あの場にいた誰もが、己の無力さを痛感したのではないだろうか。
歪んだ道を作ってしまった過去は変えられない。

なら、何を恨めばよかったのだろう。

答えはそれぞれ違うことながら、明確だ。

向けようのない怒りと、それとは反対の気持ちが混じり合った拳はただの無機質な力となって大木に叩きつけられる。
力の加減が苦手なマスルールの屈強な拳で揺るがない大木は、彼の心の迷いのせいか。
ピスティやヤムライハ達と話している時に見せるアスタルテの笑顔が、自分に向かって来る好戦的な笑みが、最後に見せた悲しそうな表情が。
頭の全てをアスタルテが支配して行く。

いなくなってまで、お前は俺の前に立ちはだかるのかとマスルールは変わらない表情の目下で影を落とす。


「マスルール」
「……先輩」


マスルールが他人の足音や気配に気付かないことなど滅多にない。
ジャーファルの言う通り、マスルールにも何かとガタが来てるのがわかる。


「……仕事はどうしたんすか」
「お前もだろ」

「…」


無言でその場にどさりと腰を下ろしたマスルール。
シャルルカンは拳で傷付いた大木の幹に触れる。

2人は何も言わなかった。

いつもなら文句を言われながら執務についていた時間。揃ってこんなところにいる理由を口にすれば、頭に浮かぶ彼女は笑うだろうか。
恐らくは罵声と罵倒の後に蹴りの1つでも飛んで来るに違いない。

そう思うとシャルルカンの口からはふっと笑みが漏れていた。


「……バカだな俺たち」
「…何を今更」

「あいつも、相当バカだけどな」
「…そうっすね」


あいつと言っただけでシャルルカンはアスタルテの名を呼ばなかった。
それでもそのバカが誰を指すのかは明確であり間違える筈もない。


「いつまでもこんなんだったら、多分あいつに笑われる」

「…それどころか喧嘩の1つでも吹っかけてきそうッスけど」
「はっ、違いねェ」


仕事に関しては優秀な自分の妹はきっとマスルールの言う通り書類と言う名の拳を振り上げることだろう。
今となってはそんなどうでもいい会話が懐かしくて、戻りたいと願っても時間は一方通行。
きっと10年前のアスタルテも同じことを思ったのではないかとシャルルカンは思った。

目の前から大事なものがなくなる恐怖よりも、恐ろしいことがあったか。


「前…向かなきゃなんねーかな」

「………そうっすね」


さっきの肯定の言葉よりも、少し間が開いた。
全てを受け止めるには深く抉られた心の傷を癒す必要がある。


「確か今度王サマが煌帝国行く時の護衛、俺らとジャーファルさんだったな」

「はい」
「…それまでには整理つけっか」

「…」
「いつまでも足引っ張ってらんねー」


マスルールは何も言わなかった。
シャルルカンの声が少し震えていたことも、その頬を温かい液体が伝っていたことも。





河豚は食いたし命は惜しし

(その姿に重なった彼女の面影に)
(また胸は苦しくなる)

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