全身から力が抜ける感覚。
魔力を一斉放出した反動か、膝にセシルを乗せたままの体制から一度ぐらりと体が揺れた。
座り込みながら肩で息をするシエルの後ろ姿を見詰めることしかできなくて。
いましがた放たれた矢に込められていたのはジュダルへの殺意。
驚くしかなかった。
まさかここまで力をつけているだなんて思ってもいなかったからだ。
消し飛んだ部屋の半分がそれを語っている。
だが、ジュダルの姿は見当たらない。
不意打ち、とはいえあのような攻撃でジュダルが死ぬなんて考えられず右を左を見回したが姿は見えず。
「(どこだ…!?)」
すぐにでもシエルに近付きたかったが状況判断が先だとシンドバッドはジュダルの気配を追った。
『……っ!』
「残念でした」
「!」
上か、と気付いた時には遅く、すとんとシエルの背後に降り立ったジュダルは実に余裕そうにシエルの両腕を拘束した。
掴まれた腕に力が入らず、振りほどくこともできない。
いや、もし力が入っていたとしても所詮は男と女。
振り払うことはできなかっただろう。
杖を持ったジュダル、傍らにはシエルと既に重傷を負ったセシル。
尚更迂闊には近付けなくなってしまった状況に誰もが苦虫を噛み潰した表情をする。
「俺が憎いか?」
誰に聞いたわけではない。
しかしその台詞は確実にシエルに向かって放たれているものだと誰でもわかる。
魔力の一時大量放出により体力を身を削ったか、肩で息をするシエルにジュダルはほくそ笑んだ。
決して気持ちのいい笑みではない、悪意を持った笑み。
背後に立たれているためシエルには見えなかったがその姿を想像することは容易であった。
『…アナタは…』
「お?」
『人の命を、なんだと思ってるんですか……!!』
「…どうも思っちゃいねーよ。他人の命なんざな」
『!』
グッとジュダルが掴んでいるシエルの手に力が入った。
そんな簡単なものだとは言わせない。
朽ちた命も朽ちかけている命も。
命の重さをどうも思わないでたまるか。
手だけではなく全身に力が入るのを感じる。
歯を喰いしばるがその手は振り払えず、空を切るのに苛立ちが募った。
「その手を離せジュダル」
腹の底から捻り出したような唸る声。
殺気を含んだ声に誰もがゾクリとしたものを感じた中、ジュダルだけは余裕の笑み。
シンドバッドがジンの力を解放しようとしているのは一目瞭然。
目の前にいるジュダルに向けた殺気はいつものおちゃらけた雰囲気からは考えられないものだ。
逆に言えばシンドバッドがそれ程までにシエルに固執していることを示していたことに今の彼は気付いていない。
―それだけで十分面白い。
ジュダルが静かに声を発す。
「俺を恨め、憎め。そして…」
『?……いっ…!』
シエルの首筋に血が滲む程に思い切り歯を立て、直後耳元で囁いた。
「もっと堕ちてこい」
その手が離れた時、いつの間にか夜は明けようとしていた。
「じゃあなバカ殿!いつかお前からシエルを奪い取りに来るわ」
「待てジュダル!」
「やなこった」
欝すらと太陽と月が役目を交代しようとしている中。
既に手遅れだとわかりつつも、シエルはやっとウリエルの言っていた言葉の意味を理解するのだった。
―黒い三日月に惑わされるな
そして一つ、黒いルフが空を舞った。
赤を運ぶ黒蝶
(もう目は逸らせない)
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