16


 スノウはまだ意識が戻らない。ライトニングは彼の近くでナイフを弄び、ファングは完全には理解できないないなりにテレビのニュースをチェックしている。
 ルカは椅子に凭れ、天井に視線をやり、しばし目を閉じていた。潜伏が知られないよう、間接照明だけを灯した部屋は軍宿舎のようで、少し落ち着いた。まだ思考がぐるぐると逸っている。過集中だ。戦闘時はそれでいいが、休めるときにはできるだけ迅速にこれを鎮め、休息を取ることが肝要である。呼吸をできるかぎりゆっくりにして、ルカはしばらくそのまま動かずにいた。
 考えるな。何一つ。己に命じることはそれだけ。己の体は、脳が下す命令に従うことに慣れている。欲求ではなく、理性が求めるように。すべての音が遠ざかる。リラックスなどできないと強情に騒ぐ脳の細胞を強制的に落ち着かせる。外界のすべてを完全に遮断するのだ。仄かな灯りも、衣擦れの音さえも、ルカの脳は反応できなくなる。

 しばらくそのまま耐え、ようやっと心臓の鼓動が高鳴ることも、思考がマイナスに寄ることも、強迫観念に駆られることもなくなった頃、ルカはゆっくり目を開く。眠ってはいないが、短い時間の仮眠を取った後のように頭はすっきりしている。多忙を極め、かつ部下の命を預かる指揮官には必要なスキルなのだ、頭の迅速な切り替えというのは。
 視線をゆっくりめぐらせれば、ルカが頭を休め始めた前と光景はなんら変わっていない。スノウは眠ったまま、ライトニングは何事か考え込んだまま、ファングはテレビにかじりついている。廊下の向こうからバスルームの開く音がした。まずはホープがシャワーを使い、それからライトニングとファングが、それから更に時間があるようならルカがという順で借りる予定になっていた。ホープが髪を拭きながら戻ってきて、ファングを呼ぶ。それを無言のまま、ルカは視線だけで見るともなく見ていた。
 と、バルトロメイ・エストハイム、すなわちホープのご尊父どのが、己をじっと注視していることに気がついた。敵意ではなさそうな、しかし苦々しさの混ざった視線である。ルカ率いる第九部作戦室、通称ファルシ運用室と彼との間に起きたことを思えば、ルカ一人叩き出されることもありえなくはなかった。彼は心が広い。

「……君が、ルシ一味とは。皮肉なものだ……」
「そうでしょうかね? 壮大な茶番の香りはたしかにしますけど」
「君は、熱心な拝ファルシ主義者なのだろう。そんな人間さえ、ファルシは呪うものなのか……?」
「そいつぁ、全く、唾棄すべき誤解ですわねえ……」

 ルカは笑みを深める。コーヒーをもう少し頂いても? と聞くと、彼は手で自分で注いで構わないという旨を表した。ありがとうございます。

「……ルカ。今、聞き捨てならない言葉が聞こえたんだが」

 いい豆は美味しいなー、コーヒーに凝るほど家に居なかったからなあ。ルカはテクノクラートの楽しみにこれ幸いと興じつつ、積極的にカフェインを摂取する。果たして眠れるのはいつになるやら、わかったものではない。

「無視するとは、いい度胸じゃないか……」
「あだだだだッ痛い! アイアンなクローはやめて! なんですぐ実力行使に出るの、外交の一歩目は話し合いでしょ!?」
「お前がそんなことを語れるタマか! 兵士を片っ端から奇襲かけて殺し回ったのは誰だ!?」
「日頃の恨みだよ!」
「……まさか私怨で? 本気で言っているのか?」
「嘘だよ……恨みを抱くほど、一兵卒のことなんて知りもせんわよ……」
「まあ……それもそうだろうが」

 ライトニングはルカの頭を掴んでいた手を離し、短いため息を吐いた。それから、ルカの隣の椅子に座り、少し距離を置いてルカを見つめた。そこに警戒心があることは間違いない。

「それで。お前は、ファルシの信者だったのか」
「ちゃうわい。そんな単純な話じゃない。……あー、えーと、エストハイムさん。私の側からの事情を、今すべてお話してしまってもよろしいですか」

 あなたのお仕事にも、触れることになりますが。
 バルトロメイは、険しい表情で首を小さく縦に振った。

「わかりやすいように話すけど……そういうの苦手だから、雰囲気で察してね。ええと、まずこちらのホープくんのお父様は、お仕事は経済学者をしておられる」
「そんなに立派なものではないがね……」
「ご謙遜を。ええと、それで……もう、二年は前のことになりますか。氏の論文が、とある経済誌に載るのを、私が金と脅迫で木っ端微塵に叩き潰したのね」
「はあ。……はあ?」
「いわゆる汚職ですがな」
「いや……意味はわかる。だがまさか、本当に? 聖府はそんなことをしてもいいと、本気で考えているのか」
「いいわけあるかすっとこどっこい。脅迫なんざ市民にバレたら大変なことになるわぁ。聖府でもそんなのは、まあタブーだよ。賄賂や裏工作は当たり前でも、脅迫だけはほとんどしないねえ」

 被害者側に証拠が残るのはまずい自覚はあるんだわあっはっは。笑うルカの方へ、ファングをシャワー室へ案内し終えたのだろうホープ少年も近づいてくる。

「僕もその話、……聞いていいですか」

彼の目にも敵意が宿っている。当たり前のことだ。「もちろん。おいで」ルカは慈愛じみた笑みで、それを受け入れる。彼はルカの正面の椅子に腰掛けた。四人がけのダイニングは、それで埋まる。

「あのときはまあ、手がかかったものよ。雑誌の編集社はまあ、金で黙った。経済誌とはいえジャーナリズムはあるとか言う編集長は息子の進路をちらつかせて、黙らせた。聖府に睨まれてりゃ、才覚もない若造は絶対にエリート街道には乗れんがここで従うなら別だ、とね。これはいわゆる賄賂だな。問題はエストハイムさんだ、ここがだめなら他の雑誌に、そこがだめなら更に他へ……全ての雑誌に話を持っていくと言う。金も賄賂も通用しねえ、なんたって本人が清廉潔白でまっとうな高給取りだし。奥さんも専業主婦、息子の成績も優秀とくれば送る賄賂がない。できたのはちょっとした脅迫くらいだ」
「……妻と息子の命の危険をちらつかせるのは、ちょっとした脅迫なんて言葉じゃ済まないと思うがね……!」
「なッ……!?」
「おいルカお前それはどういうことだ!」

 ホープとライトニングは血相を変えて、ルカを見た。ルカは遠い目をするばかりだ。その顔に、反省や後悔の色はない。
 当然だ。ルカは何一つ、間違ったことはしていないと断言できる。

「父さんは……何を、発表しようとしてたの」
「……聖府の癒着の可能性を、示唆するものだ。聖府と公式でも噂でもつながりのある企業が倒産に傾くと、市場が乱れることの因果関係を記した、ただのレポートに過ぎない。論文と呼べるほどのものではないよ」
「その程度のことで……ッ!?」
「ま、恐怖を煽ったことは確かだねえ。君のことは覚えてなかったけど、君の成績表とか、学校での写真とか、奥さんが買い物してるとこの写真とかを送りつけたのは確かだよ。見張ってるぞ、的なアピールとして」

 がたんと椅子が蹴倒され、同時にライトニングがルカの胸ぐらを掴み上げていた。その目に怒りが滲んでいる。彼女にとって、現状最も庇護すべき対象となっているのがホープなのだから、当たり前だった。

「お前、そんな汚いことを……ッ!!」
「まあまあ聞き給えよ。この話は、あなたがた三人の全く予想外のところへ着地すると約束するから」

 そう言えば、ライトニングは一瞬ためらったのちに手を話す。ルカは乱れたネクタイを結び直しながら、バルトロメイに視線をやり、「釈明の機会に恵まれたのは勿怪の幸いでしょうかねえ」と漏らす。自分でも不思議なほど、声が穏やかだ。
 思えばルカはさんざん汚職も働いて生きてきたけれど、その説明を誰かにできたことがなかった。誰にも理解などされなくていいと心底思っているつもりだったけれど、荷を下ろせることは己にとっても幸いなのか。

「エストハイムさん。あの論文……レポートねえ、全く完全に、大正解なんだわ。聖府の市場操作を裏付ける証拠に成り得た」
「……やはりか。あの脅迫から、確信していた」
「市場操作なんてことをしてるのも、私の友人なんでね。うん、あの子は経済にも目端が利くから。美人だしかわいいし頭もいいし、才媛と名高い理由もよくわかる」
「友人自慢は後にしていただけるかね」
「あっはっは、失礼」

 ともかく、とルカは椅子に座り直す。

「問題はね、これまで長い間、聖府とファルシのキナ臭い事情について首を突っ込んだ人間は、数年以内にかならず病死していることなんですよね」
「……なに?」
「事故死って例もあるけど、一番多いのは病死だね。強盗に襲われたなんてことも、まあ稀にあったかな……」
「それはつまり……聖府はそこまでするというのか? あのままならば、私は聖府に消されていたと?」
「はは、それはないですね。だって、殺してしまえば告発は事実だと認めるようなモンですよ。それに、いくら聖府でも、人間を難病にゃあできないなあ。毒を使ってできないこともないかもしれないですが……コクーンの名医はちゃんと気づくでしょうからね。やっぱ無理ですよ」

 だからね、殺してんのはファルシですよ。

 ルカがあまりにも事も無げに言ったので、一瞬誰も反応できなかった。最初に我に返ったのはホープで、呆然とした顔で「本当ですか」と問う。

「別に証拠があるわけじゃないけど。でも、これまで健康だった人間が、高い医療技術でもどうにもならない難病にとつぜん罹患するなんてこと、そうそうないよね。おそらくファルシが殺しただろうって、こちらが数えてる人間は過去百年遡った結果、最低でも百五十六人いたよ。確実だと思ってよさそうな被害者だけでもね」
「ひゃ……ひゃく、ごじゅう……」

 ホープは驚いた顔で復唱した。信じられないという顔だ。ルカはこれから、もっと信じられない話をするというのに。

「まあ、ファルシが人間を病気にできるのかって疑問が当然湧くとは思うけど……実はそれもね、おそらく理屈は違うんだな。ファルシが人間に擬態して、紛れることができるのを知っている?」
「なんだと?」
「荒唐無稽に聞こえるかもしれないけれど、私は少なくとも一度、それに遭遇している。全く恐ろしい技術だ、前知識がなかったら疑おうとも思わなかっただろう。……そして、その技術を使えば、難病になるのなんて簡単なんだな。姿を自在に変えられるし、人間になりきれるんだから。被害者を秘密裏に殺し、成り代わって、少し時間を掛けて病気になって死んだように見せる。ついでに最後には、聖府が疑われないよう医療技術を駆使して、家族やら友人に“聖府は悪くない、助けようとしてくれた”なんてイメージまで残して、騒ぐことを防げる。十中八九、こうやって奴らはこれまでずっと人を殺してきたよ」
「そんなことが……有り得るのか。……そんな、馬鹿なことが……」

 バルトロメイは顔を青くして黙り込んでしまった。自分がどんな瀬戸際にいたか、わかってもらえたなら有り難い。

「我々としては、これ以上一人だって、有能な人間を殺してもらうわけにはいかないんだよ。ファルシと戦争をするにはね。経済についての理解が深い人間は、ファルシ亡き後の人の世には絶対に必要でしょう」
「ファルシとの戦争だって? ……ルカ、お前、まさかとは思うが……」
「下界のルシなんて騒動が起こる前からファルシと戦っていたかって? そうですとも。そして、私達はこれから、そのボスに会いに行くわけね」
「……それが、騎兵隊なのか。じゃあルカ、お前は最初っから、ルシ側の人間だったのか……!!」
「だから積極的にPSICOMの兵士を殺すんだよ」

 にっこり笑って、ルカが頷く。実際はルカの心臓がPSICOM側で二人して中佐なんてやっているためそこまでシンプルな対立構造ではないが、今は概ねその理解で正しい。

「まったく、工作と諜報のためにPSICOMに入ったのに、異例の大出世かましちゃうんだから自分でも驚きよ。ファルシが“手間”を省いたことへの褒賞として手を回しているのか。いずれにせよ、汚職で成り上がった将校として同輩にまで疎まれる始末だぜ? そんなだからPSICOM内には仲間もいなくて、挙句の果てのパージ対象なんだからもうやってらんね」
「まさか……では、君は、私を守ってパージされたのか!?」
「えっ!? あー……いや、すいません、そういうことではなくて。まあ、身内と思ってる相手にさえ、本当のことを話せないのは心苦しかったなって、それだけですよ。守ったといっても、相当に恐怖を与えたことは間違いないので……本当に、申し訳ありませんでしたね」

 ルカがそう言って頭を下げると、バルトロメイ氏は暫時の空白の後、「全くその通りだが」と静かに口を開いた。

「本当のことを話してくれたとしても、私は何を戯言をと信じなかったかもしれない。結局君は最善の方法を取ったんだろう。結果がどうあれ誠実に取り組むことにこそ価値がある、なんて子供には教えるしそれも真実だが、それは誰も反則技を使わない前提の上でしか意味のないことだ」
「相手がファルシである以上、フェアな戦いなど望むべくもないことです」
「……もし、君が私に悪いと思うなら……」

 バルトロメイがそう言ってちらとホープを見たときだった。ホープがルカの手許を見て口をあんぐり開けていたので、バルトロメイも面食らい、言葉は途切れたままになった。

「ルカさん、それ……! 今気づきましたけど、結婚してたんですか!?」
「はあッ!?」
「何だって!?」

 廊下から声が聞こえる。どうやらルカたちが話し込んでいる間にファングもシャワーを浴び終えたらしい。濡れたままの髪を揺らして、ファングがリビングに駆け込む。それとほぼ同時、ライトニングがルカの左手を掴んだ。ライトニングが見つめる薬指には確かに、指輪が嵌っている。

「いやあの、違う。結婚じゃない。婚約してるだけ」
「十分重大事だろうが……。……その、災難、だな」
「ですね……」
「ああ……私のためになんということだ……」

 事態を重く見た三人が全員、それぞれに顔を曇らせた。ファングはといえば、一体何が話しの引き金になったかわからずちらちらと覗き込んでくる。
 ルカは渋い顔をして、「大丈夫だから」と言い訳をした。

「相手方も、ほぼほぼ状況把握してるし。軍人だから」
「……ちょっと待て、さっきの……ロッシュ中佐か? だからあんなに狼狽えていたんじゃ」
「違う違う違う。っていうかだとしたらさすがに私可哀想では? 婚約者だったらさすがにあそこまで気軽に切り捨てられたりしないと思うよ。あいつはそういうことできないよ、どっちかっつうと心中とかしそう」
「じゃあ誰だよ? っつうか、事情把握してるとしても、会って話さなきゃならねえんじゃねえの?」
「あー……まあ、それはおいおい……」
「お前本当にそいつのこと好きなのか?どうでもいいって顔に書いてあるぞ」

 ファングが呆れ果てた顔で言う。君はそれ以前に髪を乾かしなさいと言って言い逃れる。
 ルカは唇を窄めて、プラチナのリングを掴みぐりぐり回す。焦げ付いた跡が少しばかり散見された。

「こんなことはどうにでもなるさ。実際結婚してるわけでもないんだし」
「……お前がいいなら、いいが。婚約者なんて言っても、色々だな」

 額に手をやったライトニングがちらとスノウのほうを見やる。そういえば、彼は彼女の妹と結婚すると喚いていた。片やルシになったって絶対必ず結婚するぜラブラブカップル、片やルシになっても婚約者のことを気にも留めないルカ。両極端ではある。

「そういえばファング、下界にはこういう習慣ないんだね。ヴァニラこれ見たけど気付かなかったよ」
「ん? ああ……そうだな。下界だと、郷によって求婚の仕方も違うからもしかしたらあるかもしんねーけど、私は聞いたことない」
「……状況を把握している、とは言ったが、それでも、連絡はしたのか。していないのだろう? それなら今すぐにでも連絡するべきだ。こんな状況で、何があるかわからないんだ。次の連絡が君の訃報だったりしたら、相手の方も……」

 話を変えようとしたルカだったが、未だ暗い顔をしているバルトロメイに差し戻されてしまった。それこそ奥方の訃報を聞いた直後だということもあり、神経質にもなるだろうが。
 ルカからすれば、連絡など今となっては不要なのだ。これからどうせ、会いに行くのだから。突っ込んで聞かれたら面倒くさいかと明言していなかったが、もう言ってしまおうか。これから迎えに来るその騎兵隊の主が、婚約者なのだと……。
 そう思った瞬間だ。「うう、」スノウの短い唸り声が聞こえ、全員がぱっとそちらに意識をやった。最初に駆け寄ったのはライトニングとホープだ。和解した瞬間有効的になったところを見ているとからかいたくなってしまうが、水を差すようなので耐える。

「う、う……義姉さん、ここは……」
「いいから寝てろ」

 起き上がろうとじたばたするスノウに起きるなと命じ、ライトニングは改めてスノウの近くの椅子に座り直した。

「義姉さん、まさかここは……」
「ああ、ホープの家だ」

 ライトニングの答えにスノウは表情を険しくさせ、無理矢理に体を起こした。痛むのだろう、耐えるように歯を食いしばっている。ライトニングが押し留めようとしたが、「ホープの親父さんに話さなきゃいけないことがある」と言って聞かない。ルカとファングも見かねて、とりあえず今は寝ていろと説教するも、頑固な彼は首を横に振るばかり。
 と、その背後に声がかかる。「あの、」

「父さんが、話したいって……」

 ホープが僅かに躊躇うように言ったので、ライトニングも制止するわけにはいかなくなったようだった。ルカもここへ来るまでの道すがらライトニングから聞いたことに過ぎないが、彼女から聞いた話では、スノウがホープの母の死に関与しているのは間違いなさそうだというのである。もちろんこの好漢が自ら望んでそのようなことをするわけがないから、よほどどうしようもない状況だったことは想像に難くないが、ホープがスノウへの復讐を拠り所にしていたらしいことを聞けば、バルトロメイも多少なりとも似た感想を抱くのかもしれない。

 けれど、スノウは迷いなく、バルトロメイ氏のほうへ足を進めた。

「俺の責任です。すみませんでした!」

 そして、彼は膝をつくと、額を床に擦り付け、謝罪する。あまりのことに、ライトニングもルカも言葉を失った。大の男が本気で謝罪する場面には、なかなか出くわすものではない。

「スノウが居なかったら、帰ってこられなかったんだ」

 うつむいて、手で顔を覆う父親に、ホープが庇うようなことを言う。それを聞いて、ゆっくりと氏は顔を上げた。

「スノウ君。妻は……ノラは、何か言っていたかね」

 氏の声に、スノウも顔を上げ、「ホープを……ホープ君を、頼むと」と返す。バルトロメイは息子に視線をやる。ホープはただ頷きを返した。それが真実なのかどうかは、もはやスノウ以外にはわからないが、少なくともホープはスノウを信じているのだ。
 バルトロメイは一瞬だけ強く目を閉じ、深々息を吐き出すと視線をスノウにやり、床に膝をついて姿勢を正す。そしてそのまま、深く頭を下げた。

「息子が、お世話になりました」

 ルカは目を細め、それを見守るのみだ。もし彼がスノウを責め立てるようならば、ルカは彼を挑発してルカに、ならびにPSICOMに怒りを向けさせる気でいたが、不要だったようだ。
 思えば、奥方の死を聞いた時点で、バルトロメイにはルカに怒りをぶつける道もあったはずだった。けれど彼はそれを選ばなかった。ルカのことも、スノウのことも、等しく被害者として見ているからだろう。

「……こうして面と向かっていると、君たちをコクーンの敵と信じるのは難しいね。だが、世間は君たちルシを……いやルシだけじゃないな、手を貸した人間、血縁……極端な話、すれ違っただけの人間ももうパージすべきと考えている」
「聖府はファルシの言いなりなんだ! ファルシは、俺たちの命なんてなんとも思っちゃいない。俺たちが止めます。聖府を倒して、コクーンを守ります!」
「……倒して、いいのかね」

 バルトロメイの神妙な顔と苦しげな声音に、スノウは言葉に詰まってしまった。妻を奪われた氏なら賛成してくれるはずだと思ったからか、それとも疑問符を上げられたのは始めてだからか。

「ルシが聖府を倒したら、皆ますます下界を恐れるよ。今度は怯えるだけでなく武器を取って、自ずからパージを始めるだろう」
「市民みんなでルシ狩りか……」
「じゃあどうしろってんだ!? ルシは黙ってやられろって? 他人事だと思って……」

 ファングはそういきり立ったが、氏が「他人事じゃないさ」と苦笑したことで気がついたらしい。先程バルトロメイ本人も言っていた。ここまで手を貸したら、彼もパージ対象だ。まして、息子がルシなのだ。他人事であるはずがない。バルトロメイは顔を上げ、ちらとルカを見た。

「大佐、君はなにか考えがあるんじゃないのか。君のような人が、ただ流されるままにここまで来たとは思えないし……先程も、最初から明確にファルシと戦っていたと、そう言っていただろう」
「……そうですねえ。まあ、なくもないですけれど。最終的にはなるようにしかなりませんって」
「無責任だな」
「どちらを選ぶか、でしかないんだよ。このまま諾々と、ファルシの意に反した人間が裏で狩られているのを黙認して生き続けるか。一縷の望みを掛けて戦うか。……ま〜でも、一つ我々の考えを言えばね、相互利益を生むわけでもない異種生物の共存関係なんざ有り得ねーのよ。まして、ただ共存するだけなら、ファルシはちと用意周到すぎるしね」

 これがただの疑念で終わるならばいいけれど、ファルシが人間を利用してなにかの利益を生むことを考えているんだとしたら。“最後には何が待っている?”
 彼の言葉を、いつになく滲んだ不安の色を、ルカはよく覚えている。まったく、そうだ、この物語はどこへ向かっていて、最後には何が待ち受けているのだ。PSICOMの一兵卒に穴だらけにされて終わるのだけは無しな、ノー・ドラマでは価値がない。
 ルカはため息を吐いて、バルトロメイを見つめ返す。

「いずれにしても、あなたを保護しなくては。まあ、私達のことも、迎えに来るんでしょ。ならなんとかならぁ。でもホープくん、これでもう後戻りできなくなっちゃったね」

 突然水を向けられたホープが、少し驚いた顔でルカを見上げた。「何が、ですか」問う声にルカは笑いかける。

「人間は自分のことは諦められても、大事な他人は諦められないもんだから。御父様がルシに協力した反逆者一味になってしまった以上、やはり“反逆”という言葉そのものをひっくり返すしかあるまい?」
 勝てば官軍、ってか。
「それは……もう、今更です。僕は、とっくに諦められません」
「ふふ。自発的な覚悟と、追い詰められたからこそ生まれる覚悟は、全く質が異なる」
「……やっぱり、帰ってこなければよかった、ですかね」

 ルカの言葉にホープの瞳が僅か、翳りを帯びる。しかしバルトロメイがさっとその肩を掴んだ。

「お前の家はここだ。これからどうするかは、みんなで考えようじゃないか」

 その言葉にうなずくホープは、年相応に見えた。
 そして直後、屋根の上を踏む、消音性ブーツの微かな足音を聞き、ルカは舌打ちをした。「来やがった」ファングが呟き、ルカも頷きを返す。
 手練が来るのは嫌だけれど二流が来れば腹が立つとは、これいかに。

 天窓が割れる。兵が二人降りてくる。「ふんぬ」のを、ルカは躊躇いなく着地で潰す。一人は頭を壁に打ち付けて昏倒したので、もうひとりの腕を掴んで捻りあげ拘束する。が、カーテンの引かれた大窓が同時に割られ、そこからも二人飛び込んできた。ルカは押さえつけた兵がまだ生きているので対応できないと見て、スノウが傷口を押さえ飛び出そうとする。

「ホープ、奥に親父さんを……!」
「その傷じゃまだ無理です!……僕が、残ります。父さんを頼みます」

 ホープの声に、スノウは一瞬驚きながらも頷き、バルトロメイを連れ背後に消える。ルカは押さえつけた兵の体を引きずり盾にした。立て籠もり犯の掃討を専門とする駆逐兵は銃を構えるが、撃ち込んではこなかった。馬鹿め、とルカは微笑む。

「いいことを教えてやろーう、勝負ってのは最初の攻撃を決めた奴が勝つ」

 首を締め上げられて動けない兵の首をぎち、と捻る。「あと、強い奴が勝つ」ほとんど同時、ライトニングとファングが飛び出した。駆逐兵はすぐさま応戦の射撃を行うが、ホープが唱えたプロテス魔法が薄く膜を貼り、銃弾を弾く。ファングの槍が一人の胸を装備ごと貫き、ライトニングの斬撃が一人を屠る。ルカは足元に転がり気絶した兵の頭を蹴りヘルメットを外すと、銃剣の銃弾を撃ち込んだ。全員が即死である。

「たかが四人で来るわけがない……戦力の逐次投入もあり得ない。とくれば、ただの陽動、偵察と確認だけか。捨て駒だったか……」
「……あ。来てます。飛空艇です」

 ホープが声を上げると同時、外でバタバタと、整った足音がした。囲まれた気配がし、ルカは目を伏せる。つまりは、“手練”が来たわけだ。良い兵を連れている。その割に、捨て駒なんて作戦を使うとは、己も彼を読み切れていないらしい。あるいは、あの程度でも葬れると勘違いするほど、ルカが見縊られているか。

「ったく、奴らが遅いせいで……もうこっちから連絡したるか」

 コミュニケーターを取り出し、ピピピと起動。電源が入れば、すぐにメニュー画面になる。短縮の一番を呼び出す。

『なんだ』
「遅い!! なにやってんすかもう!! 早くしてくださいよ!!」

 ブチン。それだけ言って、電話をたたっ切る。それを見てファングが顔色を変えた。

「おいッ、誰だよ今の!」
「ファングも会ったでしょ。リグディのボスだよ」
「はあ? ……レインズか? 知り合いなのかよ」
「知り合いっつうかなんつうか。家主?」
「やぬし!?」
「空から降りてこないから代わりに住んでる。奴の家に。……それより、やばそう。家ごとふっとばされるなら、さすがに打つ手がない。ホープくん、地下とかないよね……」
「ありません……」
「とりあえず、固まるぞ。また分断されたらことだ。おい、スノウ! もう戻っていい」

 ライトニングの声に従い、スノウがバルトロメイを連れて戻ってくる。死体を見てバルトロメイはうっと顔を顰めたが、それどころではないと見てホープの傍に寄った。
 ルカ、ライトニング、スノウは割れた窓の近くに身を隠し、外を眺める。兵は大量に並び、こちらに銃口を向けている。動きがあれば人間だろうがなんだろうが撃つつもりなんだろう。神妙な顔をしたスノウが、誰も頼んでもいないのに「俺が行く」などと言い出し、己のコートを窓の前に差し出して振った。コートは一瞬で穴だらけになった。

「スノウ!?」
「やめときなよスノウくん、ここは私が……」
「撃つな! お前らに、ルシの正体を見せてやる!」

 スノウはライトニングとルカの制止も聞かず、外へ声を張り上げた。数秒待ち、銃弾が飛来しないのを確認すると、スノウは両手を顔の横に上げ投降するかのように外へ体を押し出した。赤い照準がスノウに集まるのを見て、ルカは息を呑む。

「見ろよ。これがルシだ。どうだ、化物でも何でもねえだろ! お前らと同じ人間だ! コクーンで生まれ育った人間なんだ! わかるか、コクーンは故郷なんだよ! 滅ぼしたいわけがあるか! コクーンを守りたい気持ちは、お前らと一緒なんだ!!」

 その言葉に兵がたじろぐ。ルカは目を細めた。ルシ以上に、間違いなくただの人間である市民を虐殺しておいて、この期に及んでそれか。揃いも揃って覚悟のない連中だ。
 しかし、彼らの動揺の合間を縫って、男がひとり進み出る。ルカは、目を見開く。

「スノウ・ヴィリアース君だったな。私はPSICOMのヤーグ・ロッシュだ」

 来てしまった。このときが。とうとう。笑いそうで泣きそうで、歯の奥が痛くて、足元が抜け落ちそう。胸のあたりが弾けて、いまにも死んでしまいそうだった。

「君の主張は理解できる。だが、下界の脅威はコクーン全体の問題だ。君たちルシが存在するだけで、市民全てが危険にさらされる。スノウ君。君一人の命と、コクーン市民数千万の命。引換にできるか。私にはできない。よって、ルシの処分を命じる他ない。恨むなら、私を恨め」
「ふざけんな! ルシが邪魔ならルシだけ狙え! 関係ない人たちを巻き込むな! 今すぐパージをやめろ!!」
「好き好んでパージを行っていると思うのか!? 下界の脅威を取り除かねば、民衆の恐怖は抑えられん! 犠牲を払ってでもパージを断行せねば……コクーンは死ぬ!」
「……ぷくはっ」

 吹き出すと隣でライトニングが、テーブルの向こうでファングが動いたのがわかった。ルカと彼の間にあるものが看破されているかなどわからないが、少なくとも何かしらあることだけは知られている。
 大丈夫大丈夫、そう笑って手を振り、ルカは立ち上がった。ここで行かず、どこへ行く。ルカが立つべき矢面だ。

 外へ繋がる割れた窓をくぐって、顔を出し、スノウを押しのけ家の中へと戻す。

「おまたせしましたルカさんでーすお元気? 顔色わっるいわねえ、ちゃんと寝ないとダメですよー」

 場の空気を叩き壊したことは言うまでもあるまい。ヤーグの微妙すぎる表情に、ルカはにっこり口角を上げて笑った。
 エアークラッシャーとお呼び。



13長編ページ
×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -