3.もうこの唇に触れるものはない

結局、1日が経ってしまった。また朝を告げる音楽が私の耳元で存在感を徐々に大きくさせる。手探りでアラームを止めると同時に、スヌーズも消してしまった。今日は休みだから、起きる時間を気にしなくていい。でも向こうの世界で習慣づいてしまったのか、意識は不思議とハッキリしていた。布団をどかして身体を起こすと、やはり現代の物だからかいつもより目覚めが良い気がする。起きてしまったものは仕方ない、と少ない洗濯、お風呂の掃除、昨日洗うのを忘れてしまった皿洗い、全て終わらせた。10分コースの洗濯も終わりを告げる音が鳴り、少し水気を飛ばして外に干す。今日は嫌味なくらいに良い天気だ、私の気分とは裏腹に。

「…………あ!これも洗っちゃった…!!」

洗濯カゴから一枚一枚取り出していくと、昨日見つけた例のジャージが出てきた。寝ぼけて洗濯機に入れちゃったのか、ちゃっかり洗ってしまっている。すん、と匂いを嗅いでみると、私のいつも使ってる洗剤のフローラルな香りがした。い、良い匂い……と思いながらも本心はやってしまったの一言に尽きる。折角、あのひとの香りが残っていたのに、思い出す手がかりを自分で消してしまうだなんて、なんて勿体無い。そう思い盛大に深いため息が零れた。はあ、と気分が沈んでいくと、太陽は煩わしいくらいに私を照りつける。その時、ドンッと音が聞こえた。急いで振り返った先に見えた、あなたはーーー。

「っ………くそ、何がどうなってるんだ」

「え……………?」

部屋の中にいる人物に、驚きが隠せない。普通考えて不審者だから警察にだとか管理人さんを呼ばなきゃいけないと思うのに、何故だか、そのひとから目が離せなかった。この世界には不釣り合いな重そうな装備、そこから見える褐色の肌、腕に彫られた、竜。間違いなく、私はこのひとを知っている。知っているはずなのに、目の前にいるのに、どうして名前が出て来ないの?

「此処に、いたのか…!」

「ぁっ、わ、たし…………」

「…………?どうしたんだ」

皺になったり着ている服が濡れるのも構わず、手に持つジャージを抱き締めた。縋れるものがこれしかない、携帯も部屋の中、ベランダにいる私じゃ、何も出来ない。走って逃げればーーーでもこの家から出たら、他に行く宛もない。現実逃避のようにそんな事を考えていれば、彼が、近付いてくる。だめ、まだ何も思い出せてないのに、顔向けなんて出来ない………っ!!

「駄目です………っ!!」

私の声で、弾かれたように進む足が止まった。それでも距離は手を伸ばせば触れそうな位に近く、俯いても彼の存在を強く感じる。ずっとこのままだったらどうしよう、彼を追い出すことも出来ない、なんて私は身勝手なんでしょうか。ごめんなさい、震える声で告げると何で謝るんだ、と返事が返ってくる。多分私が皆さんの事を覚えてると思っているからだ。このままいけば彼を傷つけてしまうかもしれないと考えたら、酷く胸が苦しくなった。このひとを、傷つけたくない。

「思い、出せないんです」

「…………」

「私が、皆さんと一緒に過ごしてきた事は覚えています。でも肝心な事は今も、分からなくて………名前も、思い出せないんです……………」

「だから何だって言うんだ」

「……っ…どういう、ことですか……?」

「あんたが忘れても、俺は覚えてる。あんたが思い出すまで、いる」

「こ、此処にいる、という事ですか…!?」

思いもよらない展開にそう尋ねれば、さも当然のようにああ、と短い返事が返ってきた。たしかに私は一人暮らしで部屋も狭くないから問題はないけれど。そもそも、忘れていることは良いのでしょうか。私がもし彼の立場だったら、ショックであんな事は絶対言えないというのに。ともかく今は部屋に戻ろうと足を動かせば、彼が私の肩に触れる。吃驚して顔を上げた先に見えたのは、金色の綺麗な瞳だった。

「……………会いたかった」

「っ…………………!!」

一瞬だったけど、唇が触れたのが分かった。優しく、触れ合うだけだったのに、何故だか甘く感じて心がときめく。それが離れただけの至近距離でそんな事を言われると、まるで熱に浮かされたように恥ずかしくなった。でも、嫌じゃなかったのは事実。それはきっと、このひとが私を本当の意味で迎えに来てくれたからでしょう。まだ朧げな記憶の中で、彼の香りが私の記憶を溶かしてくれるような感じがする。パチンと弾けるように見えた記憶の欠片は、涙が溢れるくらいに嬉しいものだった。

「…………お…………くり、から……さん」




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