夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。 皇国、宮殿。
北東の外れにある塔の上にはえらい宝物が置いてあって、宮殿の人間すら容易には立ち入れないようになっている。その宝物がある限り、宮殿は不可侵なのだそうだ。
そんな噂がたっていることも少女は知らず、塔の頂上で今日も空を見つめて過ごす。
彼女は名をエリーザベト・ウルリーケ・ベアトリス・ヴィルギーニアといい、皇位の継承権は十八位の皇帝の第五皇女である。彼女の誕生時点で御年五十を超えていた皇帝には子が十名以上おり、次期皇帝、即ち皇太子は定められていた。継承権を持つとはいえ、皇帝は健在で皇太子も文武に優れ、彼女に皇位が回ってくることはまずありえない、そうなればそこらの貴族の子女より扱い少しはもいいかという程度で、生まれた時点で将来は他国へ嫁ぐかあるいはどこかの貴族に臣籍降下するかだろうと誰もが考えていた。
とはいえヴィルギーニアが生まれた当時、彼女の状況はそう悪くなかった。第三后妃エリーザベトは他国にまで名の轟くほどの美女で、皇帝のお渡りも多く、また野心家で教育も熱心だった。二百年前の大戦で認められ領地を得た名門貴族、ルートハイム家の出身で、ルートハイム家はここ数十年利益を上げておらず財政は悪化の一途を辿っているものの、歴史はそれなりに長く尊崇も多少はされていた。ヴィルギーニアの長兄は優秀な第四皇子だったから継承の可能性もあり、そうなればルートハイム家の地位も当然向上することから、母もその後ろ盾のルートハイム家当主も皇帝に取り入るのに必死だった。
だが、生後数年で、ヴィルギーニアを取り巻く環境は一変することになる。母は彼女の生後二年で病に倒れ、ほぼ同時期に母の生家の事業が失敗。喪が明けた頃、最愛といえる妻を亡くして落ち込む皇帝と母を失くした第四皇子を慰めるべく行われた狩りで、第四皇子は不自然に落馬し死亡。次兄であった第六皇子は生来の体の弱さが祟ってその年の冬に逝った。
立て続けに兄弟家族が死んだことで、ヴィルギーニアも母の生家のルートハイム家も、一気に立場を失った。不吉な一族として目されることもあったし、単純に有力者を失くした、そういうことでもあった。
さて、ヴィルギーニアはとても美しい容姿をしていた。父譲りの白い肌と白金の髪。美神とまで呼ばれた母譲りの完璧な輪郭、大きな目に赤い唇、長い手足。幼少のみぎりから、誰も彼女を可愛いなんて言わなかった。成長するたび美しさは輝きを増し、彼女に見つめられると誰もが言葉を失くした。その美しさが良くなかったのかもしれないが、もしも仮に恐ろしく醜い娘であっても、結果は同じだったかもしれない。
「そのほう、ヴィルギーニアには魔のものが憑いているとお告げがあった。祓うため、鬼門の塔にて宮廷を守るよう」
父帝は抱えの占者の助言を聞いて、まだ幼く物心付く前の彼女を、母と暮らしていた離宮から呼び寄せ、命じた。美しさは魔を呼ぶ、だから封じねばならない、敷地から出してはならないが皇帝御身からはできるだけ遠ざけておくこと。振るわぬ占者の思いつきかなにか。後ろ盾も庇護者も何も持たない少女の人生は、それで決まってしまった。
意味もわからぬ間に、北東の塔の最上階の狭い部屋へ封ぜられ、教育係として中年の女官が、護衛として彼女の息子である二人の兵士が就いた。
彼女にとっての日常は、そこから始まった。
痛い。
女官が少女の手を叩く。
「笑ってはなりません。美しいものは笑ってはいけない。悪いものを呼び込むから」
そう言いながら、叩かれた少女が泣くと女官は泣き止むまで彼女を叩いた。
「いけない。美しいものは笑っても泣いてもいけない。すべて、悪いものを呼ぶ」
美しいものは表情を変えてはいけない。
女官は毎日、その言葉を繰り返した。本を読み聞かせ、文字と歴史を教えてくれたが、ヴィルギーニアがそれをどんなによく覚えても一切褒めたりはしなかった。ただ、達成感に喜ぶことも、失敗に嘆くことも許さなかった。表情の僅かな変化も見逃さず、女官は彼女を叩いた。
最初の頃は、叩かれる理由がよくわかっていなかった。けれどそのうち、わかったところで叩かれると気付いてしまったので、どうでもよくなってしまった。
叩かれないために勉強をし、食事を取り、眠る。それが永遠に続くかと思われた。
ある日。
国が斃れた。
ヴィルギーニアはとうてい知らなかったことであったが、南部の国境は彼女が生まれた直後から紛争が頻発していた。
それから実に二十年近くの年月を経て国境線が完全に瓦解、南方の連合国の侵入を許し開戦。破竹の勢いで侵攻する彼らに皇国は為す術もなく崩壊し、とうとうその剣が皇帝の首を落としたのがその日のこと。
塔の下が一気に騒がしくなって、知らない声がたくさんして、扉が破られ抵抗した女官は殺された。わけもわからず、ただ十年以上も毎日命じられた通り、ヴィルギーニアは目の前で女官が死んでも表情を動かさずにおいた。そして、金属音の混じった足音を立てて部屋に入ってきて、ヴィルギーニアの前にその男は立った。黒に近い、金属でできた物々しいマスクをつけている。髪も紫紺に近い黒で、服も黒、何もかもが黒い。白が最も格調高いとされるミリテス皇国において、それは蛮族の色だった。
「お前は何者だ?」
殺す前に問おうとでも言わんばかりの声音だった。学んでいた他国の言葉はゆっくりと耳奥に沈んで、理解に達する。
ヴィルギーニアはじっとその男を見上げる。男はヴィルギーニアの見たこともないくらい美しい色の目をしていて、そしてヴィルギーニアを見てもいっさい表情を変えなかった。
ので、もう少女と呼ばれる年齢でもなくなっていたヴィルギーニアは、ただ率直にその顔を見つめ返し、
「私はエリーザベト・ウルリーケ・ベアトリス・ヴィルギーニア。この国の第五皇女です」
そう静かに名乗った。男はそれを聞いて、ただ眉を顰めるばかりであった。
男は名をクラサメといい、皇国と国境を接する南部のルブルム連合王国で准将の地位を戴く将軍であった。
若くしてその地位に立てたのは、類稀なる戦闘技術、魔力を持ち、軍を動かすだけの器量があったこと、そしてそれ以上に時勢に恵まれたというのが理由であろう。ミリテス皇国との紛争が多発し、お飾りではない、実務を執る将軍が求められた風潮にクラサメはぴたりと合っていた。戦時特例、異例の人事で彼は若干二十六歳にして准将位としての権限を与えられていたのだが、皇帝を討ったことにより正式に准将の任命が決まったのがつい先日のことである。
そしてヴィルギーニアは、皇国宮殿の塔の最上階から連合国の王宮の一角へ移されただけで、特段変わらぬ生活を送っていた。常に虚空を見つめているので、見張る兵士が不気味がっていたが、それすらも関知せず。
それが変わったのは、クラサメが准将に任じられた日だ。
その日、ヴィルギーニアは数名の女官に久しぶりの入浴をさせられた。髪を洗われ、肌をごしごし磨かれて、呆然としている間にシルクの下着で包まれる。疑問を申し立てることも習慣に無いので、ただされるがままそこに立っていた。おしろいを叩かれ、赤い紅を引かれ、髪を結い上げられ。深い赤のドレスを被せられて、きゅっと腰で締められる。
それに苦痛を覚えながらも、ヴィルギーニアはただ、大きな窓の外を見ていた。その先に飛ぶ、見たことのない鳥をじっと見つめていたのだった。
ヴィルギーニアは身繕いを終えた姿で、女官たちに囲まれ玉座の間につれてこられ、よくわからないうちに端に座らされた。そしていろいろな人が彼女の前を行ったり来たりして、それをぼうっと聞いているうちに自分の処遇が決められようとしていることに気がついた。
けれどやはりどうでもいいことだ。ヴィルギーニアは表情を動かさない。どうせどうあっても結果はいつも同じ。叩かれて終わる。なにもかも。
長い監禁生活は、ヴィルギーニアに意欲を失わせた。いまや彼女の中にはなにひとつ、まともなかたちの欲がない。
ヴィルギーニアが、これがルブルム連合王国式の式典か何かであると気がついたのは、中盤を過ぎてからだった。学習していただけの言葉の意味がきちんと理解できるようになったからだ。王国へ移されて間もなく、一度だけ会いに来た翁が、黒い衣服の上から朱色に近い打ち掛けを被って玉座に鎮座している。
父であったはずの男と、同じ立場に立つ男。顔すら満足に思い出せない父帝の冷たい表情とは違い、うっすら柔和に微笑んでいる。カリヤと名乗ったその男の視線の先にふとあの黒い男の姿が見えて、ヴィルギーニアは彼女には至極珍しく、目を細めた。
名を呼び上げられたクラサメは命じられるまま、前に出て膝をついて准将の地位を拝命した。地位にこだわりはなかったが、軍功を上げることには関心があったので、純粋に評価はありがたかった。報奨もかなり出た。領地等は管理が面倒なので断ったが、代わりに首都に邸を下賜され、出撃のことを思うとそれもまたありがたかった。
問題はその次だ。
「クラサメ・スサヤ将軍、あなたは先だっての皇国首都征服にて皇帝の首を取りました」
稀代の名君と名高いカリヤ・シバル六世は玉座に深く腰掛け、膝をつくクラサメを穏やかな笑みで見下ろしている。クラサメにとっては無二の主である。
カリヤ王は一瞬言葉を切ってから、続けた。
「その武功に報い、准将の地位、邸を与えましたが、領地については固辞しましたね。ですが、戦の立役者の報奨が少ないのでは士気に関わります。もう一つ、私から」
カリヤ王がすっと左手を翻すように動かすと、衛兵がざっと道をあけ、女官が数名出てきた。そのうちの一人に手を引かれ、見覚えのある娘が連れられてくる。それは皇帝を弑した日、クラサメがあの塔のてっぺんで見つけた娘であった。
ルブルムの色である赤い服を着せられていたが、ルブルム人にはほとんどありえない白さが悪目立ちするばかりで、顔色が翳って見える。大きな目は虚ろにどこかを眺めており、どこか正気でないような気配を感じた。
「あなたが見つけたそうですから、見覚えがありますね。皇帝の娘の一人でヴィルギーニアというのだそうです。噂は聞いたことがあるでしょう」
皇帝には一人、とても美しい娘がいて、あまりに美しく国を割る恐れがあるとして塔に隠しているのだ。そんな噂が、ルブルムにもあった。
実際実物を見てみると、まあ確かに美人は美人だが、国を割るほどには見えないというのがクラサメの正直な感想だった。だからこそ、出会ったときに名前を聞いたのだ。これは確かに傾国の美女だというほどの娘だったら聞かなくてもわかっただろう。
「はあ……」
「皇子は全て戦闘で死にましたし、後宮に隠れていた皇女たちは皆、毒で自害したとのこと。皇帝の胤は最早彼女一人」
一体、それがなんだと言うのだろう。何か嫌な予感がしつつも、察しのよいほうではないクラサメはすぐには答えに思い至らず、なんとも気のない返事しかできなかった。
だが直後、王の言葉に彼は目を剥くこととなった。
「彼女を私の養子としたのち、降嫁させましょう。考えうる最大の褒美です」
カリヤ王の言葉は単純な事実だった。北の帝国の亡国の姫でありながらルブルム連合王国の王族からの降嫁となればどの名門貴族でもよだれを垂らして欲しがる“宝物”だ。王族に嫁がせられる十分な立場の子供を作れるし、皇帝の血は皇帝が死んだ後でも十二分に価値がある。他の皇子皇女の全てが処刑されたか自決しているのならなおのことだ。
これは事実上、将来的に爵位を、それも公爵か侯爵位を与えると言われているのにほかならない。最上級の栄誉である。
それはその通りだ。
クラサメもわかっている。
わかった上で。
くそ、と思った。
「いえ、それは……」
「なにか他に困ったことでもありますか?」
「い……いえ……」
さすがにこれは断れない。領地を断ったときも渋い顔をされたのだ。このうえ、義理とはいえ国王の姻族になることを拒否するとなれば、国王に叛意ありと疑われても仕方がないほどの無礼に当たる。
クラサメは一瞬の逡巡ののち、ぐっと頭を下げた。
「ありがたき幸せ……」
もういいや、もらうだけもらってほっとこう。クラサメは考えるのをやめた。
結局のところ面倒くさくなっただけだ。考えることも悩むことも。
そうして下賜されたのが、ヴィルギーニアであった。
姫の輿入れなんて言ったら、どこの国でも大騒ぎになるものだが、今回に関してはそうもならなかった。臣籍降嫁でありながら、略奪品の下賜でもある。クラサメからしたら大仰だったが、式というよりただの儀式。彼女は輿にいれられて大勢の衛兵に運ばれ、まだクラサメが居を移したばかりの邸へ移された。嫁入り道具というべきか、いくらかの家具、装飾具やら服やらも一緒に運び込まれてきたけれど、それにしたって下賜品にほかならない。
ヴィルギーニアは言われるがまま、クラサメ一人暮らしにはむやみに広い邸の広間に入り、命じたとおりそこの椅子に腰を下ろした。
彼女は頭に載せられたしゃらしゃら揺れる装飾品が重いらしく、僅かに頭を傾けていた。「取るか」と問うたが、彼女は視線をすっと上げただけで、一つも答えを返さなかった。
無反応すぎる。クラサメは女慣れしているとはとても言えないが、それにしたってなんだこの女はと思わざるをえない。
ぼうっと遠くを見つめるみたいな目をしていた。この娘は一体なんなのだろう。白痴美人という言葉が不意に脳裏を過ぎり、それだと思った。
確かに美しい。衛兵が、下賜品の姫であるにも関わらず妙にうやうやしく扱っていたし、彼女の顔や噂を知るものからは臣籍降嫁が決まって以降やっかみの声をかけられることも多かった。
ルブルムの人間にはあり得ないほど肌が白く、高貴さの証のような長い髪を持っていて、長いまつげは頬に細い影を落としていた。国を割ることはないだろうが、その噂に踊らされそうな貴族もいるだろうと思う。
けれど、どこを見ているかわからないし、息をしているのかも怪しいほどに静かで頼りなく、人形めいている。すべての動作が弱々しい。はっきり言って不気味だし、生きているのかすら怪しい。適当に掴んで折り曲げたら、そのまま動かなくなりそうだ。
こんなものを、人間として……ましてや、情欲を孕んで女としてなんて、見られるわけがない。年頃は十七か十八くらいのはずだが、相応にはとても見えない。
何を勝手に嫁がせてくれている。困ったことになった。クラサメはため息をつき、衛兵に座らされたまま微動だにしていなかった彼女の正面に座った。それから、まっすぐに彼女を見据えてこれからの話をする。
「いいか、私はお前を娶るつもりがそもそもなかった。が、下賜となれば断れないし、してしまったものは仕方がない。手は出さないから安心しろ」
「……」
「部屋をやるから好きに過ごせ。それなりには金もあるが、私は貴族でもなんでもないから、好き勝手に使えばあっという間になくなるのでそのつもりで。今までのような豪勢な暮らしはできん。悪いがな」
「……」
「後で外を軽く案内してやろう。見たいものはあるか?」
ヴィルギーニアはしばし逡巡するような仕草をした後、
「いいえ」
蚊の鳴くような声で、そう答えた。
もう嫌だ。相手をしたくない。会話にもならないような娘。
面倒臭さが全ての義務感を上回ったので、クラサメは深々息を吐いて、ヴィルギーニアを彼女の部屋に連れて行くとすぐさま踵を返した。直後、数少ない二人の友人が引越し祝いを兼ねて訪ねてくれたのはまるで天の助けのようだった。本人たちには口が裂けても言わないが。
二人を居間に通す。王家が下賜ついでに用意してくれた家具があって助かった。クラサメはあまり家でくつろぐということをしないので、家具の配置など思いつくはずがなかった。
女官や下男を雇う気もまだないので、茶を入れるにも苦労するが、そこは旧知の仲、クラサメにそのあたりの気が利くはずがないと知っていたらしく、二人がなんとかしてくれた。家主として少し情けないが、まあこの二人なのでよしとしよう。
「まったく、クラサメくん、この屋敷は一人か二人は手伝いがいないと無理だよ。ましてお嫁さん、何もしたことなさそうだったじゃない」
「っていうかまさか結婚させられるとは思ってなかったよネ、さすが陛下だわー」
「エミナお前面白がっているだろう……」
「だってめちゃくちゃ面白いもの。それでどうなの?手伝い雇うの?」
軍の懇意にしている薬師であるカヅサと、都でも有名な呉服店の次女のエミナ。それに軍の将校のクラサメでは、一見友人関係など育む余地はないように思えるが、この三人は幼馴染であった。眼鏡をしているカヅサの目が悪くなる前から、エミナが都中の男から求婚される前から、そしてクラサメが軍に入る前から。だからこそ互いの外見や地位に一切拘らず本音だけで会話ができる。口にはしないが、他人とあまり関わらないクラサメにはありがたい存在だ。
「あの娘次第だな……カヅサの言う通り、家事の類ができるとはとても思えない」
「っていうか、仮にも臣籍降嫁してもらった子に家事させられないよね」
「……それもそうだ」
「クラサメくん頭抱えちゃったじゃない。何かいい考えないの、カヅサ」
「いやあ、人を雇えとしか。お金はあるんでしょ?」
「まあ、多少は。だがそうだな、そうなると私が不在の間の護衛も必要か……?」
なんて面倒な。クラサメは短くうなだれた。
「ねえ、それでさあ、あの皇女さまいつ来るの?ワタシ会ってみたい!」
「もういるぞ。奥の部屋だ」
「えっ、いるのに放置してるの……?」
エミナが美しい柳眉を顰め、クラサメを睨んだ。ヴィルギーニアとは方向性が違うとはいえ、都でも評判の美人が睨むと迫力がある。
「会話にならんからだ。何を聞いてもぼんやりしている。どこか変なのではないかと」
「ええ、知らないうちに知らない人に嫁がされて混乱してるんじゃないの?」
「クラサメくんさすがコミュニケーションが足りないねえ」
「やかましい。そんなに言うなら会ってみればいいだろう。お前らも同じことを思うに違いない」
二人が非難するような顔をしたので、舌打ちしたクラサメは席を立った。
そうして二人を伴い、廊下の奥にある両開きの扉を、無遠慮なクラサメは無遠慮に開いた。
ちょっとクラサメくん、と咎めるような声が背後から聞こえたが、それどころではなかった。
扉の先、あの白痴めいた娘がぼうっと立っている。ことはなかった。
代わりにそこには、嫁入りに持たされた衣服を切り裂き、宝飾を引き剥がしている娘がいた。
その娘は、変わらず白い肌と髪をしていて、例の皇女ヴィルギーニアであることに間違いはなかったはずだった。
だが目は大きく見開かれ爛々と輝き、きゅっと引き結ばれた口元は強い意思をのぞかせ、あの白痴めいた雰囲気等どこにも存在しなかった。
ただ、こちらを睨みつけている。目が動く。あ、考えている。クラサメは思った。その目はまるで、追い詰められた夜盗のような、逃走経路を探る目だった。
直後だ。娘は懐にいくつかの宝飾品を抱え、窓にむかって走り出した。閂の降ろされた木の扉の窓は閉じられ、光が薄く漏れ入っている。ヴィルギーニアは窓に飛びつき、その閂を外そうとしていた。躍起になる後ろ姿に呆然としていたのはクラサメで、最初に我に返ったのはカヅサだった。
「はいはい逃げられないよ!」
「ッ……く、離せ!!離せ、くそったれ!!」
「ええー……ちょっとこの子、本当に皇女様なの?信じられないわねエ……」
カヅサがその体を抱え込むようにして窓から引っ剥がし、羽交い締めにされた少女の腕の中から引きちぎられた宝飾品がぼろぼろと落ちる。それはもうずさんな引き剥がし方で、裂かれた絹やら糸が真珠や金剛石にまとわりついていた。クラサメはそれを見てようやく、
「お前……盗賊だな?」
「……クソ」
皇女は反抗に疲れたのか、手から力を抜いた。暴れるのを辞めた彼女にほっと息を吐いて、カヅサが手を離すと、皇女は床にだらりと落ち、腹立たしげに顔を歪めた。
「普通の装飾品は、盗難があれば質屋や骨董品店にすぐ情報が回って、どこも買ってくれない。だから、豪華な服についた宝石を引き剥がす。これなら気づかれないからな。盗人の手口としては、そう珍しくない」
「問題はそれをしているのが皇女様ってところ、ネ?」
「……皇女じゃない」
彼女はゆっくり視線を上げる。あんなに頼りなく、弱々しく、そして幼くも思えた皇女だったが、眼光鋭くクラサメを睨む娘にはそのいずれも形容詞としてふさわしいとは思えなかった。
潤み、怒りを孕み、そして生命力に満ちている。
クラサメは彼女を見下ろし、問うた。
「皇女じゃないというのは、どういうことだ?」
彼女はじっとクラサメを睨んだまま暫時沈黙していたが、最後にはため息を吐いて、まあ今命運を握っているのはお前らだからな、と床に座り込んだまま呟くように言った。
「もう、十年にもなるか……。お前が殺した女官のシステリアと、その手前で殺された侍従長のアトキンス。あの二人は夫婦でな。護衛の兵士は二人の息子だった」
「……ああ、覚えている。ああも暴れなければ、殺さなかったのだが」
もう皇帝を弑した後で、あとは城のすべての部屋を検め、戦闘の意思がある戦闘員をすべて行動不能にするべく動いていた、その最後だった。
部屋に入ろうとするクラサメたちの隊に対して、侍従長は強硬に抗い、押し入った後も中年の女官が中に入れまいと大騒ぎしたのである。思い返すクラサメを見上げ、彼女はくっと笑った。
「あの二人は十年前、皇女サマとやらをうっかり殺しちゃったのさ。故意か過失かまでは知らないけどね。それで、仕方なく、首都の貧民街で似た娘……つまり私を見つけて、代わりに塔に押し込めて誤魔化していたのよ。私の正体が知れたら、妹夫婦や、そこに預けてる孫にも累が及ぶと考えたんでしょ」
「それは……とんでもないことだね。皇帝に知られたら、間違いなく一家一族皆殺しだ」
「じゃあ、キミは変わり身だったってコト?」
「なぜバレないんだ、皇女だろう?」
「……あの塔に閉じ込められてたのは、偽物だからじゃない。ヴィルギーニアは閉じ込めるって決まりがあったからよ。行事でも外には出られないし、システリアとアトキンス以外会うこともない。数年単位でそうなんだから、皇女の顔なんてはっきり知ってる奴はいないしバレようがない。……こんなに長期間拘束されて、挙げ句他国まで引きずられるとは聞いてなかったけどな。まあ、それは……私の認識が甘かった」
貧民街の掃き溜めで、娼婦か薄汚いスリにしか進路がないような小娘には、毎日飯が出るってだけで垂涎の高待遇だったからな。
娘は俯いて、重大な詐欺を簡潔に語った。国を二つ騙した詐欺、稀代の嘘であった。知れれば極刑は免れないし、さらし首も確定するほどの。
「どうしてそんなことを話すんだ。そんなこと知られたら、今でもお前の命は十二分に危険だろう?ルブルム王の養女になっているのだから……」
「どうせもう、……この状況でまだ皇女サマぶっても無駄でしょ。皇国領まで逃げられればあるいはと思ったけど、冷静に考えたら私の見た目じゃこの国では目立ちすぎる。逃げ切れるとは思えないし、……」
悲劇的な状況にも関わらず妙に淡々とした様子には諦めが滲んでいる。カヅサから逃れることができなかった彼女がクラサメから逃げ切れるわけがないから、それは正しい見解なのだが、それにしても物分りの良さが気になった。
「それに……これを誰かに話す日が来るとは思ってなかった。いつか来ればいいと、思ってはいたけど」
彼女はそう言ってクラサメに皮肉げに笑うと、ため息をついて立ち上がり、長椅子に身を投げるように座る。カヅサとエミナが困ったような顔でクラサメを振り返った。
「く、クラサメくん……」
「どうするの、これ?」
「……どうするも、何も……」
クラサメは途方に暮れるような心地もしたが、でも一方で、あの亡霊のような女と一生共に暮すという悪夢が立ち消えたというのも事実なのだと考えていた。
それならば、クラサメにとって良いのはどちらか、といえば。
「……軍には突き出さない。どうせ私も表にはさほど出ないのだから、これからもバレようがない、のではないか」
「……は?」
クラサメの言葉に目を見開き、訝しむ声を上げたのは、長椅子に座り込むヴィルギーニアだった娘だった。信じられないものを見るような目をしている。
「あんた正気なの?」
「……お前を突き出して、お前が偽の皇女だとわかったとして、結局王は私に何かしらで報奨を与えなおすだろう。それでカリヤ王の息女等がやってくる可能性を考えたら、お前のほうがマシかと思ってな」
彼女は口をぽかんと開けたまま、反応に窮しているようだった。
でもクラサメからしたら単純な話だ。あんな亡霊みたいな女や、化粧や御洒落を人生の最大の関心事にしているような姫君とはごめんだが、服から装飾品を引き剥がしてでも逃げようとするような、己が何者か知らしめるために罪の告白をするような女となら、別に暮らしてもいいかと思ったのだ。
「それに、女官も侍従長も死んでいる。お前が偽者と証明できる人間は皆死に、手立てがない。お前の言葉以外には。そんな状況で私が騒ぎ立てて、どうなる。下賜品にけちをつけるようなものだろう」
「それはまあ、たしかにねェ。最悪クラサメくんの立場が悪くなっちゃうカモ?」
「本当に証明されないんならね?ねえ、旧皇女さま、本当に知っている人間は他にいないのかな?」
「……いない、と思う。皇女ヴィルギーニアの死体はどうも、あの塔の地下に埋まっているらしかったし、私を代わりに隠してからは、外との出入りも一切なかった。……でも……」
「華々しく戦が終わり、領土が拡大された直後だ。たとえお前が真実を話し、それを王が信じたとしても、王自身が隠蔽を望まれるかもしれない。今それを明らかにしても、国政にいいことは何一つとして無いからな」
戦争が終わり、これからは併合する旧皇国の民もまた連合王国の民となる。すでにいない一組の夫婦の罪を明らかにすれば、旧皇国民への悪感情は更に高まるだけだろう。もしくは、旧皇国民が「連合王国が生き残った皇女をも理由をつけて弑しようとしている」と取るかもしれない。いずれにしても、この事実は、今判明したところで誰にとっても得がない。誰もが平等に困る。それなら罪になるとしても隠匿するべきだし、皇女として少なくとも十年教育を受けてきた彼女ならば隠し通せるのではないか。
クラサメが聞けば、彼女は困惑ゆえかしどろもどろになりながら、それは、まあ、と言った。クラサメの腹も決まる。
「ヴィルギーニア。そう呼べばいいか」
「……偽物の皇女を続けてほしいのなら、それで」
「お前の本当の名前はなんだ」
クラサメが聞くと、彼女はぐっと黙りこくった。喉がつっかえるような仕草を何度か繰り返し、それから、「
ナツメ」と呟くように言った。
「……名乗るのは、久しぶり」
「そうか。公的な場ではヴィルギーニアと呼ぶしかないだろうが、家では
ナツメと呼ぼう」
「う……うん……?」
いまいち事態が飲み込めないという顔をしつつ、どことなく居心地悪そうに
ナツメは頷いたのだった。
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