ふぅ、と大きな息を付いて大きな木の木陰に座り込む。
着物だとどうしても走りにくい為に、確認した私の着物は予想通り乱れに乱れていた。

なんでこんなことになったのか。
問いかけても自分では答えを出すことはできなかった。
煌帝国の下女である名前がここまで息を乱し着物を乱す理由として、何か切羽詰まった仕事でもあるのかと問われれば否。

いや、ある意味仕事かもしれないがここまで恐怖感を感じる仕事があっていいものか。


「名前み〜つけた」
『っひゃあああ!』


その恐怖の原因。
振り向かずともわかる、名前の主でもある錬紅覇の声に上げた悲鳴は背後に立っていた紅覇には相当な音量だったらしい。
予想はしていたのか静かに耳を塞いでいた紅覇がその手を耳から離し不機嫌そうに眉根を寄せた。


「ちょっと、なんでそんな叫ぶのさ」
『だ、だって、紅覇様が急にお声をかけるので…!』
「文句は言わせないよ?ほら、まだ僕の"お遊び"は終わってないんだから」

『(ひぃぃぃ…!)』


幼い顔立ちを彷彿とさせる紅覇のあの笑い顔のギャップは一体なんなのだろう。

紅覇は時に、まるで地を這うアリを見下すかのような冷たい視線をする。
流石にそこまで酷い視線を名前が浴びることはなかったが、あえて言うなら紅覇が名前に向ける視線は面白味のある玩具を見つめる目だ。
目をつけられてしまったが最後、ろくに仕事も手に付かずこうして紅覇に追われることが多発するわけだが王家の血筋たる紅覇の願いとあらば誰も文句は言えない。
下女を纏める給仕長にも目を瞑られてしまう始末。


「ほーら早く背中向けて座ってよ。まだ半分も結えてない」
『は、はい…』

「…うわ、走ったせいでぐちゃぐちゃだし…最初からやり直しね」
『えぇ!?』
「逃げた名前が悪い」


紅覇が手に持っているのは下女が持つようなものではない、豪華の装飾の施された櫛。
そう。紅覇は名前の長い髪を毎日のように結いに来たがるのだ。

中途半端に結われた髪は名前が紅覇から逃げるために着物と共に振り乱して走った髪はぼさぼさになってしまっていた。
その全てを0へ戻し、1からの作業が始まる。
紅覇が鼻歌を歌いながら名前の長い黒髪に櫛を通していく。


「…やっぱり名前の髪は綺麗だ」
『そ、そうですか?ありがとうございます』


後ろを振り向くことはできないが、背後にいる紅覇が呟いた。
人を褒めることもあるのか、と珍しい物言いに少し驚いて言葉を詰まらせる名前。

そんな名前の髪を一房掬い、紅覇がちゅ、とその髪に口付る。


『こ、紅覇さん?』

「うん。いいね……やっぱり名前は」
『あっ…!?』


背後から首筋に落とされた熱は、黙視しなくとも何かはわかる。



「僕専属の玩具だよ」



髪が乱れる、なんて気にしないで。
名前は首筋を抑えてバッと振り返れば、そこには楽しそうに笑う紅覇がいるものだから名前は何も言えなくなってしまった。



不意打ちのキス
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