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頬に何か濡れたものが落ちた気がして、上を見上げるとさっきまで青かった空はいつの間にか灰色に変わっていた。
青春学園からここまで距離はそんなに離れていない。校門をくぐったときはたしかに晴れていたのに。

「…ついてない」

どんよりとした重そうな雲は、今にも雨を降らしてしまいそうで、バスで帰ることを模索せざるを得ない。町行く人々も困惑しているようで降りだしそうな雨に人知れずため息が漏れる。
傘なんて、もってるはずもない。

バス停までの距離を考える前にぐずっていた空がいきなり泣き出した。派手な音を鳴らして地面を叩きつける雨水にぎょっとして慌てて近くの店の前まで走る。暫く雨宿りをするはめになった。



どうやら通り雨や夕立の類いではないらしく、一向に止む気配もなければ落ち着く気配もない。近くのコンビニで傘を買おうにも、バス停まで走っていこうにも、確実に全身がびしょ濡れになる。それは勘弁したい。
どうしよう。
最後の手段は従姉に迎えに来てもらうことだ。親父は論外。色々と模索していると目の前に高級そうな車が止まった。いかにもな黒塗りのその車は、車種に疎いリョーマでも高級車だとわかる。高級車といえば。思い浮かんだ他校の派手なテニス部部長の顔と、車窓から覗いた顔がまったく一緒だった。

「おい、そんなとこで何してんだ越前。雨宿りか?」
「…跡部さん」
「送っていってやろうか」

運転すんのは跡部さんじゃなく運転手じゃん。そして跡部さんこそ、なんでこんなところに。そう思っても口には出さない。彼が偉そうなのはいつものことだし、有り難すぎる申し出だからだ。
雨の中歩かなくて済むだけでなく、普段は体験出来ない高級車での下校だ。

「いいんスか」
「俺がいいって言ったらいいんだよ。乗るのか、乗らねえのか」
「いえ、じゃあ、ありがたく」

開いた後部座席に素早く乗り込む。相変わらずどしゃ降りではあったけれど、運転手が車を寄せてくれたおかげであまり濡れずに済んだ。
跡部が奥に移動したためか、今リョーマが座っている場所はまだ体温が残っていた。いつもは気にしない車のシートも、あんまりにも高級感道溢れていて濡れてしまうのが勿体なかった。少しだけ濡れてしまった体を背もたれに預けるのを躊躇していると横からタオルを渡された。いや、投げられたのほうが正しい。
とりあえず頭に被せられたタオルに礼を言おうと口を開く前に、がしがしと乱暴に拭かれる。

「うわ、ちょ、何するんスか!」
「礼はいい」
「はあ?」
「俺様が好きでやってることだ。おらよ、さっさと服も拭け」

得意の眼力を使ったのかは定かではないが、リョーマの考えは全てお見通しらしい。やることなすこと先にやられた。
あんたが乱暴に拭くから服まで気が回らなかったんスよ。思ったままの言葉が出た。どうしても反抗的な態度になる。けれど跡部はそれを気にせず、そうかよ、と返しただけだった。
素っ気なくもどこか優しかった。ような気がする。どうしてそう思ったかはわからない。普段の彼がどんなのかは他校のリョーマには面識があまりないため、知識はない。リョーマが知っているのはテニスをしているときの彼だけだ。それしか知らない。
部員に慕われているのは見てとれた。ただの応援であそこまでのコールは出来ない。あの200人を越すらしい部員全員が、跡部のためにあの名物コールを合唱する。
あのカリスマに惹かれた部員が跡部を慕って、跡部が勝つと信じて。
敵側だったリョーマは煩く感じたが、それもあちらの戦略のうちなのだろう。アウェー感は氷帝と戦ったときが断トツ一番だった。
そしてその応援コールは味方には絶大な力となる。

そんな人数を従えるにはカリスマ性だけではないのだろう。先程リョーマの髪を拭いたとき、どこか手慣れていたようだった。彼は意外と世話好きなのかもしれない。

ちらと横を見るともうこちらのことを全く気にせず本を読んでいた。
リョーマにとってはユニフォーム以外の姿でも新鮮だ。氷帝の制服に身を包んだ跡部を珍しげに眺めていると不意に視線がかち合った。

「おい、越前」
「な、なんスか」
「お前、何も言わず家に着くと思うのかよ。住所どこだ」
「あ、そっか。えっと、」

忘れていた。確かにそうだ。でも、跡部の車なら何も言わず着きそうな気がしたのも確かだ。
跡部に住所を伝えようとして、俺にじゃねえよ、と少し笑われた。彼の指が運転手を指していて改めて住所を告げた。かしこまりましたお客様、と優しげな品の良い声で返される。なんだかむず痒い。

車内は静かだった。流石といったところか、運転手の車裁きは滑らかで当たり前だがタクシーとは比べ物にならない。車に乗っていることすら忘れてしまいそうになる。それはそうだ、跡部財閥の嫡男が乗っている車だ。いかに急いでいても決して乱暴な運転にはならないだろう。そんな運転手と高級車のお陰で全く振動がない。激しく鳴っているはずの雨音も閉めきっているせいで、遠くに聞こえる。
意図せず微睡みそうになって頭を振った。今眠ってしまってもきっとすぐ家に着く。中途半端に眠ったせいで暫くぼんやりとしてしまうのは避けたかった。

手持ちぶたさを解消したくてまた隣に目を向ける。窓を見ても雨のせいで何も見えない。なら気を向けるのは必然的に隣にいる人物になる。

ぺら、と本が捲れる。よく見ると、跡部が読んでいるのは洋書だった。遠目で細部まではわからないが、所々単語のスペルが見覚えのないものがある。どうやらリョーマが慣れ親しんだアメリカ英語ではなく、イギリス英語のほうらしい。
洋書を読む人は日本に来てからあまり周りにはいない。それもまた新鮮だった。

暇潰しに本を捲る長い指や色素の薄い髪、蒼がかかった目を無遠慮に見つめていると、やがて跡部がはあ、とため息をついて本を閉じた。

「なんだ、さっきから。何か用かよ」
「いや、別に。暇だったから」
「なんだよ、構ってほしいのか?」
「そんなんじゃない。ただ暇だっただけッス」
「そーかよ」

見られるのは慣れているのか、そこには触れてこなかった。横に置いた本を跡部が取ろうとしたところを見て、あ、と声が漏れた。

「だからなんだよ」
「…暇だって言ってるじゃないッスか」

これでは構ってくれと言っているようなものだ。意図せずとも拗ねたような口調になったリョーマを見て跡部はくつくつと小さく笑った。いつもリョーマが見慣れている、といっても元々面識はあまりないのだけれど、高笑いではなくそれこそ優雅だと言っていい笑い方だった。

「あんた、そんな風に笑えるんスね」
「フン、てめえもな」

そこで初めてリョーマは跡部につられて笑っていたのに気づいた。
今までこんなことがなかったために硬直していると、また跡部の手が伸びてきて今度は直に撫でられる。これは。完全に子供扱いをされている。

「可愛くねえガキだと思っていたが、思ってたほどじゃねえな」
「跡部さんも、思ってたより可愛い人ッスね」
「ははは、言うじゃねーの。俺様にそんなこと言うのはジローと忍足ぐらいだぜ」
「……その二人には言われてるんスね」

嫌味のつもりで言った台詞に知りたくもない氷帝テニス部内情を返された気がして、未だ頭に乗る手をはね除けるのも億劫になった。
抵抗しないリョーマに気をよくしたのか、跡部は上機嫌だ。その姿は忍足や芥川から見たら可愛いの部類に入るのかもしれない。が、それはあくまでリョーマが思う二人の感想であってリョーマ本人のではない。ただ、機嫌の良いらしいこの跡部は、嫌いじゃない。

「お客様、到着致しました」

相変わらず品の良い声とともに、緩やかに車が停車した。
窓に視線を移せば、見慣れた家が目に入る。玄関には、車が家の目の前に止まったことを疑問に思ったのか傘を持った従姉と目が合う。何故か高級車に乗っているリョーマにびっくりしているようだ。

「あの、跡部さん。ありがとうございました。あと、運転手さんも」
「今度は傘忘れんじゃねーぞ」

運転手が小さく頭を下げたのが見えた。主人とは態度が正反対だ。

「そうだ、跡部さん」
「なんだ」
「その本、貸してくれません?」

リョーマが指差したのは、先程まで跡部が読んでいた洋書だ。しおりを挟まずに閉じていたことから、きっともう何度か読んでいたものなのだろう。図書館のものではなく、明らかな私物。

「あーん?これ洋書だぞ。お前読めんのかよ」
「俺、帰国子女なんで。イギリス英語よりはアメリカ英語のほうが得意ッスけど」
「そうかよ。まあ、いいけどな。おらよ、汚すんじゃねえぞ」
「どもッス。あの、これちゃんと返すんで」
「当然だろ。借りたもんはちゃんと返すもんだ」
「…今度は俺がそっちに行くッス」
「は、無理すんなよ。またいつか送ってやるよ。その時にそれは返せばいい。そうだな…越前、携帯出せ」

ポケットから携帯を出すとすぐに奪い取られた。リョーマがぽかんとしている間に操作は終わったようで携帯を放り投げられる。どうやら跡部は手癖があまり良くないらしい。

「番号とメアド交換しといてやったたぜ。なんかあったら呼べ。すぐに行くかどうかはわかんねえがな」
「…ども」
「ほら、さっさと行け。家の人待ってんじゃねーのか」
「あっ、そうだった。じゃ、これ借ります」
「ああ」

ドアを開けると、もう幾分か時間が経ったためか、小雨程度にはなっていた。この分なら、家までの間にあまり濡れはしないだろう。跡部に借りた本をカバンに入れて家まで走る。家と車の間ほどで従姉に傘で迎えられて、リョーマはほとんど濡れることはなかった。
玄関まで着いて振り帰ると、跡部の乗った車はもう動き出していて、やがて見えなくなった。

「リョーマさん、お友達の車かしら」
「…まあ、そう、かな」
「とっても高そうな車ね。お友達もキレイな人だったわね」

なんで本を借りようと思ったのか。さほど、そこまで読みたかったわけでも興味を引かれたわけでもない。
ただ、きっと約束を取り付けたかったのだろう。また会う約束を。そうでもしないときっとこんな偶然はない。同じ都内でも地域も学校も全く違う。現にテニス会場以外で会ったのが今日初めてだった。

特に会話をしたわけでも、長い時間一緒だったわけでもない。でも、これきりだと思ったら、それがどうしても嫌だった。それだけだ。
本なんて無くてもいつでも連絡が取れるようになってしまったせいで、この本を借りたことは無駄になってしまったけれど。

「リョーマさん、そろそろ入りましょう。体が冷えるわ」

従姉に促され家に帰る。
本一冊分だけ重くなったカバンに、いつでも返せるように読んでおこうと考える。

「あら、リョーマさん、なんだかご機嫌ね」
「え?」
「いいことでもあった?いい顔をしているわ」

跡部がいないのに、彼につられたときのように笑っていたらしい。
なんでもないよ、とぶっきらぼうに答えて自室に戻った。ベッドに放り投げた荷物の中にあった携帯が震えてメールを受信する音が鳴る。

ああ、やはり。
彼と一緒だと、むず痒い。



(120614)
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