ラフ・カルテット
AF800~頃?
「ロッシュ!ロッシュ!!」
地下の武器庫から戻ったヤーグは己の名を呼ぶ声に、珍しいほど肩を落とした。驚き半分に気遣ってくる部下はそのままパトロールのため外に向かわせ、自分はその呼ぶ声の方へ向かう。
ヤーグのファミリーネームを叫んでいるのは、いつもなら叫んだりしない男だった。上司でありボスでもある、シド・レインズ。それが叫ぶというのは、五十年に一度もない。
階段を登って最上階へ向かい、奥へと歩いて行く。声がしたのはこちらだったから、今回は多分あの部屋である。一部屋しかない、奥の客人用の寝室だ。扉のすぐ近くの壁に凭れ、苛立ちを隠さない表情で彼は待っていた。
「遅い」
「仕事をしていたんでな。……今日は他の仕事はもうできそうにないな」
「そちらにはリグディを回す」
それだけ言い放つと、その不機嫌な様子のままで彼はヤーグの来た道を歩いて戻っていく。機嫌が悪いのも当然だと言えた。この部屋の中には女が二人いて、レインズ以上に不機嫌なのだから。
ヤーグは己に覚悟を決めさせるために深く息を吐いてから、ノックもせずドアを押し開ける。そこには思った通りの光景が広がっていた。
部屋中に散らばる書類。窓辺の椅子に座り込み頭を背もたれに投げ出すジル。潰されかかっているクッション、ソファで小さくまとまり蹲るルカ。
この二人が不機嫌なのだ。その結果、今日はヤーグの仕事が終わらない。
ジルはごくたまにヒステリーを起こす。それ自体は珍しくもなんともなく、ルカが一人で収めることができるので大抵ヤーグもレインズも関知しない。
ルカは稀に何も言わず引きこもる。これは本当に珍しいが、ジルであれヤーグであれ、レインズであれ引きずり出すことができるので大抵困ったことにはならない。
では、困るのはどんなときか。
その二つが、偶然かなんなのかなぜか重なってしまった時だ。
そういう時レインズには手を出せない。ルカ一人ならともかくジルが入ると駄目だ。まるで同調するかのように鋼の塊と化して、あのレインズの心が折れるまでこの二人はこの状態を続ける。恐ろしい。
「……書類はまとめてあとで私からレインズに渡すからな」
「……」
「……」
そしてこうなると完全にだんまりだ。二人してどこを見ているんだかわからないが、黙りこんで何をするでもなく無為に過ごす。
仕事はたぶん終わらせている。奇妙なことに、そういう二人なのだ。自分の仕事をハイスピードで終わらせて、示し合わせるかのようにこの状態に突入している。と、一応はすでにプライベートなわけだから、レインズが上司として口を出すこともヤーグが同僚として苦言を呈すこともできない。ので、ヤーグは“友人として”ここに来た。
書類を全部拾い終え、束ねて入り口のドレッサーの上に置くと、ヤーグは無言で手を伸ばしジルを立たせた。こちらを見もしないペリドットの目。彼女の腕をとって歩き出し、ついでとばかりに反対の手でルカの腕も掴み立たせる。それは難しいことではない。彼女たちは軽いので、本気を出せばヤーグは片手で持ち上げられる。
ルカが声もたてずそれに不承不承従うのを確認しながら外に出て、彼女たちを伴い下階へ降っていく。
自分たちはまた別の場所に居を構えているが、一方でこの自警団本部に泊まりこむことがあるため、五人で共同ではあるが仮眠用の部屋がある。また、兵士たちのためこちらも共同だがシャワールームがある。ここまでくると自警団というよりちょっとした軍隊の規模に思えるがともかく、ヤーグは二人を連れてシャワールームの前まで歩いて行って、二人をそこに文字通り放り込む。そして外からドアを閉め、ドアの隣の壁に凭れ数十分の暇をどうして潰してくれようかと考えた。と、前を通った新参の兵士が怪訝な顔で「ロッシュさん……?」とこわごわ声をかけてきた。それはそうだ。女子用シャワールームの前で腕を組んで不機嫌そうに黙り込んでいる男なぞどう考えても普通ではない。
もちろんヤーグだってこんなところにいたくなどない、が、これが不思議な話なのだが、あの二人がシャワーを終え外に出た時ヤーグが待っていないと大変なのだ。そりゃもう大変なのだ。今度はシャワールームに立てこもる。と、ヤーグとておいそれと中に入るわけにもいかず、もうどうしようもなくなる。
のでここで待つしかない。不条理だが、あの二人と数百年規模で友人関係を築いてしまったのは自分だからもう諦めるほかなくて。
数十分後、がららら、と引き戸を開け、シャツとスラックスだけの軽装に生乾きの髪で二人が出てくる。表情は変わらない、鬱屈として苛立ちを隠さない。が、ヤーグはもう諦めたので、もういい。手を伸ばして、頭に被ったタオルを取り彼女たちの髪をふいてやる。ジルの髪を優先した結果、ルカは拭ってやっている間ヤーグの足を踏んでいた。なんなんだお前は。
「次は食事だ」
「……ん」
「……うぃ」
おお、やっと返事が返ってきた。今回は回復が早いなと思いつつ顔には出さないで、やはりヤーグは二人の腕を取って歩く。簡易だが食事もできる歓談用の談話室も一階にあって、食事を取ることができる。執務室で食事を取らない人間はここでか、あるいは街中で食事を取るのが自警団の常だ。
シャワーから戻る時間まで計算していたレインズの手によって、近所のデリで購入したらしい三人分の食事が用意されていた。何もかも計画通りなのだ。でないと、やはり途中でこの状態からの脱却が不可能になる。
ヤーグが二人を引きずるようにして連れており、二人がまた無言で腕を引かれているので、それを見て――特にジルを見て、ひそひそと声が聞こえてくる。
あのナバートさんが気だるげ……今日も綺麗……カサブランカさんが静かとかちょっと怖い……ロッシュさん羨ましい……。
それを聞きながら二人の前に食事を並べ、手にフォークを握らせた。二人がもそもそとつまらなそうに食事を始めるのを横目に見て、内心で、悟られないようあくまで内心で溜息をついた。
「(羨ましいって何だ……これのどこが羨ましいんだ……)」
認めよう、たしかにこいつらは、特にジルは見目が良い。見た目は可愛らしい小動物に見えるかもしれない。普段はそこそこ優しさめいた何かを見せるし、時々ヤーグら男共ではかけらも思い至らないようなところにまで思考を進め尖った言葉を放つことがあり、その叡智にはっとさせられることもある。そういう不思議な生き物だ。
だが、可愛らしい小動物ではない。こんなに綺麗な容姿で騙しておいて、過ぎるほど唐突に牙を剥く。
騙されてはいけない。こいつらは、ちょっと見目が良いだけの肉食小動物だ。
「……ルカ。野菜も食え」
「…………」
「おい無視するな」
黙りこくったルカ目掛けて、ヤーグの右側からにゅっと手が伸びブロッコリーを彼女の口に押し当てる。ジルが無言でルカに食えと差し出したのだ。そうなると拒否できないのはこの状態でも変わらないらしく、彼女は不承不承口を開きその緑を受け入れていた。
「……」
「……」
「おい、目で会話するな」
「……」
「……」
ヤーグは沈黙を好む方だが、これは居心地が悪くて困る。どうしたものか。
それでも食事は進む。進むからには、時間がかかったとしてもいずれ終わる。
終わった食事のトレーをヤーグは重ね、そして来た時そうしたように二人の手を取り立ち上がらせる。次は家へ送る必要がある。
とはいえルカの希望やら何やらのせいで、互いに歩いて数秒の近隣に住んでいるので、帰宅も随伴も大して変わらないのだが。
二人を連れて夜道を歩きながらふと考える。この関係は、腐っているのかさえわからないほど長い腐れ縁は、いつまで続くのだろうと。よく続いたなと思う反面で、その長さが怖くもある。
いつもつい考えてしまうことだ。朝起きて顔を洗った直後に、仕事が一段落した後のコーヒーの時間に、眠りに就く寸前に。
この関係に、ヤーグだって依存している。人間性を、アイデンティティーを依存している。ならば、この関係にもしまた“何か”あったら。
そう考えてしまう。そして少し、ほんの少しだけ怖くなる。
それはモンスターと対峙するときに本能的に神経を逆撫でられるあれではない。もっと普遍的で、日常に潜み、当然のように指先を突くような恐怖だ。
この関係が。
この二人が時々こうして拗ねるみたいな、その延長で。
どこかにまたヒビが入ったら?
「(……そのとき私は?)」
分からない。分からないヤーグたちの視界の外で、建物の影が蠢いた。
「……!」
最初に反応を示したのはルカだった。痛烈な素早さでヤーグの腕を振り払うと、二歩で闇に踏み込み回し蹴りを叩き込む。大した敵ではない、せいぜいガップルかそこらであろう。
そう思ってジルを後ろに庇うヤーグには、その殺気は刺さらなかった。あまりにもささやかで、虫けらのごとく矮小な、無意味なまでの視線だったから。別に、ルカに全神経が集中していたわけではない。
しかしそれはともかく、隙であった。
「ヤーグ!!」
振り向いたルカが先程までの沈黙も忘れて名を叫ぶ、それと同時にジルの手元で奇妙な金属音がした。
ジャキッだかガキンだか、ともかく何かの連結がつながる音だった。そして。
「失せなさい」
彼女がぞっとするほど冷たい声とともに振るった刑罰杖は、丈夫な木の皮の鞭のようにしなり、暗闇から襲いかかろうとしていたグレムリンを紙でも裂くかのような手軽さで二つに分断させた。
大したことではない。こんな街中の影の中をうろついている弱小のモンスターが相手取れるほど“易しい”存在ではなかった、それだけだ。
ジルとルカはふっと視線を絡め、諦めたように首を横に振った。お互いに「もういいよね」とでも言いたげだった。
「ヤーグ、帰ろう」
「あ、ああ……」
「今日は冷えるわね」
たった一度の戦闘でリフレッシュでもできたというのか、ヤーグには理解が及ばない。それでも彼女たちの後をついて歩き、自警団本部から大して距離があるでもない居住区の奥、自分たちのアパートへ帰る。
ルカはシドと住んでいるので少々広めの部屋が必要で、反対側のアパートだが、ジルとヤーグは同じアパートに住んでいる。昔ここを見つけたルカが「ここでいいよね?ね?ね?」と契約まで進めていたので、隣同士である。
ルカを部屋に送り届けてヤーグとジルは自室へと戻っていく。そして隣同士、ほとんど同時に鍵を開け、ドアも開く。
「ねぇ」
中に入れば今日という日が終わりへ向かっていくのだと、そういう瞬間にジルはヤーグに話しかけた。
見れば彼女は大して表情の浮かばない綺麗な横顔を向けたまま、横目でヤーグを見ていた。
「いいのよ。ここまで付き合わなくて。いくら腐れ縁でも」
「……気にするな。妙な話だが、私もどうやら好きでやっているらしい」
そう言ってから、「何を言っているんだか」と考える。好きでやっている?さっきまでさんざん、この二人をうざったがっていたのに。
「ルカより犬が似合うわねあんたは……」
苦笑して、すっかり直った機嫌のままジルは部屋へと入っていく。その態度で「ここまで付き合わなくていい」だなんてよく言えるなお前は、と本人には言えないことを考えつつ、ヤーグもまた部屋へと戻った。暗い室内に灯りを入れて、気に入っている長椅子にコートを放り、結局自身は浴びれていないシャワーのためシャワールームへと向かう。もう完全に“ただの日常”だ。明日になれば、それはもっと顕著になる。やっと、今世紀で一番面倒な日が終わった。
「……まぁでも、確かにな」
ひたすら続く思考が、腐れ縁を結論付ける音を聞いた。
これでいいのだ。ずっと、これでいい。ジルの苦笑を見れば、少なくとも彼女が同じ考えでいることは知れる。
ルカだって望むし、レインズだって同じように考えているだろう。
関係性がどうの以前に、ヤーグは“この立ち位置”を譲れない。ルカが、ジルが、どうしようもなくなったとき、最初に頼る己でありたいと。
それだけはきっと変化しない。何かの延長で壊れることもない。ヤーグの内側のことだから、ヤーグが自分に約束できる。
「私は、好きでやっているらしい」
熱い湯に安堵を覚えつつ、ヤーグはそうつぶやいた。
その唇にはやはり、苦笑が浮かんでいた。
「……で?今回は何が原因だった」
「んー……。そうですねぇ……。あのですね、私とジルって一緒にいるとだんだん色々が被ってくるんですよね」
「は?」
「機嫌とか、肌の調子とか、体調とか、で究極まで来ると生理周期が完全に被るんですね」
「知りたくもない情報を怒涛の勢いでくれるな君は……ナバートの情報はいいよ……」
「え、私の生理周期は知りたいということですか?気持ち悪いですよ?」
「黙りなさいこら。それは知りたくなくとも結果的に宣告されてるだろうが」
「……。ともかくですね、そうなると互いの不調がどんどん互いに伝わってですね、どんどん蓄電されてくんですね」
「……はぁ。で?」
「んで本日、ジルのさかむけがぷちっといったところでとうとう互いの沸点を超過しました」
「さかむけ!?半日かけて大騒ぎした理由がさかむけ!?」
「わー先輩がそんな驚いてるところ一世紀ぶりぐらいです……」
「私もこんなに苛立ったのは一世紀ぶりぐらいだからそうだろうよ……」
苦笑してうなだれるシドの首に、ルカは真正面から飛びついた。抱え込まれて額に口吻けをもらって、喉を鳴らしながら楽しげに笑い声を立てる。
ルカの目はなだらかに弧を描き、口元は優しく緩みつつも眉根は困ったように寄せられる。
彼女のそれもまた間違いなく、幸せな苦笑の一つであった。
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