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<Encoded memories...82percent.>
黒い海を上がる。
黒い海を上がる。
黒い海を上がる。
灰色の浜を歩く。
灰色の浜を歩く。
灰色の浜を歩く。
結局最後には諦める。
最後には諦める。
諦める。……
繰り返しすぎた習慣が、記憶の中央に鎮座している。
死んでは戻る胡乱な命が、“私”の心を穢している。
「何度ここへ来たんだろう」
返事はない。女は“私”を見ている。その目には哀れみが浮かんでいる。
哀れみだ。ただ、哀れみばかり。
「そして何度、あなたにがっかりして、戻ることになるんだろう」
これまでも、これからも、その事実だけが変わらない。
“私”は“あなた”に失望している。
女神エトロよ。
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「っつうう……いてぇ……」
げほっ。ごふごふ。空咳をしながらゆっくり身体を起こす。身体の節々は痛むし、呼吸すると喉の奥がヒリヒリする。けれども、いますぐどうにかなるということはなさそうだ。
「とんでもねえな、あのファルシめ……」
降り注ぐ光の中、吹き抜けの先を見ながら悪態をつく。自分が落とされた位置を見上げれば、およそ四十メートルほどの高さであるように見える。なぜ生きているのか自分でもわからない。運が良すぎる。良すぎるし、そろそろ不審でさえあるのだが、生き残った幸運を疑う人間はいないので、ルカもただ己の豪運に感謝するばかりである。
しかし普通人をつかんで叩き落とします? そんなの絶対死んじゃうじゃん。鍛えるとかって次元じゃないじゃん、ルシだろうとなんだろうと対抗できるようなモンじゃないじゃん。それはもはや職務放棄だよ! 感情で仕事をするんじゃないよぉ!
おかしな論点で怒り出すのは頭を打ったからなのか、生来のものなのか。おそらくは後者。
ルカは傍らの、あの石碑を支えにしながら立ち上がり、ほっと息を吐いた。感覚がまだはっきりしないので立てる確信さえなかったが、少なくとも足は無事のようだ。自力でも歩ける。
ルシのみんなはどうしたかな。もしかしたら先に行ってしまっているかもしれない。あんな高さから叩きつけるように落とされたらふつうは絶命するし、そう判断したら確認に戻るのは無駄だから。
せめても追いつけるといいのだが……。そう思いながら、ルカは階段を登り始める。
一人で階段を登っていると、先程皆で進んでいたときには気づけなかった、壁の細かい意匠なんかが見えてくる。
「……これ、さっきの」
うねうねと脈打つ髪、奇妙な顔。ファングが教えてくれた巫女の絵だ。それが、いくつも描かれている。
見れば、ここは壁一面が壁画になっていて、そしてほとんどが巫女の話を伝えるもののようだ。じっと巫女を見つめてみれば、中央に刻まれた意匠は異形の顔ではなくて、仮面かなにかにも見える。
ファルシのために建てられた塔だということだし……やはり、巫女はファルシだったのだろうか? そうでなかったとしても、ファルシと同列に目されていたことは確かか。
「……これは、戦う巫女? 剣を持ってるし。こっちは……棺に入る巫女。でもそのあとには、また戦う巫女か……同じ姿をした巫女が複数いるってことか? それとも本当に死なない?」
ヴァニラの言葉を思い出す。歳を取らない巫女。いつも同じ容姿。もしかしてそれは、ヴァニラや郷の者たちが知る十年、二十年のことではなく、もっと長いあいだのことなのかもしれないな。ぼんやり考える。
だとしたら、やっぱりファルシだと考えるべきか。ファルシは途方もない時間を生きるというし。
「……巫女は、異跡にいた。ファルシ=アニマと一緒に。で、そのアニマにルシにされたとき、ヴァニラとファングは巫女に会ってる」
その後、六百年前の黙示戦争が起きた。そして、ルシになった二人を乗せて、異跡はコクーンへ向かったはずだ。
ルカはふと、思い至る。
「……じゃあ、今、巫女はどこに?」
壁に刻まれたうねる髪の女を見る。見慣れてきて、その柔和な模様が女の姿に見えるようになってきた。この女は、異跡にいたはずだ。もちろん、異跡が運搬される前に逃げ出した可能性もある。だが、異跡ごとコクーンに運び込まれた可能性もあるのではないか?
まさか。でも……。
思考の中で足が完全に止まった、だがそれと同時だ。
「ルカー!」
「ルカさーん!」
頭上から知った声がした。スノウとホープだ。走る足音と一緒に。
その案じるような声に、急いで返事をする。
「ここだよ! 大丈夫ー!」
わっと、安堵の声が返る。どうやら彼らは、ルカを見捨てはせず、確認に戻ってきてくれたようだった。
ルシたちはその後、塔の最上階で取り逃がし続けていたダハーカを倒し、(落とされた恨みからダハーカはルカによって輪切りにされた)、折れた塔の先端を渡ってヲルバを目指す。
「ヲルバの郷ってどんなところなんですか?」
「えーっとねえ、緑が多いかな? いいところだよ、みんな気さくで明るくて」
「そうそう、海に面してるから飯も上手いしな」
「そりゃ楽しみだ。下界に来て以降、飯は惨憺たる有り様だかんな」
「おいおいサッズ、そりゃ誰への皮肉だ? ああ?」
コクーンと下界では好まれる味覚が違うこともあり、ルシたちは実は食卓事情となると揉める。ファングとヴァニラは濃い味付けを好み、ライトニングとホープは薄い味付けを好む。スノウとサッズとルカは中間ぐらいが好み。共にした食事はまだ数度だけれど、どんな食事を作っても全員が満足することがなかった。
ともあれ、皆一様に期待に胸を躍らせた。ファングとヴァニラは数百年経っているとはいえ懐かしい故郷に、ライトニングたちは新たな希望に。
けれど――。
「真っ白だ……」
「い、色が……ない……」
塔の外に出た瞬間、彼らはあまりの光景に声を失った。
少しだけ先に見えるヲルバの郷は不可思議な灰で真白に染まり、完全に亡都と化していたのである。
会話する余裕もなく、皆呆然と、郷を目指しただ歩いていた。どんなに近づいても、靄がかかって真っ白で、あまりにも生気のない町だった。
近づくにつれて、その白い靄が、クリスタルの粒子であることがわかってくる。足元に積もったそれをつまみ上げてみれば、細かくなっても複数の角をもつ結晶なのだ。
「そんなにたくさん舞ってるわけじゃないですね。遠くで見たときに比べれば……」
「吸い込むのよくないよ。総員口を庇え」
「一体どういうことだよ……ヲルバに何が……」
「……ファングたちがコクーンに来たのがいつなのかは、記録もないしわからないけど、黙示戦争のときだったなら、少なくとも六百年以上前だから……」
「私たち……本当に、そんなに長く眠ってたの……?」
ヴァニラが唖然としてつぶやいた。彼女の顔に浮かぶ困惑。郷がこうなったのは、昨日今日の話ではない。あきらかに、放棄されて長い時が過ぎている。数十年、あるいは数百年が。建物はどれも、支柱を残して半壊あるいは全壊していた。
「にしたって、こりゃあよ……」
「みんな私の幻想だったってのか……? 烙印を止める方法だって……!」
サッズのため息に続け、ファングが悲痛な声でそう嘆いた。ルシたちは掛ける言葉もなく黙りこんだし、ルカにとっても受け止めがたい現実だった。
ルカは、本当に、ルシの呪いを解く方法が知りたかったから。コクーンを出る直前、シドが死んでしまうまで、目的地はここだったのだから。
「そう。……たどり着いても、無駄だったんだね」
もう今となっては、絶望する資格も己にはないか。わかっているから、傍らでふらついたヴァニラを支える。
「あ、ありがとう……」
「ううん。気にせず頼って」
「う、うん……」
たどり着いても無駄だった。腹が立つ。結局、どこまでいっても、自分は踊らされている。
「でも、まだ道はあるかもしれない」
しかし、スノウが唸るような声でそう言った。彼が本当にそう信じているかは疑わしい。けれど希望は捨てきれないのだと、そんな想いも感じられる声。ホープも続けて、努めて明るい声を出した。
「そうですよ。僕達みんな、自分で決めてここまで来たんです……最後まで、確かめましょう」
「ああ、諦めるにはまだ早いさ。……いくぞ」
ライトニングもそれに乗った。ルカには、彼らの言葉が全くの本心とはとても思えない。諦めたいと、もう楽に死んでしまいたいという考えがゼロだなんて思わない。
けれども、まだもう少しだけ歩ける。もう少しだけ頑張ってみよう、そういう気持ちの繰り返し。そういえば、それはこの旅の始まりからずっとそうだったような。
諦めるには、まだ早い……か。ライトニングの言葉を、ルカは内心繰り返す。ルシたちにとってはそうかもしれない。けれども皮肉なことに、ルシですらなくタイムリミットのないくせにルカはもう、ほとんどを諦めている。
もう諦めてる。情けないことだけど。
「……ただいま……」
ようやっと郷に足を踏み入れ、ヴァニラが小さくつぶやいた。彼女を支えているルカには、その声がはっきり聞こえた。郷は完全に廃墟で、徹底的に滅び、歩くたび澱のように積もったぬるい空気が水たまりのように捌けた。
「ヴァニラさんたちの家は?」
「みーんな、わたしたちの家だよ」
ホープの問いにヴァニラは両手を広げて答えた。この村全てがヴァニラとファングの家……それは壮大な話だ。
村の中を散策しながら、ファングが懐かしげに目を細める。
「みんな一緒に暮らしてたんだ。一緒に飯食って……狩りもした」
「大家族だな」
「なんか、学生時代の寮を思い出すよ」
もっとも、ルカの所属していた寮はあからさまに核家族化が進んでいて、基本的に孤立主義だったが。食事さえ全員一緒ではないことがほとんどだった。ルカが不在にすると誰も一緒にご飯食べてなかった。つめたい連中だったな、今になって思うと。
探索のさなか、異跡の探査ロボットを見つけたり、人の生活の痕跡を認めることもあったが、結局人間は一人として見当たらなかった。いくつかの建物の中を調べてまわり、なんの収穫を得ることもなく、全員、言葉もなく外へ出た。郷の先には海が広がっていたが、物悲しい薄灰がどこまでも続いているだけだ。波濤の気配すらなく、潮のにおいもなく、どこまでも生気がない。
たぶん全員、脳裏には諦めの言葉ばかりが浮かんでいただろうが、ファングとヴァニラの心を思えば軽々しく口に出せるものでもない。誰かが口を開くのを待つような、そんなこと永遠になかったらいいと祈るような心持ちで、一縷の望みに縋るように、砂浜へと向かう。もう調べていないのは郷の奥、砂浜へと降りる階段のあたりだけだった。
だが、その階段に近づいたときだ。ふと、いやな臭いがした。……腐敗臭だ。胃の奥がすっぱくなるような気持ち悪さ。錆びた血の臭い。数日で慣れきってしまった、けれどいまだに鮮烈なその臭いの理由は。
「……え……?」
何かがぎしぎしと、砂を擦らせて歩いてくる。浜を踏みしめ、四肢を振り乱して。
ルシたちもルカも驚きつつ、反射的に武器を構える。嫌な気配が膨れあがり、侵食してきていた。ゆっくりと姿を現したのは、果たして――シ骸であった。
「何でシ骸が……!?」
「ファルシが近くに居たってことでしょ、そんでルシにしてシ骸にしたってことだよ……!」
「じゃあダハーカが? 何で……何でシ骸になんて……それに、郷はこんな様子なんだよ!? 人間なんて最近まで居たはずないよ! どうやってルシなんか……つく……る……」
ヴァニラは自分で言いながら答えに気がついたようだった。
そうだ。ヲルバの郷は明らかに、もうずっと昔に滅んでいる。おそらく十年や二十年ではない。もしかしたら六百年前か。有り得ないとは言えない。
もしそうだとしたら。この郷が滅んだのが、黙示戦争当時だとしたなら……このシ骸になっている人間というのは。
「嘘だろ……郷のみんなかもしれないってのか……?」
ファングが震えた声で問い、誰かが息を呑んだ。答えは誰も持っていない。
「おい嘘だろ!? 嘘だって……嘘だって言ってくれよ!!」
「落ち着けファング!!」
ルカはよろめいて武器を取り落としそうになるファングの腕を掴み必死に引き戻した。目の前のシ骸はとうにルカたちを標的にして、確実に近づいてきている。今正体を失くして取り乱せば、待つのは死。
「そうです! ……今わかるのは、もう倒す以外に道が無いってことだけです……僕らにとっても、彼らにとっても」
「シ骸になったらもう戻らない……ってか」
サッズが噛みしめるように言う。シ骸と対峙するたびに思い知らされることだった。そも、最初に、シ骸になったらもう人間には戻れないと教えてくれたのはヴァニラとファングだ。彼女たちはコクーン育ちの仲間たち以上に、その事実を理解している。
「戦うしかない。……ファング、戦えるか」
「やるしかねえんだろ……それなのに、聞くなよ」
ファングが歯噛みして、槍を握る。他に道はなかった。
シ骸は死ぬと粉のように解け、風に溶けて消えてしまう。もともとが死体のようなものだからなのか。上位存在によって変容させられ、限界を超えて無理に動かされた肉体は、命なくして形を保てない。
元に……元の“誰か”の死体に戻ってくれたらよかったのか、それとも原型を保たず結局正体のわからないまま消えてくれてありがたかったのか、ルカにはわかりかねる。誰にも決められないことかもしれない。
「さあ……行こっか。郷の奥を調べにいかなくちゃ……」
ヴァニラが言う。誰も口を挟むことはできなかった。
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