29
<Etro>
扉は暗い、海の底。
だから海に縛られている。女は白い足を抱えこむように、灰色の砂の上に蹲っている。
「なんで、私のことは愛してくれないの?」
「……死なないから?」
「だから、どうなってもいいって思ってるの?」
「こんなこと、普段なら聞かないよ。いつもどおりあなたに悪態をついて、飛び出していくんだよ」
「でも……でも、私、もうずっと前に限界だったんだよ……」
「言わなかったけど、言えなかったけど、でも、わかってたはずでしょ? 私がどんな思いをして……どんなふうに壊れていったのか……あなたは……」
息はうっすら白く、けれど存在感が無かった。白いと思うから白い息を吐くのだ。謂わばそれだけだ。
女はうつむき、泣いている。涙が浜に落ちると、浜の流砂はポツポツ黒く、まるで血の一滴であるかのように見えた。
「……」
「…………」
「……ねえ、どうして」
「どうして、ユールの半分ほどにも、愛してくれないの?」
返事がある。予想通りの、はっきりしない返事が。
女は顔を上げ、振り返る。そこにいる誰かへ向けて。
「……うん。わかってるよ」
「ユールはあなたより強い」
「私はあなたと同じように弱く、醜い」
「わかってるから言わなかったんだよ。あなたがそう答えるんだろうって」
私たちは、よく似ている。愛さなくてもいい子供。
「父に虐げられたあなたが、すべての人間を愛することなんて、できるはずがないから」
「だから私は、あなたが憎いんだ。それが全てを証明してる」
ルカ。女神が、名を呼ぶ。
いずれにせよ行かなくてはだめよ。
すべてはあなたの咎でもあるわ。
「わかってるよ。母さま。……彼らのことは、愛しているから」
母神エトロ、あなたのことは憎くても。
だって私はあなたの血の一滴。
最も純粋な一雫。
そうだったはずでしょう。
目を開ける。暗闇はいつの間にか終わっていて、夜明けの白い光が空に薄く放射にのびていた。
ぎゅうっと内臓を捻り潰すような痛みだけがある。死ぬ前に負った痛みはいつだって反響みたいに残って、いつもだったら身を固くして耐えるしかなかった。
それでも今日のルカは、そうしなかった。
バチ。右手で血溜まりの中を叩く。潰れた頭と臓物の弾けた残り、それらが不規則に乱した赤い海の中を。ベチン、バチ、バチン、バチン、バチン!!!!
細かい血飛沫を跳ね上げながら、ようやっとまともな痛みが手に走った。右手の五指すべてを使い、ルカは身体を起こす。
ハァッ、ハッ、ハッ、ハッ。呼吸が荒い。女神の紋様を映す白い網膜が左右ぐるぐるとめちゃくちゃに回っている。残してきたほとんどをかっさらってきてしまった。記憶のすべてをとどめておくには人間の身体は小さすぎるので、前後にがくがく揺れる頭を振って、メンテナンスするしかない。
「オエッ」
びしゃっ。嘔吐。緑色の嘔吐物。ハァ、ハァ、ハァ。湿りきった息をゴブゴブ濁しながら繰り返し、ひとしきり吐いたら手の甲で口を拭った。
戻った。整理できた。きちんと理解できた。自己嫌悪で死にそうだ。もう何回か死んでしまいたいくらい。でも、そんなことをすればまた元の木阿弥、ルカはすべてを失くしてぼんやり立ち尽くすしかない。無能な愚図が出来上がりってワケ?
「あはっ、ぎゃはあっ、あははははは!!」
くそったれがよ!!!!
叫んで怒鳴って怒り狂いたいくらいに混乱してる。それでも頭の冷静な部分が、早急にリカバリに動かなければもっとひどいことになるぞと脅してる。
人間は死ねば終わりだが、ルカに限ってはそうではないのだ。首をかっさばいて終わりにできたらそれでよかったろうが、事態は悪化の一途をたどるだけなので。
「……嘘だろ……おい、生きてるぞ!」
「クソッ、ルシはなんて化け物なんだ!?」
不意に……そう、不意に、兵士の声が耳に届いた。ルカはゆっくり、色の戻った目でそちらを見る。PSICOMの兵だろうと思うが、詳細はわからない。ルカにはほとんどのことがもうどうでもよくなってしまったので、ぼんやりとその声を聞いていた。
起き上がった身体は、次は立ち上がらなければならない。墜落の衝撃で乱れた髪を振り払うようにしながら転送装置を確かめる。「動くな!」「じっとしてろ!」……いくつかは破損していたが、ルカの剣につながる一つだけは無事のようだ。ほっとして、それを引っ張り出してみる。割れていなかったとはいえ、最後の転送装置がいつエラーを吐くかわかったもんじゃない。ここからは持っていたほうがいいだろう。「クソ、なんなんだ、なんなんだよあんたは!?」バシュン、バシュン、バシュン。
兵たちなど意にも介さないルカは、人間らしくなかった。だからそうなるのも仕方がなかった。発砲の許可がなくても、兵たちは自己判断で眼の前の怪物を撃つしかなかった。
そして、そのうちのいくつかの弾丸はルカの体を掠めたり、通り過ぎたりした。ウェッ、そのうちの一つが肋骨に挟まり、ルカは身を折って吐きそうな声を出す。
ウェッ、ウェッ。
だが当然吐き出そうとして吐き出せるようなモンではないので(そもそも口から直接繋がった器官の中にあるでもない)、ルカは致し方なく、右手の人差し指を肋骨の傷穴に突っ込んでひしゃげた弾丸を引きずりだしたのだった。解決! 放り捨てる。
「ばけもんだ……」
誰かが呟いた。ルカは答えもしなかった。ただ薄く笑って、彼らを見つめ返した。
「私には、何もしてない人間を殺す連中のほうが、ずっと化け物に見える。……ああ、でも、どうなんだろうな。人間は殺し合いをするものだからな。ううん、難しいな……やっぱり、私こそが化け物なのかな?」
考えるのが面倒くさくなってきちゃった。考えながら、剣を振り回した。身体がちゃんと動くか確かめたくて。虐殺が普通のことなら、殺すことと殺されることの間に対した差はないのだから、その狭間でピンピンしてるルカがただ一人怪物ってことになるんだろう。……もうわからない。どうでもいいかもしんない。ルカを囲んでいた十人ほどの兵士は死んでいた。喉笛を切り裂けば、ふつう、人間は死んでしまう。
虐殺が普通のことなら、ルカがこうするのも普通のことだ。でも、そうだったっけ?
「あー……どうなんだ。殺さないほうが、よかったのか?」
頭がまだ混乱している。どうだったか、思い出せない。これから何をすべきなんだっけ? こいつらは、だれだっけ?
思い出せないということは、殺してもよいということか?
「ああ……はやく、たすけに、いかないと」
脳裏に浮かぶ顔がある。怜悧な容貌、男の黒髪を覺えている。彼はいままさに窮地にある。あの人を助けないといけない。それは、ルカにしかできないことなのだ。もう戻れないはずの男を連れ戻すことは。そのためなら、殺してよかったのだろうか?
死んだものを生き返らせることは、母にだってできないのにか?
わからない。よく、わからない……誰かが決めてくれたらいいのに。ルカがただ言えることは、何にしたって自分が決めることではなかったということ。だったら……そうだ、うん、殺さないようにしなくちゃ。もう殺してはいけない。さあ、どうしよう。どこに向かおう。震えながらも足を踏み出そうとしたそのときだ。
「……嘘でしょう」
女の声に振り返る。金の長い髪の娘がいた。彼女は呆然と、足元の血を踏みしめながら、青い顔で立っている。
その様に、はっとした。心臓が跳ねる。同時に安堵の息を吐く。
ルカは剣を放り出し、飛び込むようにして彼女を抱きしめた。暖かくて、花の匂いがした。ジルの香だった。
「ひっ……」
「ああジル! 無事でよかった!」
「なんっ……なんで……」
目の前で震える、形良い薄桃色の唇。見開かれたペリドットの瞳。瞳孔がきゅうと細くなる。
「なんで、生きてるの? わた、私、死んでしまったのだと、てっきり、もうあなたは死んでしまったのだと……見ていたの、飛空艇から落ちていくのを、それで驚いて……私、来たのに」
あなたを捜しに来たのに。ごめんなさい、私、ほんとうに、なにもかも……ごめんなさい……。
涙に濡れた声を震わせながら、ジルはルカの両腕をぎゅうっと掴んだ。ルカは震える背中を撫でてやる。
ジルの姿を見て、ようやく少しを思い出した。自分が何者であったかを。彼女を守るためにここまできたのだということも。
「ごめんね、大丈夫だよ。……巻き込んでごめんね」
「は……? 巻き込む、って……」
「まだ愛しているから、つまり、そういうことなんだ。ジル、あなたはファルシに……あいつらに少し、弄られてしまってるんだ。大丈夫だよ、私が殺してくるからね……」
「待ってよ! 待って……意味が、なにも、わからないわ。なにもわからないのよ……ねえルカ、私、どうしてこんなことになっているの?」
「いつか教えてあげる。きっと。でもいまは、ごめんね、時間がないんだ。先輩が死んじゃう」
守るつもりのない約束をするのに慣れている。長生きすれば、誰もがそうなる。私はその程度が逸脱している。
でも人間の愛がそう長く保たないことを知っているから、どんなに愛していたってさほど気にならなかった。……
ルカは一度身体を離し、ジルの白い顔をじっと覗き込んで、言い聞かせるように告げる。
「ジル、これから、私たちはいろいろなものをひっくり返す。常識も、理屈も」
「ルカ……?」
「そして、この繭は堕ちる。残念だけど、それが自然な形だから、受け入れてもらうしかない」
「……何を、言っているの? ルシたちがコクーンを堕とすということ?」
「いいえ。“コクーンは堕ちる”の。こんなものが浮いているのはおかしいことだから」
「……どういうこと……?」
訝しむ目だ。ジルは、いや、ルカ以外のすべてのコクーンの民は、コクーンで生まれ育った。だから、この状態が間違っていると言われたって、納得できるわけがない。
でも、もう本当に時間がない。
「これから騎兵隊に話をつける。コクーンから出られるようにするから。下界は地獄なんかじゃない、大変かもしれないけど生きてはいけるよ。だから、下界に逃げてでも、生き延びてね」
「……ルカはどうするの?」
「全部終わらせてくるよ。大丈夫だから、安心して待ってて」
「待ちなさいよ……ッ!!」
ジルを置いて去ろうとするルカの腕を、彼女が掴む。その手が熱いので、ジルの手とは思えぬほど熱く思えたので……ルカは驚いて足を止める。鬼気迫るジルの目がルカを見つめ、射抜いている。
「そんなの、願望に過ぎないじゃない……全部うまく片付くようなこと……こんな事態になったあとで、今から全てが元通りになるなんて」
ああ、この子は、それに気づいたんだな。ルカは目を細める。
きっと彼女にとって価値のあるものなんてほとんどなくて、何かを失った経験も乏しいのだ。だからこそ簡単に支配されてしまった。どんなに聡明な人間でも、実感を伴わない感情は簡単に打ち崩される。ファルシにはそれができる。できてしまう。
ルカは、これには欺瞞で答えるべきではないだろうと、少し悩んでから答えた。
「元通りになんてならないよ。なにひとつ、元通りにはならない。私も君も、ヤーグもね。それは私たち全員の責任でもある」
「……あなたも?」
「うん。私の罪が一番重い」
「どうして……?」
「私も願望のためにやったんだ。だからこんなに、ダメな事態に陥ってる。責任を取らないとね……」
「じゃあ私も一緒に!」
「だめだよ。人間が来たら死んでしまう。ルシでもなければ、共には行けないの」
ジルの両肩を掴んで言う。ジルは気圧されたように数秒黙りこくり、しかし、震える唇で問う。「ルカ……帰ってこないつもりなの?」彼女の服には、腹から足にかけてべっとり血がついていた。それはルカの体に空いた穴から流れるものだった。
ああ、放っておいたら死んでしまう。気がついたらしいジルが悲鳴をあげ、ケアル・ギアを行使する。死んだって別に構わないのだけれど、死ねば死んだで面倒の種を増やすばかりということもある。治療を享受しながら答えを返した。「どしてそうおもうの?」
「あまりにも……他人事だからよ。いやよ、いかないで、これ以上私たちを置いていかないで……!!」
勝手なことを言っているのはわかってるわ、でもわからないの、どうしてあなたにあんなことをしてしまったのか。あの明瞭な殺意はなんだったのか、もう思い出せないのよ。
私はどうしたら責任を取ることができるの。
飛びかかるようにルカの胸元を掴んで、額を押し付け、ジルは嗚咽を上げた。長い付き合いでもほとんど見たことのない、ジルの強い感情の発露。こんなときでなければ、一晩中そばについて、安心させるような言葉を吐き続けたろうに……けっして傍を離れはしなかっただろうに……ルカは、行かなくてはならないのだ。
もう、行かなくてはならない。
「ごめんね。私は行くよ」
ジルは泣いていた。でも、ルカがそっと押すと、手は簡単に解けた。
ルカの服についていた、数多の血が彼女のあえかな指先を黒く汚している。それを見て、いまさら口惜しくなりながら、ルカは剣を拾った。
そして、ジルに背を向けた。これ以上言葉などない。
もう振り返ることはなかった。
終わりの夜の始まりだな。詩人ぶった言葉選び。
リグディは部下と共に、セレモニー会場の貴賓室へ突入するところだ。突然行方不明になった、ほんの数日前まで心酔しきっていた上官がそこにいるはずだからだった。
彼は突如消えて、そしてまた現れたかと思ったら、PSYCOMのてっぺんで敵の大将になっちまった。それが指すところは、つまり、裏切られていたということだ。陶酔は怒りに、情景は憎しみに変わる。リグディだけでなく、数多の部下たちは怒り狂い、今日この時を迎えてしまった。シド・レインズ抜きでのクーデターである。
飛び出してきたPSYCOMの兵士の頭を撃ち抜く。貴賓室への扉を蹴り開けると、見慣れた黒髪の後ろ姿が見えた。
白いソファに深々座った、男の姿が。
逸る部下を抑えながら、リグディは一歩前に出た。座ったままの彼は驚いてすらいなかった。まるでリグディたちが銃を抱えて飛び込んでくるのを予見していたかのようだ。
「これが、あんたの望みだったのか?」
「もはや私はファルシの奴隷だ。……撃て」
男は静かにそう言った。それでも、躊躇った。この男を殺すのだけは。
ルカの言葉を思い出してる。ここにいもしない、今どこにいるのかさえわからない悪友の言葉を。
あの人が裏切ったときは、私を思い出して。
意図のわからない言葉を。
最後までどうか信じていて。
もう、信じるかどうかの有様じゃないのだ。
リグディに退くことなど出来はしない。
「理想ってやつは……!」
血がなければ育たないのか。誰かが死ななきゃ成らないのか? 何故?
そう聞いたらあんたはどう答えましたか、閣下。
……お前はどう答えるんだ、ルカ。
答えは無かった。あるいはそれが、答えなのだろうか。リグディの前を歩いた男の。
リグディは銃を向ける。誰より尊敬していた上官の頭に。
引き金に指をかけて。
それで。
「大尉ッ!!」
「ッ!?」
しかし、突然だ。異変を伝える部下の声にリグディの体は一瞬固くなる。
同時、セレモニー会場を一望できる、目の前の壁一面の大窓から、異音がした。それは耳慣れた着弾の音。
咄嗟に銃口を向けながらそちらを見る。と、そこには……そこには……。
「ルカッ!?」
飛び込んでくる彼女と目が遭った。気がした。
直後の炸裂音。飛び散るガラスから身をかばうリグディたちの前に、ルカが空中でくるりと一回転して床に飛び降りる。彼女はどうやら、高いところから下ろしたワイヤーにぶら下がり、窓に発砲し、割れてできた罅に向かって飛び込んできたと、そういうことらしい。しかも、なんと剣の柄を掴んだまま。
なんて命知らずな……!
「おまっ……なにしてんだ!? 驚かせるなよ!」
「……ハァ
? そらこっちのセリフだが!?」
ルカは舌打ち混じりに立ち上がり、ずんずん進んできて。
それで。
「こんのバカタレがッ!!」
ぼぐしゅっ。根底を揺るがすみたいなすごい衝撃とともに、リグディは一瞬宙を舞った。ルカはリグディを、剣を掴んでないほうの手でぶん殴ったのであった! ……であったじゃねーんだわ!!!
ぐわんぐわんぐわんぐわん……。頭の中がデロデロ揺れて、呼吸もおぼつかない。実働部隊として戦闘訓練にも痛みにも慣れたはずなのに、リグディはあまりのことにひっくり返ったまま戻ってこられない。慌てた近くの部下が救護のためケアルを放つが、すぐには痛みの衝撃が晴れない。
「大尉、大丈夫ですか、大尉ッ! ……何するんですか大佐!?」
「ふんっ! バカリグディは地べたに寝転んでるのがお似合いよっ!」
「意味わかんないんですが!?」
ルカはシドと誰より縁深い女なだけあって、リグディのみならず多くの部下とも顔見知り。なんなら騎兵隊で唯一人望のあるPSICOM将校である。当然ながら、シドの裏切りでルカのことを案じた人間も一人や二人ではなかった。
聖府代表の地位のためにただでさえ窮地にある恋人を裏切った男、というのは、ただ騎兵隊を裏切ったというだけよりずいぶんシドの名を貶めていた。同時にルカへの同情もかなり篤かった。
だのに、いま、リグディたちはルカにブチギレられている。事態が飲み込めずしどろもどろになる部下たち、困惑のあまり目を白黒させるリグディ、一人だけ状況を把握しているらしいルカ、我関せずのシド。
なんだこの状況? リグディはようやく体を起こしながらルカを見上げる。
「言ったじゃない。この人を信じてって」
「……もう俺が決める段階じゃねえ」
「そうやって、意思を弱めて、なし崩しに罪を侵させるのがファルシの手法なのよ。そしたら止まれなくなるから。ジルやヤーグもそうやって、パージに加担させられた」
「なんだと……?」
ルカは唇を噛み、短いため息。わずかに恐れるような、悲しむような、奇妙な顔をした。
「ファルシだって、人間をいちから作り変えるようなことはできない。できたらルシ化なんてギャンブル性のあるやり方しないもの。でもほんの少し、僅かなら、人の心を支配できる。疑心を芽生えさせたり、長い間不安にさせたり……大勢を一度にそうすることだってできるよ。君たちは自分が操られている自覚がない」
「……本当なのか?」
「嘘なんてつかないよ。じっさい、私たちは下界でダイスリー……あいつの正体であるファルシに会って、そう脅されてる。君たちを操ってこの人を殺させ、さらなる混乱を招くって」
リグディは己の背を冷や汗が垂れるのを感じた。そんなの、本当なら信じられないようなことだったが、ルカがそんな嘘をつくとは思えないし……もしそれが本当なら……これは……。
「……だが、その人は、騎兵隊を裏切っている。それは本当だろう。そのことは、どうするんだ。ほんの僅か人を操ることしかできないなら、新代表の座に座らせることなんてできないんじゃないのか」
「できない。そこまで人を操ろうと思ったら、別のアプローチをするしかない。そして、やったんだよ。……先輩、聞こえてるよね?」
「……」
シドは黙り込んでいる。リグディは、不意に、ぞっと肌が粟立つのを感じた。なぜだ? なぜ、この期に及んで黙っている? ルカが現れて、己を庇っている状況だ。揃って釈明するなり、潔く自決するなり……なにかすればいいのに。
なぜ、未だじっと動かず、ルカたちの会話を聞くばかりなのか?
「……ルカ、どういうことだ。閣下の身に、何が」
「ルシにされたんだよ。もう、何週間も前に。この人は、その状況で、できることをした……ファルシの命令に逆らって、ルシを殺そうとした。でも失敗して……ファルシからの支配をもっと深く受けてる。私たちの声は聞こえてるけど、もうあまり、自分の意思で動いたりはできないんだよ。シ骸になりかけているから」
誰かがひゅっと息を呑んだ。ルカは続ける……ファングと同じように、シルシの進行は止まっているだろうけど、これ以上ファルシに逆らえばシ骸になるしかないだろうね、と。
リグディは慌てて立ち上がる。
「じゃあ……じゃあ、俺たちはどうしたら! 俺たちはこの人をどうしたら……ッ!?」
「どうにもできないでしょ。あなたたちは人間なんだから。あなたたちがするべきことは、コクーンの民を下へ降ろすこと」
「下……って、下界ってことか……?」
「そうよ。……そうだ、これを。ファングが書いた簡単な地図だけど。広い平原があるから、そこにキャンプを作って。哨戒もしやすいと思うし、危険も少ないはずだから」
「……コクーンから逃げろってことか」
あまりのことに、リグディが頭痛を覚えながら言うと、ルカは鷹揚な仕草で頷いた。教え子の正答を褒めるようなそぶりだ……リグディは違和感を感じる。ルカとは長い付き合いだが、さっきから、どこか、違う人間と話しているような気がするのだ。
口調が違うのか、雰囲気が違うのか。リグディの知るルカとは違うような、そんな感覚。何かが変わった? 下界に行ったからか? ……だが、なぜ?
「コクーンは落ちる。これはもう決まったことだから、この繭から出るしかない」
「……たちの悪い冗談、ってんじゃないんだよな?」
「違う。信じて……君たちを生き延びさせることしか、私はもう考えてないんだ」
それでも、嘘ではないと思った。コクーンが落ちるかどうかはリグディにはわからないが、少なくともルカにはそう信じるだけの理由があって、そう言っているのだと。まるで別人みたいに見えたって、彼女は本当に、自分たちを生かすためにここに来たのだと。
そう信じることはできた。
けれども。
「待てよルカ、……クソ、わかってる、もうここでできることがないなら俺たちはお前の言う通りにすべきなのかもしれない」
「うん」
「だが、……だが……その人は……どうなるんだ。閣下は……俺たちは、閣下の理想のために……!」
結局、血を吸って育ったその理想とやらから、リグディは離れられない。だからここに来た。たぶん……本当にシドに裏切られたなんて思ってなくて……そんなこと本気で信じられはしなくて、確かめるような気持ちで。なにより、シドが作り上げた騎兵隊なら、強固な意思をもって戦うシドの騎兵隊なら、“こうすべき”だと思ったから。
だから、彼が望んだまま、銃口を向けた。ルカが飛び込んでこなかったら、きっと撃っていた。
「それは、私が解決できる。それを解決するために、ガラス吹き飛ばしてまで急いだんだ」
ルカは微笑んで、一歩下がった。シドの斜め前まで。彼女がふっと微笑み、シドの顔を覗き込む。こんな顔できたのかってくらいに優しい顔だった。……なんだか、妙に、母親を思い出すような……。
……なんだ。気持ち悪ぃこと考えちまった。
リグディが悶々とする間に、ルカはその場に跪く。そして、手にしていた剣をすっと斜めに持って。
「まっ……!!」
リグディが制止の声を上がる間も無く、自らの首を引き裂いた。
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