幼馴染である手嶋純太と、全く会話を交わさなくなったのはいつからだろう。小学校で、からかわれた時からかもしれないし、中学校で、お互いにお互いを異性として意識するようになってしまったからかもしれない。それでも、結局、高校まで同じところに行くのだから、私達の幼馴染という不安定でおかしな関係は続いて行く。例え、道で会って、挨拶すらしなくとも。お互いを幼馴染だと、周りに公言しなくとも。 手嶋純太は、女の子に人気があった。気さくで、取っ付きやすくて、それでいて頼り甲斐のある手嶋純太を、女の子が放っておくわけがないのだ。それに、最近、顔もまあ良くなっている。かわいいなぁ、と、気になっている女子もいるらしい。 そして、私もまた、自分で言うのもなんだが、男子と仲が良かった。告白される、とかの頻度は、とりわけて多いわけではないが、向こうからすると、私は話しやすいのか、とにかく男友達の人数が多かった。また、友達以上恋人未満のような、くすぐったい関係の相手もいた。
それでも私達が、恋人を作る事は一度たりともなかった。
「大きくなったらけっこんしようね」 残念ながら、幼き日、そんな事を、言って覚えも言われた覚えもない。だから、昔の約束を今も守っていて…なんていう、ロマンチックな理由はどこにもないのだ。しかし、なんとなく付き合うとか、そういう方向に向かって行くと、手嶋純太の顔が浮かんで仕方がなかったので、毎回断っていた。 「お前にはおれしかいないなぁ」 これならば、言われた覚えがある。というか、よく言われていた。多分、全く話さなくなるそのギリギリまで、このセリフは手嶋純太の口から発せられていた。それを聞くと、私は、純太にも私しかいないくせに。と、言い返してやりたくなるのだった。やった試しはないが。
そう、今思い出したが、私は昔に手嶋純太を、純太と呼んでいたのだ。なんと初々しい。今では、純太なんてとてもじゃないが呼べないし、手嶋と呼ぶのもなんだか違和感で、結局フルネームの手嶋純太と呼ぶ、という、最もしっくりこない手段をとっていた。名前程度で馬鹿馬鹿しいな、と、つくづく思う。しかし、学生にはこれが大きな問題なのだ。
手嶋純太は、中学の頃から、自転車に凝っている。その頃から私はもう、話さなくなっていたので、詳しい事は知らないが、これまで成績は凡凡といったところで、大した事はないらしかった。それでも、手嶋純太は毎朝二時間も自転車に跨って自主練習をしていたし、自転車の本をよく買っていた。これは、私が偶然目撃してしまっただけであって、本人から聞いただとかそういう話でない。とにかく、それだけ練習をしても、手嶋純太は凡人だった。 そんな手嶋純太を変えたのが、青八木一である。 青八木一という男は、手嶋純太と同じで、自転車競技部に所属しているらしい。二人とも、正直そんなに速いわけではないのだ、と、自転車競技部の友達が話してくれた。俺の方が速いぜ、なんていうどうでもいい自慢と一緒に。いつも疑問だった。どうしてそんな、結果のでないものをやり続けようと思えるのだろう、と。私は、スポーツにしてもゲームにしても、有る程度はやり込むが、なかなかそれ以上行けないという、限界の壁を見ると、すぐに他へ移ってしまうくせがあった。それはきっと、私だけではない。手嶋純太は、その限界の壁に、中学の頃からずっとぶち当たっているのではないだろうか。 しかしそれは、私の勘違いだったらしい。 青八木一と、手嶋純太が、コンビを組んだと聞いた。漫才ではない。自転車のである。二人で、作戦を立て、力を合わせて戦う。そうする事で、上位を目指そうとしたのだ。 その計画は、どうやらとても良かったらしい。 それから、手嶋純太は、青八木一を何度も表彰台に送った。 手嶋純太自身は、青八木一を一位にさせるための、バネの役をするらしい。 一種の、自己犠牲精神だ。彼らしいな、と思って、少し笑った。
手嶋純太は、私からどんどん遠くなって行く。しかし、根本的なところは、ずっと変わっていないようだった。例えば、リーダーシップがあるところ、紅茶が好きなところ、オシャレにも気を使うところ、にんじんが嫌いなところ、たまに、ジッと真剣な眼差しで私を見つめるところ。 私の知らない手嶋純太は、ここ数年でかなり増えた。しかし、私の知っている手嶋純太は、きちんと生きている。
それなのに、この状況は何か。
「な、何…?」 「…」 正直に白状すると、痴漢かと思ってヒヤッとした。 部活が何時もより長引いて、遅くなっちゃったなぁ、なんて早足に夜道を歩いていたら、突然右腕を掴まれたのだ。 痴漢かと思い、抵抗しようとしたが、よく見るとその相手は手嶋純太だったので、拍子抜けしてしまった。 手嶋純太は、背中に何やら細くて長い筒を持っていた。なんだろう、また自転車の部品だろうか。色々聞きたいところはあるのだが、口をつぐんで答えてくれない。いつも饒舌な彼は、どこへ行ってしまったのだろうか。 「…やっぱりか。」 「え?」 「やっぱりかよ」 明確な怒気を含んだ声で、手嶋純太はそう言った。久しぶりに声を、こんなに近くで聞いたが、声変わりしていて昔とは全然違うんだなあ、と、しみじみ思う。そんな風に呑気な事を考えている私をよそに、手嶋純太は掴んだ私の右腕を思いっきり引いた。 「うわっ!」 あまりに強かったせいで、つい足がもつれる。こいつは、いつの間にこんなに強くなったのか。 あ、しまった。 地面が、もうすぐ迫ろうとしている。手嶋純太はなんだかおかしいし、転ぶし、今日はなんだかついていない。こういう時は、下手に抵抗すると余計な怪我をするのだ。ここは潔く擦り傷を付けよう。と、開き直った、その時だった。 「っぶねえ…」 手嶋純太は、私が転んでしまう前に、体を支えてくれたのだった。しかも、たった右腕一本で。自分で言うのもなんだが、私はそんなに軽い方ではないと思う。それなのに、こんなに簡単に、腕一本で支えてしまうなんて、やっぱり、オトコノコから、男の人に変わっているんだな。 「なんか、軽くないか?」 「普通…というか多分重い」 「…いや、軽い。ちゃんと食え。」 少女漫画みたいなハプニングだった。そのせいか、心臓がドキドキとうるさくなっている。一体なんだというのだ、急にこんな風に。手嶋純太は、明らかに怒っているが、私も怒ってやりたかった。というか絶対、私の方が怒ってやりたい。 「ねえ、急になんなの?」 「…急にじゃねえ。」 「急にだよ、全然関わりなかったのに、何にも言われずにそんな風にキレられると、困るんだけど。」 私の言葉に、手嶋純太は泣きそうな顔で怒鳴った。 「大体…!関わりなかったのも、おかしい話なんだよ!」 「えっ」 「普通に、俺はお前と仲良くしてたかったし、こんな疎遠にもなりたくなかった!なのに、小学生の頃、お前が変な噂聞いたせいで、急に距離、置かれて…。」 ああ、そんな事もあったな。手嶋くんは私の事が好きなのよ。と、クラスのリーダー格の女の子に言われて、じゃあ純太と離れなきゃなんないなぁ。と、思ったのだ。ほとぼりが冷めれば、また元どおりになるつもりだったが…そうか、なかなか女の子の恋は冷めなくて、冷めた頃には、なんで手嶋純太と距離を置いているんだかもさっぱりわからなくなっていたのだ。向こうに拒絶されてこうなっていると考えると、怖くて仕方がなかったから、私からは接触しないようにしていたのである。 「ごめんね、なんか…。」 「なんか、じゃ、ねえよ。」 「うん、ごめん。」 手嶋純太は、いつの間にかぼろぼろと泣いていた。相変わらず、情けない泣き顔で、笑ってしまいそうになる。 「お前には俺しかいないだろ…」 懐かしいそのセリフに、なぜか嬉しくて目を細める。けれど、そんなどうしようもない格好で言うものだから、私はついに言い返してしまった。 「純太にも私しかいないくせに。」 久しぶりに呼んだ、じゅんた。という羅列の口触りはとても心地よく、ずっと呼んでいたい気分にすらなった。はじめて反論した私に、豆鉄砲を食らったような顔をするかと思ったが、違ったようである。純太は、嬉しそうに笑顔を浮かべていた。 「じゃあ、行くか。」 「…え?ど、どこへ?」 「あー…そっか、覚えてないんだもんなぁ。」 余裕のない純太から一変、すっかり掴み所のないいつもの純太に戻ると、その、タコだらけの太い指で、背中の筒を指差した。 「天体観測、しようぜ。」 「はぁ?」 口をあんぐり開けてしまう。天体観測?何を言っているのだろうか。空を見上げれば、そこには分厚く重たい雲がかかっていて、月ですら見えない。それなのに、天体観測とは。 「今日は、十年に一度の流星群が来るんだよ。」 「あー…ニュースで見た。」 「前回の流星群、覚えてるか?」 さっきか、言っていたのは、その事が。記憶を端から端までほじくり返すが、どうも思い出せない。私って記憶力悪いのだろうか。 「…ごめん」 「だろうな、期待してねえよ。」 怒ってたくせに、という言葉を押し殺して、上機嫌な純太の後を追った。右腕を掴まれているせいで、歩幅は強制的に彼と同じになる。当たり前だが、速すぎて、私はぴょこぴょこと必死に合わせようとする。こういう時って、男の方が女の子に気を使うんじゃないんだろうか。変なところで気の利かない純太に、また笑そうになった。 「前回は、台風が来て見れなかったんだよ。だから、次は一緒に見ようなって約束したんだ。それが、今日。」 「あー、なんかあったような気が。」 「お前は簡単に忘れたみたいだけどな、俺はこの十年間忘れたことなかったぜ。なんたって、十年前の、この次の日に、お前が距離を置くようになったんだからな。ずっとこのまま仲直り出来ないようなら、今日を使おうって思ってたんだ。」 だって、ロマンチックだろ。 その言葉と同時に、私達は昔よく遊んだ、小高い丘の上にある公園に到着した。空を見ても、星はまるでいないが、下を見下ろすと、民家や、お店や、少し遠くにあるオフィスビルの明かりが、まるで星のように見える。 「す、ごい…!」 「本物が見えなくても、ここなら、な。」 照れ臭そうに、頭をかく。右腕を掴んでいた手は、気付くと、私の手を握っていた。どさくさに紛れて、ずるい奴だ。けれど、満更でもなく思っている私がいて、つい握り返してしまう。純太の、自転車で出来たのであろうタコの感覚が、愛しかった。純太は嬉しかったのか、私の手を、余計に強く握る。 「…天体望遠鏡、意味な。」 「いーんだよ、雰囲気だから。」 「でも、買ったんじゃないの?それ。」 傷一つなくて、割と軽い調子で扱っているから、そう思ったのだ。すると、純太は、ばれたか。と、舌を出した。 「今日は絶対特別な日にしたかったから。」 「…なんか、ごめん」 「本当にな。じゃあ、どう償ってもらおうかな。」 そして、悪どい顔をする。性格悪いぞ、と、叫んでやりたかったが、今回はどう考えても私が悪いので、償うしかないだろう。 「…十年後、また一緒に見に来いよ。 だけじゃないぞ。二十年後も、三十年後も、四十年後も、ずっと。」 真っ直ぐ、真剣な目で見つめられて、私は言葉を失った。射抜くような視線に、息すらもままならなくなってしまう。 「なんか、その言い方、超勘違いしそう…。」 「勘違いじゃねーよ、わかってるくせに言うな。」 「…ほんと、純太には私しかいないんだね。」 「お前にも、俺しかいないだろ。」 二人して、目を合わせて、くすくす笑った。夜風が冷たくて、心地いい。今、ようやく気付く事ができた。私はずっと、純太が好きだったのだ。これを言ったら、純太は、遅い。と、怒るだろうか。
▲
|