既に周知の事実であるが、青八木君は、口数が少ない。少ないという表現を使うことに戸惑う程度には、彼の発する声が耳に届くことは稀である。彼の盟友手嶋氏によれば、案外喋る奴だぜとのことだが、それは相手が手嶋氏だからこそなのだろう。
 口数が少ないからと言って、青八木君が内気であるかというとそうではない。主張すべきは主張する人である。

 青八木君と私は、幼馴染というには浅い中学校からの付き合いで、中学の三年間を同じクラスで過ごした。彼は元より、私も如才なく人付き合いの出来るタイプではなかったけれど、なんでか彼といることを窮屈には感じなかった。部活や委員会が一緒になったことはなく、時折一緒になる日直や班行動での些細な交流だけだったけれど、塵も積もればナントヤラで、三年は私が青八木君に親しみを感じるには十分な年月だった(青八木君がどう感じていたかは分からないが)。
 お互いの進学先が総北だったのは偶然で。それでもそこに何らかの意味を求めたくなったのは、入学式前の、お互いを探るような空気の漂う他人行儀な教室で、居心地の悪さを感じていた私の彷徨う視線と、そんな教室に足を踏み入れてきた青八木君の視線とが交わって、その時確かに彼が私に微笑んだからだ。
 なんて素直に笑うんだろう、と思った。きっと、彼が緩衝材としての笑顔なんてものを持ち合わせていないからだろう。だからこそ、その笑顔の価値はなにものにも遮られず胸に届く。
 つまりは、私は青八木に心をさらわれてしまったのだ、たった数秒で。

 私が意識したからか、それとも青八木君の心境の変化なのか、私たちの関係は高校に入ってずっと砕けたものになった。お互い良く喋る人間ではなかったから、他所から見ると無言でただ一緒に居るだけに見えるらしい。でも、目が合うとゆるりと細まる瞳とか、気まぐれに私が語りかける言葉に静かに頷く仕草だとかが、一緒にいることを許してくれている、と感じたから。彼の隣は居心地が良くて、離れ難くて。

 二年になっても、神様は私に味方してくれた。同じクラスだ、五年目の。
 去年と同じく、後から教室に入ってきた青八木君と目が合って、そして彼はやっぱり素直な笑顔を浮かべ、私の隣の席に座った。私より一つ、窓際の席に座った青八木君の髪が、きらきらと陽に透けて輝いていた。
「よろしくね」
 私が言うと、青八木君は頷いた。少し開いた窓から入り込む春風が、クリーム色のカーテンを揺らしていたのを覚えている。
 自転車競技に全力を尽くす青八木君は、毎日屋外で部活動に励んでいるはずなのに、不思議と色が白い。不健康そうなそれではない、健康そうな色合いの白い肌は、中学から今に至るまで変わらず健在である。
 日焼け止めを使っても太陽に焼かれて色を濃くする自分の肌と比べてしまい、羨ましいと一度ぽつりとこぼしたことがある。青八木君は何も言わず、ただそっと私の頭を撫でた。慰めるような、あやすような柔らかさで頭を撫でたその手が彼の元へと戻る時、指先が私の頬を滑っていった。態ととも、偶々とも言えない僅かな接触。
 自分よりも温かく、そして硬い指先。

 その後も、落ち込んだとき、嬉しいとき、困ったとき、悲しいとき、色々、いろいろ。
 励ますように、一緒に喜ぶように、導くように、支えるように、青八木君の指先は、故意か過失か曖昧なさり気なさで、私に触れた。意味を問うには難い、短すぎる数瞬の熱は離れればすぐに冷めてしまう。
「青八木君」
 何度、その意味を問おうと彼の名を読んだだろう。今日も手の甲を滑って去った熱を思い起こしながら彼を呼べば、青八木君は自転車雑誌から顔を上げて私を見つめた。普段から真っ直ぐな視線は、私の瞳の更に奥を覗き込もうとしているかのようだ。
「苗字」
 青八木君は、休み時間のざわめく教室では聴き逃してしまいそうな音量で、私の名を呼んだ。
 彼はただ呼んだだけなのだろうに、なぜこんなに甘やかな心地で耳に届くのだろう。耳に残るその響きの余韻を噛みしめるようにそっと瞳を閉じる。
 偶然か、必然か、故意か、過失か、普通なのか、特別なのか。青八木君に聞きたくて、でも聞けない。果たして、その意味を問う瞬間を待っているのは、私なのか、それとも。
 瞼を開いたら、思うよりも近くに青八木君の意志の強そうな瞳があって、こちらを心配そうに見つめていた。
 彼は寡黙だけれど、主張がないわけではない。貫くべきは貫く意志の強さを持っている。青八木君が、今希求していること。自転車競技のレギュラーとしてIHに出場すること。恋とか愛とかに割く時間がないことだってもちろん知っているんだよ、伊達に五年を重ねたわけじゃないんだから。
「何でもないよ」
 青八木君の瞳に浮かぶ憂慮を晴らそうと、彼の腕に制服の上から緩く触れたら、大げさなほどに彼の腕が震えた。紅色に染まる、頬と耳朶とに期待してしまうのは、自意識が強いせいなのだろうか。
 口数の少ない青八木君の指先が、私に伝える主張の意味。気のせいなのかもと、何度も考えた。でも、帰結するのはやはり、もしかしたらという希望で。
 ああ、狡い。と、思った。
 言ってくれないくせに、触れるなんて。部活以外の何物も、自分に入り込ませる余地を今は作りたくないくせに。
 でも、彼の狡さを責める私だって、きっと狡い。今が心地良いから、私も問わないし、気持ちを告げないのだから。
 青八木君を驚かせた右手を引いて、誤魔化すように、私は笑った。いかにも彼がしないであろう、間をつなぐためのそれが彼にどう映ったのか、青八木君は眉間を寄せた。
 私への思いがどんなものなのかは私には分からない、でも心配してくれているということは、その表情や空気で分かる。自分に注がれる優しさの気配を掴んでしまえば、逸らされることのない真っ直ぐすぎる視線すら心地良い。
 知りたいけれど知りたくない、聞きたいけれど聞けないのは、今の関係から進みたいけれど進みたくないからだ。今に焦れながら、変化を恐れているから。
 矛盾、という言葉が思考を横切る。恋ってそういうものなのかもしれない、なんて、知ったようなことを思う。
 注がれる視線から逸らした彼の背後の窓の外は、快晴。春ののどかさが色濃く残った太陽は、暑いというより暖かい。青八木君にとって、今年が良い夏になればいい。きっと、私にとっても良い夏になるだろう。
「今年の夏、暑いかな」
 去年の夏休み明けには、IHはとても暑かったと、ポツポツと少ない単語ながら、悔しさを滲ませて青八木君は言っていた。
 今年、青八木君がIHに出たら、何か変わるのだろうか。変わらないだろうな、と、漠然と、けれど確信に近いものを感じながら思う。結局、私も、そして多分青八木君も、恋愛事に対して酷く臆病なのだ。
 いつの日か、一歩を踏み出すのはどちらだろう。もしかしたら、踏み出さないままの関係で終わるのかもしれない。なんとなく、踏み出すとしたら私だろうなと、思った。でも、この考えを青八木君が知ったら、憮然とするに違いない。そんな彼を思い浮かべたら愉快な気持ちになって、思わず笑った。私の笑みを見た青八木君は、安堵したように口元を緩めて、もう一度私の名を呼んだ。
「苗字」
 耳に残る甘さの余韻が、青八木君を好きだと言っている。
 普段通りに戻った私に安心したのか、再度自転車雑誌を読むことに集中し始めた青八木君が、少し憎らしい。悔し紛れに伏せた青八木君を睨むように見つめていたら、不意に彼の面があがって目が合ったので、心臓が跳ねた。
 私が睨んだところで、青八木君は動じなかった。本気じゃないことが伝わってもいるのだろうけれど。まさか私が、もしあの指先が何の意図もない行為だったらどうしてくれようなんて不穏なことを考えていたなんて、青八木君は思いもよらなかったに違いない。
 …好きだって言ってしまったら?と囁く自分に首を振る。
 三年以上かけて、やっと青八木君を意識できた私なのだ、動き出すのにあと一年と少しかかったって、おかしくない。色々考えがちな私は、ゆっくり結論を出す方が多分向いている。恐らく恋愛事が得意ではなさそうな青八木君も。

 明日もきっと、与えられた儚い熱が冷める感覚を噛み締めながら、その指先の意味を考えているに違いない。