いつもみたいに帰りの準備をしていると、自転車置き場には手嶋がいた。三年生になってから急にたくましくなった手嶋は周りから見たらかっこ良くなった、だそうで。変わらない気がするのは私だけだろうか、確かに先輩らしくはなったかなとは思うけどさ。よお、片手を軽く上げて私に挨拶をしてくる彼は誰にでもこんな感じにフレンドリーで見た目よりもノリのいい最近の男子って感じ。私は同じように手を上げるだけ、ママチャリの鍵を挿すのに一苦労だからね。あれこれほんと硬いなあ、鍵がなかなかカチャッといかない。もだもだしていると手嶋は近くに寄ってきて勝手に私の手から鍵を取ると意図も簡単に鍵を挿した。ほらよなんて言葉に出してカッコつけるのが手嶋流、まあ彼にしてみればカッコつけていないんだろうけど。いちいち行動や言動がかっこいい、と言ってしまえばいいのか。「お前の自転車どんだけだよ」笑われてしまう、仕方ないじゃない三年間休まず外に放置され雨に打たれてもほぼ毎日動いてる私の愛車なんだから。手嶋が乗ってるロードバイクとかいう高級車とは違うの、これは一般庶民向けのママチャリなんだよ。油差した方が方がいいんだけどね、手が汚れるの苦手だから。今度手嶋がやってよ、口が裂けてもそんなこと言えないや。手嶋はなにかと私に厳しいから、今日みたいに優しくしてくれる日なんてそうそうあるもんじゃない。制服姿の手嶋を見るのも三年目か、思えば長いようで短かったな。カゴにカバンを適当に放り入れる、そういえばさっき手嶋の手すごいガサガサだったな。ハンドクリームでも塗ってあげようか、形が崩れているカバンからハンドクリームを出し手嶋の元へと駆け寄れば怪訝そうな顔で見られた。手、出して。ん、どうぞ。これ手嶋に塗ったげる、すり込むようにハンドクリームを手嶋の手全体に塗れば手嶋は無言でそれを見つめていた。

「バラの香りー」
「おう、サンキュ」
「手嶋の手ガッサガサだったから」

彼特有の笑い方でその場はやんわりと和む、触れ合ったこともあって私の手は温かい。多分手嶋も温かくなったのではないかと、推測する。少し話すか、と手嶋が私においでおいでをするのでそれに従うようについて行く。手嶋の横を歩くのはいつも決まって青八木くんのお仕事なので今だけは得意になれた、だいぶ身長差が出た気がする。身体つきもガッチリしてるし、細いけども。手嶋は適当に座る場所を見つけたらしく、腰を下ろす。自分の横に来いとぽんぽん叩いているので仕方なく座った、小さく息を吐く音が聞こえた。会話はない、パタパタと足を動かす私を見て笑っているだけの手嶋。こいつ、さっきから私のこと小馬鹿にしてないか。帰り道を急ぐ生徒たちで溢れかえっているこの道に二人で並んで座っているなんて、なんか変な感じだ。話しをしようと誘ってきたのは手嶋なのに、なかなか話題をふらない彼を見て珍しいこともあるんだなあと単純に思った。饒舌な手嶋が口を閉じたままなのが気になる、もしかして何か悩み事でもあるのかな。「苗字さ、進路って決まってるのか」ようやく口を開いたかと思えばそんな内容か、何を躊躇うことがあったのだろう。私は気の抜けた声でうんと呟いた、手嶋は勢い良く顔をこちらに向ける。え、なにどうしたの。進路と言えば私たちもそろそろ決めなければいけない、本当は二年生の頃からか自分の中で決めていたことだけど。それだけに周りの子達よりは卒業までの目標みたいなのもしっかりとしている、と自分では思っている。

「早いな」
「まあ、私は選択肢が一つしかないから」
「そっか」
「手嶋は?」

首を静かに横に振るだけ、まだ決まっていないということだろう。でも手嶋は当たり前だよ、まだまだ大事なことが残っているもの、夏のインターハイ。彼はこれの為に今必死こいて部活に専念している、進路なんて考えている暇はないはずだ。俺だめだぁ、随分と弱気な発言に鼻で笑ってしまう。笑うなよ、弱々しい声で呟くと肘で私の横腹を突ついてくる手嶋。だって、だって、いつもそんなこと言わないし。私の知っている手嶋は前向きでポジティブな発言が多いから、こんなの違うような気がして。悩んでいるんだろうな、手嶋なりに。思いっきり空を仰ぎみるとゆっくりゆっくり進んでゆく雲が浮かんでいる、ほら、あんな風にゆっくりでいいじゃん手嶋も。空に向かって指を指すと手嶋も同じように空を仰ぎ見た、んーゆっくりでいたいけど時間はそれを許さないだろ。確かに、そうだ。彼の言うとおり私たちには時間という制限がある、時間は進むけれど後には戻らない。進む時の中で優先的な順位を決めそれをこなしていく、ただそれだけだ。ずっと学生で居たい、ずっと仲の良い友達と過ごしていたい、それだけだと駄目なんだ。じゃあ手嶋はどうしたいの、心の中で彼に問い掛けてみる。雲が進んでゆく空を二人して見て、なにも会話がないこの瞬間がとても長い時間のように感じて。「結局苗字の進路はなんなわけ?」雲が止まった気がした、まるで私の思考のように。実はこれまだ誰にも言ってないんだよね、親友の恵子ちゃんにだって言ってないんだから。就職だよ、ゆっくりゆっくり吐いた息と一緒に言葉が流れていくような気がした。は?今度こそ手嶋は素っ頓狂な声を出し私を見た。そんなに驚くことなのだろうか、だいたいクラスの子達にも就職組みがいるだろうに。大学行くお金もないし、奨学金貰ってまで学生でいたいなんて思わないし。それと、親からも就職しなさいと言われている。私には選択肢が一つしかない、だから仕方ない。働くっていうことしか考えていなかったから今さら大学がどうとか先生に言われても分からないし、学力には問題ないと言われたり推薦してあげると言われても無理な話で。夏には就職試験が始まると思うの、手嶋も夏になったらインターハイがあるでしょ。頑張ってほしい、だってせっかく掴み取った選手の座。できれば活躍してもらいたいし、手嶋の努力が身を結べば良いといつも思う。こんなに頑張っているんだから、こんなに一生懸命なんだから、誰がそれを認めてあげることができるだろう。

「そんなに驚くことでもないでしょ」

がやがやと騒ぐ声にかき消されてしまいそうな私の声は彼に届いたのか、肩に手を置けば手嶋は私の手を取った。その行動が私には理解不能で、先程塗ってあげたハンドクリームの匂いが鼻の奥に広がる。「場所は、やっぱり千葉から離れんのかよ」ぎゅう、と握られたまんまの手が少しだけ痛む。そりゃあ、ここにはいられないよ。東京にする予定、今度こそ聞こえるか分からない程に小さな声だった。そっか、と手嶋はようやく手を離した。住み慣れた街から離れるのは正直怖い、知らない人がたくさんいるし分からないことだらけだから。でも、それでも自分は少しずつ成長していかないといけないんだ。年を重ねていかなければいけないんだ、いつしかそんな風に考えるようになった。

「頑張れよ、色々と」

うん、頑張るよ、頑張るから、だから手嶋も頑張って。ようやく手嶋の顔に笑顔が戻った、それだけで安心だ。よかった、手嶋が笑ってくれて、よかった、手嶋が応援してくれて。私たちの間にはほっこりとした温かさが充満する、オレンジ色で優しくてでも消えたりしないそんな温かさがある。ホッとした私は手嶋の身体に自分の身体を預けた、一瞬、ほんの一瞬手嶋の体が跳ねたけれどそんなのどうでもいいと思った。「なんだよ苗字、俺が恋しくなったか」分からない、分からないけど今はこうしていたいんだ。手嶋最近女子から人気だものね、毎日のように話題に上がるの知ってた?青八木くんと手嶋はいつもセット、手嶋と青八木くんは元からいい奴なのに最近人気者になってちょぴっと寂しい。私だけがいいところ知ってたのに、私だけが手嶋を見てると思ったのに、ちょっとずつ離れていく手嶋を追いかけることが出来ないように思えて。

「やっぱり恋しいかもしれない」
「な!お前、なに言ってんだ」
「自分で言っといてなにその反応」
「う、うるせ」
「手嶋ー」
「なんだよー」
「大人になりたくないね」
「泣きそうな声で言うな」

うん、ごめん。手嶋の頭が私の頭にコツンと当たる、ふわふわの手嶋の髪が私の顔にかかりくすぐったい。お前もさ、ゆっくりでいいんじゃね?手嶋の声は言葉は私の気持ちを軽くする、魔法の声だ。
今、止まっていた雲が動き出した。ゆっくり、ゆっくりと、進んでゆく。真っ白の雲が、私たちの真上を通り過ぎてゆく。