ジュダルの身を見送るよりも前に力の抜けた自分の腕の中のセシルの体温が下がっていくのが身に感じられて背筋に寒気が走った。

誰が見ても、もう手遅れだということは明らかで。
誰もが目を背けたくなる絵図。
半壊した部屋で血に染まるセシルは朝日に照らされている。
明るくなる筈の世界、なのにこんなにも心は暗いままで。

やだ、と思いながらもシエルは瞼を開いたセシルに声を上げる。


『なんで…なんで私なんか庇ったんですか!!』

「……なんでかしら…勝手に、身体が動いてたの」
『私を殺しに来たんじゃなかったんですか!?どうして…っ』


手が震えて、声までも震えてくる。
セシルは荒い息を上げたままゆっくりと言葉を紡いだ。


「…憎みきれなかったのかしらね…」
『え………』

「確かに、最初は憎くて憎くて仕方なかった。
突然やって来た貴方がシンドバッド様に好かれていることが。
シンドバッド様の隣にいられることが」

『…』




「私は…ずっと、貴方をお慕いしておりました、シンドバッド様」





「セシル…」

「暗殺者としてこの国に来た私ですら、貴方の慈悲深さに平和の夢を見ましたわ。だからこそ貴方に好意を持ち……シエルちゃんが許せなかった」

『なら…!』
「でもね……」



もうセシル自身、もう長くはないと自分でもわかっているのだろう。
力の入らない手を精一杯シエルに伸ばし、そっと頬に触れる。
暖かさはもう殆ど感じられない。

恐る恐る、シエルはその手に己の手を重ねる。



「何にでもまっすぐなシエルちゃんにも、どうしようもないぐらい惹かれたの。シンドバッド様がお好きになるのも無理はないわって、」

「私に貴方は殺せないわ」

「私も、貴方を本当の娘のように思ってしまった」

「貴方を好きになっちゃったのよ」




「だから」





彼女は笑った。





「幸せになってねシエルちゃん」

『!!!!』





本当に娘を愛する母親のような慈悲深い微笑み。


―『…アナタは幸せに育ってね』


亡くす直前の小さな命に向かってシエルが言った言葉。
覚えていたのか、たまたま出てきた言葉がそれだったのか、それはセシルにしかわからない。

同時にシエルの頬からセシルの手が滑り落ちた。
それは彼女が力尽きたことを、命の灯が消えたことを意味する。



『…セシルさん?』



返事はない。
ただ冷たい体が胸に寄りかかるだけ。

向き合わなければならない死も、これはあまりにも酷すぎる。

あざ笑うかのように空は曇りだし、程なくしてぽつりぽつりと雨が降り始めた。
あっという間にどしゃ降りになってしまった雨は筒抜けになってしまった天井から降り注ぎ血も、涙も、すべてを流す。
雨か涙かわからないものがシエルの頬を伝い、血液と混じり合って地に落ちる。

重力に従って落ちる、決められた摂理。



命がいつか朽ちるというのも、また然り。



雨音以外の無音に落ちた空間。
誰も何も言葉を発せず、目の前の命の終わりに静かに目を伏せる。
シンドバッドは硬直しているシエルの身をそっと抱き込んで膝の上のセシルの目元に手を翳し、瞳を閉じさせた。

シエルは今何を思ってこの状況を受け止めるのかは分からない。




「無理しないで……言いたいことがあるなら吐き出せばいい」




ただ、受け止めるための支えになりたいとは思う。
心の強い故に、脆い。

シエルはセシルから視線を逸らさない。
思っていることを、言いたいこと全て吐き出せたらどれだけ楽なのだろうか。
でもきっとそれは誰かを悲しませるようなことにしかならない気がして。
かと言って何も言わないということはしたくはなかった。





『ごめん、なさい…私…貴方に嘘は付きたくないし…でも、今は本当の事も言いたくないです………』



「…なら何も言わなくていいさ。ただ」
『!』


「泣きたいときには…泣いてくれ」





目の前の視界をシンドバッドの手に遮られ、痛む心に言葉が突き刺さる。
強くなっていく雨脚の中。

涙に紛れ叫んだ声は空に溶けていった。









月の裏側に意思は生まれた

(ねぇ、幸せってなんだろう)_


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