「私、このお話しキライ」


手に持っていた本をポンッと絨毯の上に放り投げ、お名前は背中からクッションにダイブした。それまで無言で机と睨めっこしていたシンドバッドが顔を上げ、お名前が投げ捨てた本に視線を向けた。


「人魚姫...?」

「この話を知らないって言ったら皆に驚かれた。で、ピスティがくれたの。この本」

「へぇ、お名前は人魚姫を知らなかったのか。確かに珍しいな」

「...今知ったもん。ってゆーかシン、仕事は?無駄口きいてたらジャーファルに怒られるよ」

「休憩だ、休憩。少しくらい休んだっていいだろう」

「まぁ、今日は割とマジメな方よね。特別に少しだけ許可してあげる」

「...人の政務室でゴロゴロしてるやつに許可されてもなぁ」

「失礼ねー私だって仕事中よー?」

「ほう、...いったいどんな仕事だ?」

「シンを見張ってるの。今の仕事が片付くまで一歩たりともこの部屋から出すなって。ジャーファルから直々に命じられた立派なお仕事よ」

「......。それはご苦労」

「全くねー」


皮肉めいた口調でそう言って、お名前は悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。シンドバッドは小さく苦笑すると、椅子から立ち上がった。

「どこへ行くの?」

「どこにも行かないよ」

シンドバッドはそう言うと、絨毯の上に転がった本を拾い上げ、表紙を眺めながらお名前の傍まで歩み寄った。子供向けのチープな絵本かと思いきや、なかなか美しい挿絵が添えられている。シンドバッドはお名前の隣へ腰を下ろした。


「休憩は10分ね」

「厳しいな」

「厳しくしろっていわれたから。いつも私はシンに甘過ぎるんだってー」

「...甘いかぁ?」

「さぁ?でも、少なくともジャーファルにはそう見えるみたいよ」



お名前はクッションの端を弄びながら、退屈そうにふわっと小さくアクビをした。

そんなお名前を横目に、シンドバッドは『人魚姫』のページをゆっくりとめくった。パラパラとページが進み、ふと開いたページは、人魚姫が短剣を手に王子の寝顔を見つめるシーンだった。



「お名前」

「なぁに?」

「はどうしてこの物語が嫌いだと思ったんだ?」


お名前の視線がゆるゆるとシンドバッドの方へと流れる。2人の視線が交わると、お名前は少しだけ間を置いて口を開いた。しかし、飛び出した言葉はシンドバッドの質問への答えではなかった。


「シンは好きなの?」

「まぁ、別に嫌いじゃない」

「へぇ、意外」

「意外?...そうか?」

「...何となくだけど、意外」


お名前はコロンと転がるように勢いをつけて、上半身だけ体を起こした。 シンドバッドの顔をじっと見つめるお名前の頬に彼が指を這わすと、彼女はくすぐったそうに目を閉じた。

お名前の肌はしっとりと滑らかで、冷たい。まるでたった今海から上がってきたのかのようだ。足を得た、人魚姫のように...なんて。シンドバッドが取り留めのないことを考えていると、お名前が猫のような柔らかな仕草ですり寄ってきた。2人の体がぴったりと寄り添う。

お名前はシンドバッドの肩に自分の頭を預け、ぼんやりと視線を漂わせた。

心地よい沈黙が2人を包む。

このまま10分経ってしまってもいいかな、と、シンドバッドが思っていると、お名前がポツリと口を開いた。



「ねぇ、シン」

「んー、なんだ?」

「人魚姫の運命の人は...本当にあの王子様だったのかな」

「...どうした?急に」


尋ねるのと同時にシンドバッドはチラリとお名前の顔を見たが、お名前は肩にもたれたまま部屋の壁をぼんやりと眺めたままだった。

お名前の様子からして、そんなに深い意味のある質問ではないのかもしれない。しかし、迷信めいた話を滅多にしないお名前の口から紡がれた『運命の人』という言葉は、何となく聞き流せない雰囲気を漂わせていた。



「人魚姫の運命の人があの王子様だったとするじゃない?」

「うん?」

「でも、王子様の運命の相手は人魚姫じゃなかったんだよね」

「......」

「自分の運命の人の運命の人が自分じゃないって...そういうことって有り得るの?」


お名前の声は予想以上に真面目なもので、シンドバッドは少し驚いた。彼が返事をすむるより早く、お名前は更に言葉を続けた。


「もし有り得るのだとしたら...」

「だとしたら...?」

「怖い」


シンドバッドの腕に絡めていたお名前の腕に、キュッと力が籠った。




「何と言うか...お名前が『運命の人』を信じてるっていうのが意外だな」

「...馬鹿にしてるでしょ」

「まさか。可愛いと思っただけさ」

「やっぱり馬鹿にしてる!」


お名前の眉間に微かにしわが寄る。シンドバッドはクスッと笑みを漏らし、なだめるようにお名前の頭をそっと撫でた。


「それが『人魚姫』を嫌いな理由?」


お名前は何も答えなかったが、その沈黙は肯定を意味していた。


「お名前は...自分の運命の人がこの世界にいないかもしれないって思っているのか?」

「そうかもしれないじゃない...」

「俺というものがありながら、なかなか手厳しいな」

「だって、シンが私の運命の人だっていう保障はないもの」

「保障?」

「そう、保障。...シンは不安じゃないの?私だって、シンの運命の人じゃないかもしれない。シンの本当の運命の人は今、どこか別の所にいるのかもしれないし、いたとしても相手の運命の人はシンじゃないかもしれないよ?」


お名前の口調は淡々としたものだったが、言葉の端々に不安と焦燥が見え隠れしていた。

こんなことでそんなに不安がらなくても...と、シンドバッドは思わなくもなかったが、滅多に見ることのないお名前の弱々しい一面を見せられて、笑い飛ばすことはできなかった。



「俺の本当の運命の人...か」

「なに、シンも不安になってきた?」

「いや、全く」

「え」

「俺の運命の人はお名前以外あり得ないからな」

「なっ...人の話聞いてた!?」

「聞いてたさ。でも、俺の運命の人はお名前だけだよ」

「......その証拠は?」


お名前が怪訝な視線をシンドバッドに向ける。彼はその視線を笑顔で受け止めると、お名前の腰に腕を回してギュッと抱き寄せた。




「俺が決めたから」

「は...なにそれ。そんなの証拠になる訳ないじゃん」

「そんなことないさ」


お名前を抱きしめたまま、シンドバッドは幼子をあやすように言葉を続けた。



「今までに出会ったたくさんの人の中から、俺が自分で君を選んだんだ。お名前...君が俺の運命の人であってほしいと」

「そんなの、私だって同じよ。でも、それは自分の意思であって、運命じゃない」

「運命は自分で決めるものだよ」

「!」

「いや、逆か。自分が決めたことが『運命』なんだな、きっと」


「お名前はどう思う?」と、シンドバッドが優しく尋ねると、お名前は不服そうに「屁理屈屋め」と唇を尖らせた。


「じゃ、じゃぁっ!人魚姫はどうなるのよ!?」

「彼女も自分で運命の人を選んだのさ」

「でも、王子は彼女を選ばなかったじゃない」

「お名前はやっぱり...人魚姫の運命の人は別にいたって思いたいんだな?」

「だって...せめて相手も人魚なら、人魚姫は死ななくて済んだと思うもの。違う?」


お名前が同意を求めるような視線をシンドバッドに向ける。彼は少しだけ困ったような表情で、小さく肩をすくめた。



「確かに、お名前の言う通りかもな」

「でしょ?やっぱり人魚姫の本当の運命の人は別にいたのよ」

「...でも、俺は」

「なに?」

「人魚姫の気持ちがわからなくもない」

「えー?どういう意味」

「もし、泡になって死ぬって言われたとしても、俺はお名前を選ぶから」

「!」

「運命の人じゃなくても、お名前を」


「人魚姫と同じだろ?」と言ったシンドバッドの視線はどこまでも真っ直ぐで、優しくて、お名前は思わず言葉を失った。



「それに、たとえ***の運命の人が俺じゃなくても、俺は別に構わないしな」

「そ、それはそれで...どうなのよ」

「お名前が自分で選んで愛してくれるなら、それで十分ってことさ」



交わる視線が少しずつ熱を帯び、***の瞳から不安の影が薄れていく。


目の前にいる相手が、苦しいくらい、愛しい。

それこそもう、運命かどうかなんてどうでもよくなってしまうくらい....

君に恋してる。




「愛してるよ、お名前」



そう言って貴方が微笑む、人魚姫にまつわる不毛な恋愛論
(あ、10分)(......)(5分だけ、延長ね)


_


- ナノ -