私はあの時、桜を見た
音もなく舞い落ちる刹那の美しさ
あの人の弓は、それによく似た美しさを持っていた

それは今も変わることなく、褪せることなく

私の恋心を、捕らえて離さない




(に、逃げ出したいような…ここに居たいような…。)

心の中でそんな葛藤を繰り返しながら、雑巾をぎゅうぅ、といつもよりきつく絞る

「ふぅ、これくらいかな。ありがとう羽月さん、おかげでぴかぴかになったよ。」

「いえ。当番なんですからお礼言われることじゃないですよ。」

「確かにそうだけど、元々掃除当番だった夜久さんも小熊くんも天文科の集まりでいないから、二人だけだったからね。いつもより疲れたでしょ?」

「部長も頑張ってたんですから、これくらい当然ですっ。」

「ふふ、ありがとう。」

はにかむように笑われ、きゅんとしてしまう
ずるいなぁ、その笑顔

「でも、羽月さんとはもう1年も同じ部活なのにこうやって二人きりで話すなんて滅多になかったから、案外二人きりでも良かったかもしれないね。」

「そ、そうですね…。」

その台詞に、私は少し苦笑いする
話す機会がなかったのは、私が意図的に避けていたからだ

(月子とか宮地くんが居たら平気だけど…二人きりなんて私の心臓が長時間保たない。)

今もいっぱいいっぱいな心臓を精一杯落ち着かせ、ちら、と部長を盗み見る
背筋を綺麗に伸ばして立つその姿はやっぱりかっこよくて、落ち着かせたはずの胸が簡単に高鳴ってしまう

(いつまで経っても慣れないなぁ…。)

一目見た瞬間に恋に落ちてしまったのは、忘れもしない中学三年生の時だった
学校説明会に来た日、たまたま通り掛かったこの弓道場に彼はいた
見たのは、たった一射
けれどその一射に何もかも奪われ、気付けば星月学園に願書を提出していたのは、間違いなく私だ


のに



「羽月さん?」

「!?な、何ですか…!?」

「いや…、終わったなら着替えて帰ろうか。もう暗いから、送ってくよ。」

「え、あ…、別に一人で大丈夫ですよ…?」

「だーめ。女の子を一人でなんて帰らせるはずないでしょ?」

「う…、」

未だに部長に慣れることが出来ないこの恋心は、近付けば簡単にばれてしまいそうで迂闊に彼に近寄れない
近付きたくて弓道部に入部したのに、なんて迷惑な恋心だ

(こ、これ以上一緒に居るとか、本当に心臓破裂しそう…!)

しかしそんなこと言えるはずもなく、はい、と小さく返事をした
すると部長が、少しだけ切なそうな表情でこちらを見る




「…羽月さんは、僕のことが嫌いかな?」




「…えっ?」

一瞬、部長が何を言っているのかわからなかった
どこをどう見たらそうなるんだ
あの月子でさえ気付くほどのこの気持ちに気付くことなく、部長が寂しそうに眉を下げる

「話し掛けてもよそよそしいし、弓道の相談とかは全部夜久さんか宮地くんにするでしょう?まぁ…僕はそんなにも上手じゃないし、頼りにならないのかもしれないけど…」





「――そんなこと!そんなこと絶対ないです!」





それは、反射的だった
気が付けば身を思い切り乗り出し、部長に詰め寄っている自分がいた
だって、今の発言だけは聞き流せない

「部長の弓は誰よりも綺麗です!私、部長の弓を見てこの学園に入ろうって決めたんですよ!?」

「え?」

「たった、たった一射見ただけで…っ、それだけで私は高校受験っていう一大イベントの目標決めたんですからね!?それくらいに部長の弓は魅力的で、素敵なんです!」

貴方に近付きたい
貴方の弓を、近くで見たい
ずっとずっとそれだけを胸に、私は会えない3ヶ月を過ごしたんだ
友達にも親にも呆れられたけれど(ちなみに宮地には流石にそれは内緒だ)
私は彼に近付きたくて星月学園に来て、やったこともない弓道部にまで入部した







部長の存在が、私の今の全てを彩っているのに







「そんな弓を、そんな簡単に卑下しないで下さい。頼りにならないなんて、言わないで!信頼してる私達にも失礼です!!」







感情が高ぶって一気にまくし立てると、目を真ん丸にさせた部長と視線が絡む

(し、しまった…!)

普段部長の前ではなるべく大人しく、と努めていたのに
この一瞬で一年ちょっとの努力が全て無に還っていくのがわかった

「あ…あの…」

食ってかかった衝動で思わず掴んでいた部長の胴着から、そろそろと手を離す
どう言い訳したら、部長の中にあるなけなしの私の好感度は保たれたままになるだろう
そんなにも賢くない頭を必死で使いあれこれ考えていると、不意に両手に熱が触れた

「っ、ぶ、部長…?」

見れば、何故か部長の手に優しく私のそれがすっぽりと包み込まれていて、私は思わず情けない声を出してしまう






「…ありがとう、羽月さん。」





凄く嬉しいよ、と
今までで一番近い距離で、一番嬉しそうな笑顔を向けられる
そんなものには全然免疫のない私は、頬に熱が集まるのを嫌でも理解した

(う、わぁ…っ。ど、どうしよう…!)

隠したいのに、両手を握り締められたままではそれも叶わない
でも離してなんて言えるはずもなく、私はただ目線をうろうろさせてすっかり挙動不審だ
そんな私を知ってか知らずか、部長が楽しそうに笑う声が耳に届く

「ふふ、でも知らなかったな。羽月さん、そんな前から僕のこと知っててくれたんだ?どこかの大会?」

「い、いえ、学校説明会の帰りにたまたま…。す、すみません。」

「どうして謝るの?言ってくれれば良かったのに。僕に、会いに来てくれたんでしょう?」

「あっ!?そ、そうですけど…!なんかだって、そんなの、恥ずかしくて言えないじゃないですか…!」

「あぁ…恥ずかしくて、僕のところにも中々来れなかった、とか?」

「っ、」

「その様子じゃ、正解…かな?」

悪戯が成功した子供みたいに微笑む部長に、私はいよいよ恥ずかしさに堪えられなくなってきた
未だ繋がれたままの手は私が逃げることを許してはくれず、そればかりか手を引かれ距離を詰められてしまう

「羽月さんみたいに可愛い子に会いに来たって言って貰えたら、僕すっごく嬉しいのに。…あ、そうだ。せっかくだから、今言ってみてくれないかな?」

「えぇ!?」

今、この状況で?
名案、みたいに言われたとんでもないお願いに、思わず素っ頓狂な声をあげてぶんぶんと首を横に振る

「い、いくら部長の頼みでも、出来ることと出来ないことが…っ」

「ふふ、別に桜士郎みたいに変なこと言ってないじゃない。それに僕、今まで避けられてて寂しかったんだからね?」

「うっ、」

「ちょっとくらい、甘えさせて欲しいな。」

優しい笑顔が、私にダメと言わせてくれない
ダメだ、部長のペースから抜け出すなんてスキル、私にはない
どうしようどうしようと必死で頭を回転させ、それなら早く終わらせた方が良いんだということにようやく気付き、覚悟を決める








「…私、部長にまた会いたくて星月学園に、入学したんです。あの日から、ずっとずっと、会いたかったんです…。」








初めて会った時に紡げなかった言葉が、一年越しに彼に届く

もう伝える機会なんて絶対ないと思っていたから、何故だか少し泣きそうになる

「…うん。…どうして、会いたかったの?」

「え…、っ、」

恥ずかしくて俯いていた顔を上げれば、部長の顔がすぐ近くにあって身体が跳ねる
優しいのに、どこか意地悪に細められた瞳に私を映して
とびきり甘い声が鼓膜を震わせた








「言ってごらん、…ね?」








耳元でとける声に、息が苦しくなる
すぐ傍の優しい笑顔は、きっともう私の心なんて簡単に見透かしているんだ

(でも…)

それでも私の言葉を望んでくれるということは

ねぇ、部長




私少しだけ、期待しても良いんですか?




緊張で震える足で頑張って爪先立ちをして

彼の耳に内緒話をするみたいに唇を近付ける






「……すき、」






ずっと、ずっと大好きだったんです





言った瞬間、身体中の熱が上昇したみたいに熱くて、頭がくらくらした
足の震えが全然止まらなくて、今にもその場に座り込んでしまいそうなくらい、ドキドキしている

「羽月さん」

ふわり
頭に触れた温もりに、部長が頭を撫でてくれていることがわかる
その大きな掌が優しくて、安堵の息を小さく吐いたのだけれど――








ちゅ








「よくできました。」







――その吐息ごと唇を奪うもんだから、勢いよく倒れてしまったのは、仕方のない話だと思う













(ふふ、あんなにも熱っぽく見つめてくるのに近付くと逃げちゃうから、ちょっと意地悪しちゃった)(全部ばればれだったんですか!?)



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