本当は最初から……。
「察したみたいですね?」
「……ああ。私は……私は、どうやらとんでもないものを、計画に巻き込んでしまっていたようだ。それも、ずいぶん初期から」
「でもいいじゃないですか。私はあなたの計画の邪魔はしなかったし、これからもしません。いえ、それどころか、あなたのために動くつもりです。あなたは私を巻き込んでよかったと思いますよ。あなただけは……あなただけは、私がいてよかったでしょう?」
「君がいなければ、絶対に死んでいたからか?」
「それもですけど……うん、全部ですよ。全部、よかったでしょう?」
 そうだと言って。私は、それで楽になれるから。
 そんなことを言うから、シドは、「そうだな」と言った。「本当に、なにもかも、君がいてくれてよかった」
 ルカは微笑んでいる。慈愛に満ちていて……彼女らしくなかった。シドの知る彼女ができるような顔ではない。
 安堵と共に、去ろうという顔だ。
「行くのか?」
「はい」
「……戻るのか?」
「なぜそんなこと聞くんです?」
 ルカは、もうきっと、シドの女ではない。シドは失敗したから。ルカはきっと、この後どうなっても、シドの隣には戻らない。
 シドは失敗したんだから。
 失敗した男のもとに戻る女ではない。
 でも……。
 でも……もう……。
 それでも、シドは……。
「戻ってきてくれ」
 顔も見られずに言う。
「あはは」
 ルカは笑う。冗談めかして。
「戻ってきてくれ……」
 烙印の消えた手で顔を覆いながら、呪うように呟く。
「……あは」
 それでもルカは、短く笑った。シドの傍らに立ったまま。
 堪えきれず、その腕を掴んだ。強く引いて、倒れ込む身体を受け止める。彼女の髪の匂いがする。ずっと変わらない。
「……先輩」
「言うな。何も言うな」
「変なの。言わなくったって現実が変わらないこと、あなたはよく知ってるだろうに」
「それは今までの現実が……大したことなかったからだ。対処できたからだ」
「私がどうなったってあなたは対処できる」
「そんなこと言わないでくれ……」
「私がいなくったって、あなたは生きていける。あなただけは絶対に大丈夫」
 死ににいく人間の顔だと、なぜわかるんだろう。これまでに見たことはないはずなのに。覚悟の決まってしまった人間の顔だと、なぜわかるんだろう。
 でもルカは、シドの顔を覗き込んで、不意にくしゃっと笑った。その笑みはそれまでの空々しさのない、いつものルカの顔だった。「もう、いまさらひどいんだから」甘えたような声。「ずっといっしょにいたかったよ、私だって……」
 わかりきったキスをした。ぎゅうっと喉の奥が縮こまるような。息を殺すような。指先から震えのくるような……。
 至近距離で互いの目を見つめながら。
 唇が離れて、ルカが己の指から抜き取っただろう指輪を、シドの手に押し付けてくる。
 終わりを悟る。

 短い逢瀬はさっぱりと終わり、ルカは振り返りもせずに部屋を出ていった。
 全てはとっくに後の祭り。
 残された男は、失うはずだった己の生を生き直すために、彼女の去った後を追うように歩き始めるのだった。








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