記憶喪失(露伴)

「あの……ここはどこですか?」
「オイオイ、冗談はよせよ。さっき名前のプリンを食べたことは悪かったよ。お前の好きな食べ物買ってやるから機嫌直せよ」
「プリン?言っている意味がわからないんですが……」
「いつまで怒ってるんだよ」
「あの、私はこの家に住んでいるでしょうか?」
「……本気で言っているのか?」

いつもの威勢のいい名前の声とは異なる頼りなさそうな声。彼女はこれほど演技はうまくないはずだ。

「本当にわからないんですが……あなたは誰ですか?」
「……」
「自分が誰なのかもわからないんです。私の家はどこかわかりますか?」

名前の目から今にも涙が溢れそうである。抱き締めたい衝動にかられるが、名前は僕のことを知らない。初対面のような人に向かってそんなことをするわけにはいかない。

「君の名前は苗字名前、高校生で今は夏休みだ。ここは僕と君の家だ」
「私はえーと……」
「僕は岸辺露伴だ」
「私と岸辺さんは、付き合っているんですか?」
「ああ」
「すみません。思い出せなくて」
「気にすることはない。とにかく病院に行くぞ」

僕は名前を助手席に乗せて病院へ向かった。今まで何度も名前を助手席に乗せてきたのに違う人を乗せているような気分になった。医者が言うには脳に異常はないらしい。

「ここが君の部屋だ」
「ありがとうございます……あの、ベッドに掛け布団がないんですね」
「ああ、それは……いつも僕の部屋で寝ていたからだ」
「そう、ですか」








目の前の男の人とそんな関係だったのか。顔に熱が集まる。

「クローゼットの中に入っているから使うといい」
「はい」

私の部屋のドアが閉まる。私はベッドに寝転がり、今日のことを振り返った。岸辺さんが彼氏、かあ。イメージが湧かない。岸辺さんには会ったばかりだし自分がどんな性格だったのかもわからない。すごくもどかしい。何も考えたくなくてそのまま瞼を閉じた。

「名前」
「ん、」

誰かが私の肩を叩く。目を開けると岸辺さんが立っていた。

「はっ、すみません!眠ってしまって……」
「疲れてるんだろ、晩ご飯できたぞ」
「はい」

晩ご飯の間、岸辺さんは一言も話さなかった。食事中は話さない人なのだろうか。正直何を話していいやら戸惑うので助かった。

「ごちそうさまでした。片付けは私がやりますね」
「じゃあ頼む……片付けが終わったら少し話さないか?」
「っはい」

***

片付けが終わり、私と岸辺さんはテーブルを挟んで向かい合った。沈黙がつらい。何か話題はないかと辺りを見渡した。

「この家かなり大きいと思いますが岸辺さんはなんのお仕事をなさっているんですか?」
「僕は漫画家だ」
「すごいですね!こんな身近に漫画家がいるなんて……作品は何ていうんですか?」
「ピンクダークの少年だ、わかるか?」
「……すみません、思い出せないです。私も読んでたんですか?」
「ああ、読みたければ貸すよ。もしかしたら何か思い出せるかもしれないしな」
「はい、あの、私はどういう性格だったんですか?」
「そうだな、賑やかなやつだったよ」
「そうなんですか……」
「……まぁ、無理はするな」

私の頭を岸辺さんが撫でる。なんとなくだが撫でられて心が少し安らいだ。記憶をなくす前にもこうやって頭を撫でられたのだろうか。

***

記憶を失って3日経ったが、戻る気配はない。気にしていても仕方がないので昼食作りに取りかかる。今日の昼御飯はサンドイッチだ。野菜を切っていると後ろから抱き締められる。

「岸辺さん?」








名前の背中が見えて、最近名前に触れていないと思った。そして気がつくと抱き締めていた。岸辺さん、と呼ぶ声にはっとする。彼女はまだ記憶が戻っていないのだ。会ってまもない僕にこんなことをされるのは嫌だろうと思い、手をおろし距離をおく。

「すまない」
「大丈夫です。岸辺さんと私は付き合ってるんですよね、だから気にしないでください。もし私が岸辺さんの立場だったら抱きついていると思いますので」

記憶が戻ってないながらもこのストレートな物言いは名前だと認識させる。

「出来ました」
「ありがとう」

***

午後になって康一君が家に来た。名前のことを話すと驚いていたが、普段通り名前に話しかけてすっかり打ち解けていた。同級生だし僕より話しやすいだろう。紅茶でも淹れようかと台所に立つとパタパタとスリッパを鳴らして名前が僕のところに来た。

「私がやりますよ」
「そうか、……紅茶がちょうど切れてるな。そこに新しい茶葉が入っているはずだから取ってくれないか?」
「はい」

名前が椅子に上がり棚から茶葉を取ろうとする。

「あっ!」

名前がバランスを崩し椅子から落ちた。

「名前!大丈夫か?」

すかさず駆け寄り名前を抱き起こす。

「おおげさだなぁ、露伴は」
「……記憶戻ったのか?」
「みたい、迷惑かけてごめんね」
「……」








謝ると露伴は何も言わずに私を抱き締めた。私が記憶喪失になっている間、露伴はほとんど私に触れなかった。記憶のない私を気遣ってくれたのだろう。露伴の温もりが懐かしく感じられる。

「露伴、紅茶淹れないと」
「……」
「さっき大きな物音したけど大丈夫ですか?……あっ、僕用事思い出したので帰りますね」

台所に来た康一くんが私と露伴を見てそそくさと家を後にした。気を遣わせてしまったな。今度お詫びにお菓子でも作ろう。

「露伴、そろそろ……」
「……名前、」
「なに?」
「…………おかえり」
「ただいま」

bkm