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 鏡の中からは、見慣れた己の一対の目が睨むように見つめ返している。わずかに落ちた口紅に気づいて塗り直す。赤い口紅が白い肌を引き立て、たしかに美貌としか呼べない容貌になった。
「……よし。うん」
 誰とすれ違って、あとで私の存在が知れても、「美人がいた」程度の情報しか流れなければ助かるが。さて、そううまくいくかな。
 四課の人間にさえ、たまにあげつらわれることがある。お前が重宝されているのは顔がいいからってだけだ、だとか。整った顔面だけで生き残れるんだから、お前はずいぶんイージーだな、とも。
 そもそも四課にいる時点でベリハ超えてナイトメアとかそういう難易度なんじゃないの、とだけ返したものだけど、ナツメも彼らの言いたいことは理解している。四課員としての人生はたいがい苦難の連続で、そんな中明確な長所を持っているんだから俺たちよりましだろうと、そういうわけだ。
 そんな思惑全部を飲み、理解したうえで、ナツメも思うことがある。
 唾棄すべきバカどもだなと。


 ビルのトイレを出て、階段のほうへ歩く。廊下はどんどん灯りが少なくなって、階段に至る頃には薄赤の非常灯のみになった。ためらいなく、屋上へ続くドアを開く。
「うー、さむ、さむ……」
 皇国人だって、マイナス十度の大気に気軽に耐えられるわけじゃない。外に出るやいなや、封を切ってしばらくたつカイロをぎゅうぎゅう握って、ナツメはほんの少し震えた。
 突如降って湧いた暗殺仕事のために、ただでさえ寒い国の、さらに寒いビルの屋上なんかにいる。もう皇国に潜って一年が経つ。四課に入ってから二度目の潜入、ずいぶん長期の予定である。あと半年は潜る予定だから、この仕事は失敗できない。面が割れたら困る。
「こういう仕事を体よく押し付けられることが“重宝”だっていうんなら、この顔を恨むべきかな、って感じだけど」
 実際はそんなことないってわかっているから無駄だ。顔は関係ない。己が美人と呼ばれる顔であることは自覚しているが、同時に“美”なんてものにろくろく価値がないこともわかっている。誰かをひっかけるときのとっかかりにはなるけど、それだけだ。
 ナツメは、己の価値は美ではないと思っている。ナツメの価値は、純粋な皇国人であることだ。ハーフくらいなら探せば見つかるが、純粋な皇国人であり、皇国文化の細かい部分に適合できる人間は少ない。最初は皇国の貧乏人にしかなれなかったが、観察と実践を繰り返し、今では華胄家世の一人娘にだって化けられる。この国の若い女ならどの階級だって真似られる! 四課でそんなことができるのはナツメだけ。役に立つのは当たり前のことだ。
「それに、裏切らないしね……」
 それも貴重なこと。諜報員の世界では、一番大切なこと。表舞台で活躍する人間を好き勝手に引きずり下ろす、こんな仕事をしていると、自分を神のようなものだと思い込むやつがいるのだ。そういうやつは、さらにはスリルに魅せられて、国を手のひらで転がそうとし始めたりもする。諜報員の世界ではあまりにもよくあること。よくありすぎて、ナギもいちいち注意さえしない。裏切るなよ、なんて言わない。諜報員は一切無駄なことはしないものだ。ともあれ、そんなだから、人質とられて身動きできないナツメみたいなやつが妙に重宝されちまう。
 なんて考え事をしながら、ナツメは背負っていたギターケースを開く。大型銃の持ち歩きには、ギターケースかカメラケースが最適だ。ライフルを組み立て、位置を確認する。ビルの端、縁の上にちょうど銃口の乗る高さ。腹ばいになって、照準器を覗き込んでみる。皇国製の武器はいずれもレベルが高いし、性能のバラつきも少ないが、ないわけじゃない。リコイルの具合なんかは撃つまでわからないから、せめてわかるところは正確に知っておきたい、そんなところ。……照準は、だいたいあっているようだ。標的が現れるのは六百メートル先。20倍のミルドットスコープで、だいたい六百メートル先の人間の横顔を適当に覗いてみた。街角で退屈そうに人待ち顔の娘が見える。……問題なさそうだ。風はない。六百メートル程度なら弾丸の落下もそこまで意識しなくていい。運が良かった。
「……そろそろ時間かな」
 六百メートルというのは、ナツメが確実に射撃できる限界値だ。そもそも銃は好きじゃないし、得意でもないんだから……。不服を口の中で転がして、ため息を吐いた。本職ならもう三つ四つ後方のビルから狙えたのに。
 軍部のスナイパーとまではいかなくとも、四課にだって射撃自慢はいる。そいつを派遣すればいいのに、いろいろな不都合が折り重なって、今日この時間ここに立てるのはナツメしかいなかった。あとは失敗しないことと、万が一でもバレないことを祈るばかりだ。


 予定時刻。身をかがめて待つ。今日はルブルムとミリテスの会談が行われる。国境付近での一時停戦を約束するために。
 四課としては、タイミングが悪すぎた。もうじき、ミリテス側の国境付近にある兵器工場を災害に見せかけて攻撃する予定だったからだ。もちろん偽装は入念に行うが、それでも常識で考えたら、工作であることを疑われるし、ルブルムを責め立てるためだったらミリテスだって証拠のでっち上げくらいするはずだ。そのときに、停戦協定なんてものがあってはまずい……コンコルディアだって一緒になってルブルムを批難するだろう。攻撃はしないと約束した直後に背中から撃つような真似、どこの世界の国際社会だって許しちゃくれない。
 かといって、攻撃しないわけにもいかない。新兵器の爆撃機が完成間近だからだ。にっちもさっちもいかないので、四課は会談そのものをふっとばすことにした。そしてナツメはここにいると、そういう流れ。当然、この狙撃をルブルムのしわざと言われてもまずいので……朱雀の人間も一人、適当に弾くことになっている。
「味方殺しも一緒にしろとは、まったく、クソみたいな仕事ね……」
 ミリテス側の出席者は大佐が一人、少尉が二人。あとは護衛が二人。ルブルム側からは軍令部第二課の副課長が一人、補佐官が二人、護衛が三人。対象はミリテスの大佐と、ルブルムは補佐官か護衛を殺れと、そう聞いている。ついでに副課長を負傷させでもしたら完璧だ。ミリテス国内のことだし、停戦反対派のミリテス人の犯行だと思われたい。
「ほんと四課って、クソ」
 “仕方ない”の積み重ね、最後に責任を取るためにいる組織。だから、どんな手を使っても帳尻をあわせなくては。
 笑いながらスコープを覗き込む。ナツメのいるビルの屋上より僅かに低い位置、会談の会場では先程から、皇国軍人が準備のために歩き回っている。広く長いテーブルにはミリテスの国旗が敷かれていた。大佐たちが入室するのが見える。直後、扉が開いて、ルブルムの文官の制服が見えた。
 さて、始まった。文官が手にしたルブルムの国旗をテーブルに広げる。文官が椅子に腰掛け、補佐官が両脇に座り、護衛が、その後ろに……並ぶ……。
「……聞いてないわ」
 聞いてない。ナツメは体を硬直させ、青ざめた。
 そこにいたのはクラサメだったからだ。

 護衛は三人。そのうちの一人がクラサメ。想像するべきだった。クラサメはいまや朱雀で最も強い魔導士と呼んで差し支えない人間だ。敵国に入るときに最も心強い味方だ。連れてくるのは、当たり前だ……。
 ナツメが聞かされなかったのは、仕事を拒否するかもしれないからか。そうだろうな。拒否しただろうと思う。クラサメの前で味方を撃つなんて。そんなやつに成り下がるなんて、……そんなこと……。
「それどころじゃない……! どうしよう……っ」
 会談会場は、ナツメのいるビルより僅か下の高さだ。見下ろす形になる。だから、ナツメの射線を遮るのは難しくないことだ……一番手前に立てばいいだけで……。
 クラサメは、まさしくそこに立っている。ナツメの射線に蓋をするみたいに。
 スコープに切り取られた丸い視界にクラサメの横顔が浮かんだ瞬間、喉が干上がった。クソ。なんてこと。最悪が過ぎる。ダメだ、ここからは撃てない。ナツメは慌てて銃を持ち上げ、移動する。角度を変えねば……!
 縁を走って、会場が見えるギリギリの位置まで移動し、再度銃を固定する。……ああ、よかった! 見える! 射線はクラサメの前を通り、補佐官を貫いている。安堵して、銃身を動かし、ミリテス軍大佐の顔も確認した。どちらも撃てそうだ。
 可能なら、先にルブルムの人間から撃つよう言われている。浅く息を吐きながら、銃身を戻す。
 そして、ナツメは、もう一度ひゅっと息を飲んだ。
 クラサメが、横目に、ジッとナツメを見ていたからだ。
「……あ……ア……」
 バレている。彼は顔を一切こちらに向けず、目だけでナツメを見つめている……。
「く、くらさ、クラサメ、……やだ……」
 護衛である以上、スナイパーに気づいた時点で副課長たちを退室させるはずなのに、クラサメはそうしない。ただじっとナツメを見ている。つまり、ナツメだということすらわかっている、ということだ。六百メートル先、屈んだナツメを、……最後に会ってからもう二年近く経っていて……容姿も意識して変えているナツメを……看破しているのだ……。
「ハァッ……ハァッ、ハァ、ひぎ、ぐ……ッ」
 知れず汗が垂れ、こめかみを伝った。その汗がすぐさま冷え、己の体の熱さを悟る。どうしよう。どうしたら? クラサメの目の前で、彼の護衛対象を撃つの? 私だと知られている状況で?
 クラサメが彼らに何も言わないのは、いまナツメの存在を知らしめてしまったら、ナツメが逃げられないからだ。きっとミリテス軍に捕まって、死んだほうがマシってぐらいの拷問を百ぺんは受けて、それから無惨に殺されるからだ。そうさせないために黙ってる……ナツメのために……ナツメのために、彼は、……危険を侵している……。
 どうしよう。でも撃たないわけにはいかない。この二発の銃弾が、朱雀の全国民を救うのだから。そこにはクラサメだって含まれてる。ナツメよりずっと前線に近い男。彼を守るためにも、作戦の目的に不満はなかった。それに、この作戦を放棄したりなんてしたら……ナツメの立場は? 四課での立場を守れなくなれば、しかもその原因が“クラサメが見ているから”なんて理由だったら、……クラサメが危険になる……。
 息が荒い。ひどく焦っている。ただでさえ腕に自信がないのに、これじゃ当たるものも当たらない。落ち着け。落ち着かなきゃ。
 いまの私は、クラサメの女の子じゃないんだから。敵地に潜む、血に塗れた女だ。……これまでクラサメに見せずに済んでいたとしたって……もうずっとそうだ。否定のしようがない。
 冷え切って凍りはじめた汗を拭う。長く時間をかけて呼吸をした。時間がない。調印が済んだら終わりだ。それまでにすべてを済ませる。そのためにここにいる。
 途方もなく長いような、一瞬にすぎないような熟考があった。
 ナツメは引き金に指先を掛ける。
 ここで引き金の引けない女なら、四課だって、生きる価値があると認めてはくれなかった。

 スコープの先で弾ける頭ひとつ。空薬莢が飛び、足元の薄い雪に落ちる。続けざまに動かした銃口。混乱が極まる前に、軍人がスナイパーの存在に気づいて動き出す前に、もう一発。
 要求通り、ナツメは、皇国軍大佐とルブルム軍令部補佐官、以上二名の頭を撃ち抜いた。


 仮宿にしている家は首都にあるので、帰宅までは早い。会談の失敗はすでにニュースになっていて、そこかしこに神妙な顔をしたアナウンサーが告げる顔が映っている。停戦反対派の犯行なのでしょうか、続報が待たれます、停戦は無期延期となった模様です……。
 アッソ、と舌を出して、ハイヒールをカンカン言わせ、ギターケースを背負ってナツメは帰る。路地を通って、二つ目の角、曲がると家のある通り。
 ナギが立っていた。
「ヨ。お手柄だな」
「……クラサメのこと、言わなかったわね」
「言ったらできなかったろうが?」
 ケタケタ笑っていやがるナギに舌打ち。こいつもう許さないことにしようかな。だましうちに遭うのは何度目かわからない。
「茶は出さないわよ。さっさと帰って」
 ナツメはコートのポケットに手を突っ込み、中にあった空薬莢を二つ取り出し、ナギの顔面めがけてぶん投げた。
 器用にキャッチしたナギは、それを見てもっと大きな笑い声をたてた。わざわざ皇国に入り込んでいるのは珍しいので、おそらくこのまま、兵器工場への攻撃を指揮するんだろう。おつかれさん、珍しいねぎらいの言葉にため息をついて、ナツメはナギの隣を通り過ぎる。
「クラサメさんはもうミリテスを出たぜ」
 ……一番気になっていたことを教えてくれたので、許すことにした。ただ、ナチュラルに肩組んできて「今日泊めて〜」なんて言うので、その腕ははたき落としたが。


 ナツメのような女でも、時折自分の人生について考えることがある。たとえば、皇国のスラムから逃げ出すことが叶わなかったらいまごろどうなっていたのか。たとえば四課に入っていなかったらどうだったか。さして価値のない問いだから、いくつかの答えが浮かんでは消えるだけだ。どうせ娼婦になっていた、押し込み強盗の真似事でもしていたかな、いやそれよりもっと早くに死んでいたのかも。四課じゃなくったって、この性根は変わらない。まともな人生を生まれつき獲得している誰しもをどこかで薄っすら妬み、どうにかしてそちらがわへ渡ろうとしていただろう。四課に陥って良かったことがあるとするならば、そのような希望のいっさいを捨てる羽目になったことか。道行く誰を妬んでも、もう無駄だ。今となってはただ、クラサメの手のひらの感覚を思い出して縋るように生きていくだけ。
 今はそこに、あの眼差しが加わっている。どうか失望されていないように無為ないのりを捧げながら、ナツメは眠ったのだった。




久しぶりすぎた……


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