私と青八木君の関係はとても曖昧だ、と思う。

 青八木君とは高校で出会った。でもクラスは違うし部活や委員会も違う。同じ学校で同じ学年の、何百人の一人。それだけ。
 私と青八木君に接点なんてまるでなかったけれど、手嶋君が私たちを引き合わせた。手嶋君というのは、入学式直前に校内でうっかり迷子になった私を助けてくれた男の子。クラスが違うのに廊下や購買でばったり会うことが多くて仲良くなった。英語と数学を同じ先生に教わっているというのも仲良くなった要因だろう。それで、手嶋君と仲のよい青八木君ともよく顔を合わせるようになった。私と青八木君が会うこと自体になんら不思議はなかったのだと思う。

 私と青八木君の関係は知り合いや友達の友達では素っ気なさ過ぎるが、友達というのも少し違和感がある。―――いや、私が青八木君のことが好きだから、そう思いたいだけなのかもしれない。青八木君にとって、苗字名前はクラスメイトですらない、ただの顔見知りかもしれない。
 するすると流れる時間は高校に入ってからとても早く感じられる。青八木君との関係はそのままに、高校生になって二度目の冬が終わろうとしていた。


 青八木君を好きになったのはいつだったか、わからないが、決定的だったのは一年の秋の日だ。
 その日は真夏のような暑さで、夏バテが治らない私の胃腸が悲鳴をあげていた。
昼になっても食欲はなく、母お手製のお弁当は大半を残してしまった。母には申し訳なかったけれど仕方がない。早々に食べることを諦めてぼんやりと友人が食べる姿を見ていた。けれど友人の食べる姿すら胃に悪い気がして、一人になりたくて、水を買ってくると言って逃げるように自販機に向かった。
 人混みを避けて通った選択教室の前。全開になっている扉から、青八木君が机に突っ伏しているのが見えた。
 インターハイに出る。そう決めた青八木君と手嶋君は、二人で組んで猛特訓を重ねているらしい。ゆるっゆる文化部の私には内容を聞いても理解できないほどの運動量だったから、身体を壊してしまわないか心配だった。
 私と同じで体調不良だったら……はじめは確かにそう考えて近づいて、顔を覗きこんだはずだった。けれどもそんな考えはすぐさま消え去って、私は息をのんだ。
 すっと閉じられた目、暑さからかやや上気した頬にかかる髪、うっすらと開いた唇。

 人を、はじめて欲しいと思った。

「――ん、……」
 気配に気づいたのか、青八木君はすぐに目を覚ました。ドアの方を一瞬向いたと思ったら、私の顔をのぞきこんだ。
「苗字、顔色よくない」
「えっ……あ、」
 一瞬忘れていたけれど、体調がよくないのは私の方だ。指摘されるほど顔色が悪くなっているとは思わなかった。
「大丈夫?」
「夏バテで食欲ないだけだから、大丈夫」
 私の返答に眉根を寄せた青八木君は、鞄からスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。
「……これ」
 これって、部活で使うんじゃないのかな。私に渡すためのものじゃないと思うんだけど。
「あげる」
「あの、いいよ。買いにいくところだったし」
「ぬるいほうが、飲みやすい」
 だから、ほら。右手を掴まれ、左手に持たされたペットボトル。
 飲まなきゃ離さないとでもいうような無言の圧力に、苦笑いして降参した。
 この出来事―――私にとっての大事件を、青八木君は覚えているのだろうか。



 私と青八木君に交流があることを知っているのは手嶋君くらいだ。だから、最近は私が青八木君に話しかける姿を見てにやにやと笑うのが気になっていた。
 そして今朝、ついに「お前、青八木が好きだろう」と聞かれた。その時の手嶋君の悪どい顔といったら!
 青八木君が好きなことは事実で、仕方なく肯定する。本当に悪どい顔だな。手嶋君は悪どい笑みを深め言う。
「お前に協力してやるよ」
 効果音でもつきそうなニヒルな笑み。全くお節介である。
 男友達のようなさっぱりすっきりした関係や部活の仲間という強固で切ることのできない関係とは違って、私と青八木君の関係はどちらかが会わないことを望めばすぐに切ってしまえる脆い関係だ。さらに青八木君は自転車とインターハイに一直線。だから私は青八木君との交流が続いているという事実だけで満足してしまう。

 例えば朝日で金色に輝く髪。
 或いは夕日に赤く燃えるように煌めく髪。
 たまに発するアルトに近い声。
 その目がほんの少しだけ和らぐ瞬間。
 すれ違うときの軽い会釈。
 貸したノートと一緒に返されるありがとうの一言。
 青八木君と手嶋君がとても慕っている、田所さんという先輩に二人して全力で駆け寄る微笑ましい姿。
 真剣な眼で先を見据えて走る姿。
 それだけで私の心は満たされていった。


 さて、ことの発端は手嶋君にノートを貸しっぱなしにしていたこと。"ノート、部室に取りに来い"とメールがきたので、放課後に自転車部の部室を訪れた。厳しい先生だから予習しないといけないと知っているのだから、手嶋君が返しに来てくれればいいものを。今日の時間割では朝しか会えないのに、あんな会話ごときでその存在を忘れていた自分が憎い。
 手嶋君は既に帰る準備をしていた。今日はお休みらしい。ちょっとした不調が出る選手が多くて、オーバーワークだから休め、と先生に言われてしまったという。休めと言われても一度帰ることで体裁を繕うだけで、どうせ今日も練習するのだろう。邪魔をしては悪いな思いノートだけもらってはいさよならのつもりが、なあ#苗字#、と呼び止められた。
「苗字と青八木って普段どんなメールするんだ?」
「私、青八木君の連絡先知らないけど」
「……嘘だろ」
「本当だって。困ったことないもの」
「知りたくねーの?」
「そのうち」
「随分な希望だな」
 ぶすっと答えた私が面白かったのか、けたけたと大声で笑う手嶋君が憎たらしいことこの上ない。はー笑った、なんて反省の欠片もない手嶋君は私を馬鹿にしているのか。
「青八木のこと好きなんだろ」
「好きよ」
 まるで今日の晩御飯は何かなと聞くようなノリに流されてそのままの気持ちが言葉になる。私の即答を聞いて、顔を見て、悪どい顔で笑った手嶋君に、はっとした。
「だってよ、青八木」

 先に言い訳しておくならば、誰に言い訳するのかって自分にだけれども、雰囲気に流されやすい私は深く考える前に口が開く性分なのだ。だから私は悪くない。手嶋君が何を企てていようと私は悪くない。
 ぎぎ、と効果音でもつきそうなぎこちなさで手嶋君の視線を辿れば、入口に立ちすくむ青八木君の姿が見えた。
 思考は急速に冷え、頬がカッと熱くなる。
 なんで休みの日に部室にとか、今私は何を話していたとか、やっぱり青八木君が好きだとかそんなことが浮かんでは消えて、結局頭は真っ白になった。
 青八木君は入口で硬直している。目が見開かれ、肩には余計な力が入っているのが見てとれる。ほんのり赤い耳と頬。少しだけ開いた口。
 私の血液は全部心臓に移動してきたんじゃないかと思うくらい驚いているけれど、あの様子だと青八木君もびっくりしている。
 青八木君の口がはくはくと空気を吐き出し、また閉じられた。
 手嶋君は見つめ合う私達を交互に見て、ふっと笑い声をあげて歩き出す。
「んじゃ、俺はこれで」
 青八木君の肩を軽く叩いて去っていった手嶋君。つまり、私と青八木君が残された。
 彼の唇が再び開いたのは数秒後か数分後か。
「かえろ、う」

 冬の夕日が彼の髪を黄金に染め上げた。


「自転車、乗って帰らないの?」
「今日は休み、だから」
「そう、なんだ」
「うん」
 人ひとりぶんの微妙な距離を保ちながら並んで歩く。合わせてもらって悪いなあと思いつつも、ロードバイクが私と反対側にあることが嬉しかった。
 先ほどの話が何処から聞かれていたのかわからないけれど、一番大事なことは聞かれていて、多分勘違いもされていない。頭がよく回る手嶋君が私を騙している可能性だってあるけれど、青八木君は私と一緒に帰っている。自転車をおして、歩いて一緒に帰ってくれている。
 もう、こうなれば自棄である。好きになれないからと断られたらショックだが、自転車に専念したいと断られるなら怖くはない。いや少しショックかもしれないけれど。
 立ち止まって息を吸い込む。必要なのはほんのすこしの勇気と、意地。女は度胸と愛嬌だ。
 ああ、空気がとても冷たい。清んだ冬の空気だ。立ち止まった私と、少し先まで歩いた青八木君。私は斜め後ろから青八木君を想う。
「来年」
 正門坂を下り終わってすぐ、立ち止まった私の声に青八木君が振り返る。
「来年は、同じクラスがいいな。それでね、インターハイに出る青八木君を観に行くの」
 青八木君は目を僅かに見開いて、さらりと髪を揺らした。毎日太陽にさらされるからか、一年前よりも傷んだ髪は努力の証だろうか。
「……そう、だな」
 青八木君は私たちの間に増えていた二歩ぶんの距離を詰めた。
 ぐるりと一周、周囲を見回した彼は徐に口を開いた。
「俺は苗字に何もしてやれない」
 あ、いま心臓が跳ねた。
「そんなことない」
「それでも、いいなら」
 青八木君には珍しく、言葉を遮るように口を開いた。
 またきょろきょろと左右を見て、何かを決心したように口を開く。照れたような顔の赤みは、夕焼けのせいだろうか。

「名前、好き」

 優しい声色。空と青八木君の髪がぼやけるように溶け合って、一緒に彼の笑みが歪んだ。

「はじめ、くん」

 おろおろと視線を揺らす青八木君が一瞬だけ見えて。青八木君をしっかり見たくて、目を擦ろうとすれば手が暖かさに包まれた。
 私の喉はもう嗚咽を漏らすだけで、この想いを言葉で伝えることは難しそうだ。
 けれど遠慮がちに指先を寄せあって、言葉はもういらなかった。