午後の授業が始まると同時に、一斉に周りの奴らは席に着く。俺もその中の一人でくだらない授業を聞く、合宿終わりの授業は体に堪えるようだ。教室の後ろの扉が静かに開いた、なるべく主張しないようにゆっくりとそいつはやって来た。そのままじゃ面白くない、痛い足を無理矢理伸ばし歩いてくるそいつに引っ掛けてやった。勢いよく音を立てて転ぶ姿は見ものだ、瞬間リズムを奏でていたチョークの音が止む。どうやら先生が気付いたらしい、大きな声で名前を呼ばれ小さくでもおどけたような返事をする床に膝をついている奴。「ちょっと、手嶋なにしてくれてんの」スカートを一、二回祓うとその場から立ち上がる。すみません先生、と別段申し訳ないと思っていない謝り方で頭を下げると俺の前の席へ座った。お前、もう五限目だぞと呆れ声が耳に入る。そりゃあそうだ、遅刻っていうよりかはもう学校終わりかけだし。苗字はあまり学校に来ない、朝からいる方が珍しいのだから。それはこいつの家庭環境に問題があったりするのだけど、今日はどうやらバイトが長引いたらしい。そういえば苗字に会うの久々じゃねーか、俺は合宿で学校休んでてこいつはバイトでそんなに学校来れていなくて。後ろ姿を見るのも久々で授業で滅入っていた気持ちが幾分か晴れやかになる、声を聞いたのも久々か。長袖のブラウスのボタンを外し腕まくりをし始める苗字、さっき俺に足を引っ掛けられたことなんてこれっぽっちも気にしていない様子。少しくらい気にしてくれるもんだと思っていたが、苗字にとってそんなのはどうでもいいことらしい。はぁ、マジだせーじゃん俺。気にして欲しいとか、ただの子供だ。合宿で一年に負けてから頭でもいかれたか、そうに違いない。

「そいえば手嶋」
「な、なんだよ急に」
「どうしたの包帯男になっちゃって」
「あー、別にいいだろ」
「よくないんだけど」
「合宿でちょっとな」

一年に負けたんだ、汗も何もかも最後の一滴まで絞り出して、本気で勝負して、負けたんだよ。だなんて言えるわけねーよ、あーもう。心の傷に塩塗りこむなよほんと、辛すぎる。言えたらどれだけ楽なんだろう、今思っている気持ちを全て吐き出したら何か変わるだろうか。いいや、そんなことを考えるのはよそう。俺は負けたんだ、あいつら一年に。それだけじゃないか、たったそれだけのことだ。インターハイに選手として出場出来なくたって、サポートを全力で頑張れば良いんだから。田所さんと走れる最後の大会だっけど、今さらそんなこと言っても仕方が無いんだから。引きずりすぎだろ俺、こんな気持ちじゃ来年まで持たねぇぞ。ねぇ手嶋さ、今年はインハイ出場するの?ってだからなんでお前はそういう際どい質問してくるかな、言わなくても良いかなーって思ってたらこれだぜ。これ見りゃ分かるだろ、無理に決まってる。ボソっと呟いたつもりだったが苗字には充分聞こえていたらしく、勢いよく後ろを振り向いた。大きく目を見開いていかにもビックリしてますって顔だ、なんてアホ面してんだよまったく。その怪我のせい?俺の顔を見つめながら苗字の小さな口から零れた言葉は実に素直な言葉で、思わずいいやって言ってしまった。そうしたら次に来る言葉は決まっている、じゃあなんで、だ。思った通りの言葉を発した苗字の額にデコピンをしてやった、じんわりと赤くなった部分を押さえながら俺に答えを求めてくる。言いたくないんだけどな、そうもいかないってか。「手嶋、顔怖い」自分の曝け出したくない汚い部分を今から言おうとしてるんだ、顔だって険しくもなるだろう。俺と青八木は一年に勝負を仕掛けた、俺の作戦は完璧だった、青八木の走りもそれに負けないくらいに完璧だった、一年を完璧に抑えたと思った、だけど俺は一年に越されたんだ。完璧だなんて言葉はないんだよな、合宿で成長した一年を見ていなかったわけじゃない、けど勝てると思っていた。俺たちに足りなかったものはなんだ、気持ちだって負けちゃいなかった。じゃあ敗因は、そんなの簡単だった。一年が俺たちより早くゴールしたことと、俺自身が自分の作戦に驕っていたからだ。全力は出し切ったさ、全力出してプライド捨てて走ってよ、最後は足が動かなくなって。なあ、俺だっせぇだろ。かっこ悪いよな、だからこんなこと言いたくなかったんだよ。

「ダサくないよ」
「はぁ?」
「手嶋、あんたかっこいいじゃん」
「なに言ってんだお前」
「全力出したんでしょ、それって本気だったんでしょ」
「まぁ、な」

最高にかっこいいじゃんか、なんて真顔で言われたら何て反応して良いのか分からなくなる。そうやって、苗字は俺に背中を向けた。なんだよそれ、全然カッコ良くねーだろうが。拍子抜けした、まさかそんな言葉で返ってくるだなんて想像もしていなかったから。背中が、妙にたくましく見えて少しだけ羨ましい。苗字は自分をしっかりと持っているタイプだと思う、それは考え方だとか極端に言えば生き方のことだったり。周りのことなんて気にしていない、むしろカッコ良く見える。遅刻なんて毎度のことで出席日数が足りてるのかさえ分からないのに、きっちり進級していた。頭もそんなに悪くないし友達も多い、自然と苗字に人が集まる…そんな感じだ。もしかしたらこいつ、相当のスペックを持ち合わせているんじゃないか。

「あーあ、お前が男だったら絶対かっこいいのに」
「手嶋にはそれ、言われたくなかったなぁ」

顔は見えなかったけれど声はいつもより幾分も小さい、むしろかき消されてしまうのではないかというほどに不安定な大きさだった。ピタリと苗字の手が動きを止める、振り返った苗字の顔は今まで見たことのない表情をしていた。苦しそうな、悲しそうな…そんな顔だ。俺、何かしたのか。分からない、どうしてそんな顔してるんだよ。無理矢理笑っているところなんて、らしくないのに。手嶋さ、俺の名前を呼ぶ苗字と目が合う。「女の子の気持ち全然分かってないよ」は、なんのことだ。気持ちだなんて全く考えたことなくて、いやてかむしろそんなこと誰も考えないだろ。ハッキリ分かったことがある、俺何か悪いこと言った。苗字が気に障るようなこと、平気で言ったんだなって雰囲気で気付いた。

「ちなみに言うと、私は女の子にもモテますから」
「あの、さ」
「さらに言うと、手嶋には女として見て欲しいです」
「は?」
「だ、だから!少しは自分のかっこよさに気付けっての!あと、私は手嶋のこと男として見てますよ」

耳まで真っ赤にしてこしょこしょ話す苗字、なんだこいつ。 思わず自分の口を手で塞いでしまった、恥ずかしいっつうか、なんか、これ、告白っぽくねぇか。心臓が口から出そうだ、ヤバイ。だいたい一年生に負けたくらいで気落ちしすぎ、そう言った苗字にデコピンされて俺まで顔に熱が集中する。手嶋は手嶋でしょ、そっぽを向きながら多分励ましてくれているんだと思う言葉を次々に連呼してくる苗字。「もう一回言おうか、手嶋は最高にかっこいい」へらりと笑うその顔は先ほどの表情とは全く似ても似つかないものだった、調子いいやつ。それでも俺の心臓はドキドキと音をたてて止まない、これは何かの間違いだ、何度も言い聞かせるけれど目の前にいるヤツが今までと違って見えてしまい意識せずにはいられない。ぐいっと頭を引き寄せられ耳元で呟かれる、手嶋のことすんごい好き。今度の今度はどうしようもできない、満足したのか黒板のほうに向き直る苗字。これ以上言われたら俺、死んじゃいそうだから、もう何も言うな。