今までの不幸が全て今に注ぎ込まれているんじゃないか、と思う程私は今恵まれている。
飛んできた場所が砂塵煙る荒野の最果てで、たった一人放り出されていたならば今私はこうして生きていないだろう。
きっとそんなことになったなら今度こそ、迷わずに死を選んだと思う。

少し気温の下がった夜中、私は与えられた部屋を抜け出して素足のまま美しく石の並んだ廊下を歩いた。
特に行き先もない。しかも王宮の地理もロクに把握してない私が目的あって廊下を歩いたとしても辿り着くかと言われたらそれは否。
迷い迷って警備の方に道を聞くか、運悪く人に会わなければ一晩中歩き倒すか睡魔に負けて廊下で眠りこけてしまうかだと予想する。
でもどうにかなるかな、なんてこっちに来てから前向きな考えができるようになった頭の隅で自分に言い聞かせて、ひたすらに廊下を歩いた。

足の裏から感じる冷たさや夜風が心地いい。
窓から見える星空はとても美しい。

こちらに来る前よりも色付いた世界にもっと触れたくなった私は普段は発揮しないであろう身体能力を頑張って発揮して、窓から屋根へとよじ登った。




空には綺麗な満月が浮かんでいた。
キラキラと輝く星、そして私の周りに輝く蝶々の様な"何か"を感じる。
これが"ルフ"か、と思ったけど結局まだどういうものかは理解できなくて。
とにかくこっちの世界特有のものなのだろうと納得させて空を見上げた。

荒んでいた今までを洗い流すような美しさ。昔は空を見て素直に綺麗と思うことなんて絶対になかった。
ただ思ったことは、なんでこんなにも空は綺麗なのに私はこんなにも汚いんだろうって事だけ。
小さな心の変化が私には大きな一歩だと思う。
まだ男の人は怖いけど、少しずつでいいからあの人達と関わっていきたい。
私を受け入れてくれたあの人達に、もっと感謝という一言では表せきれない色々な気持ちを伝えたい。


―私は歌を歌った。


遠い昔、顔も思い出せない誰かから教わった歌。
優しい声で私を包み込むように歌ってくれた、あの歌を。



「それは、キミの世界の歌か?」

『っへ?あ、し、シンドバッド様っ!?』
「様はいいと言っただろう」
『そ、そんな恐れ多い…です…、というかいつからそこに…?』



聞かれてしまった、という恥ずかしさとまさかこんな夜中にシンドバッド様に会うとは思わなかった驚きが交錯する。
様、を付けた事が不満だったのか(だ…だって王様だし…!)少しムッとしたシンドバッド様がそこにはいた。
男性が苦手な私を気遣ってか、距離は近いものの恐怖を感じるような近さではない。
いい人達だって分かってるのに拒否反応を起こしてしまう自分に脳内叱咤を一つ。
いつから、という私の問いに


「最初からいたさ、ただ」


シンドバッド様は空を見上げ


「キミは空ばかり見ていたからな」


まるで月の様に妖艶な光を放ちながら私に笑って見せた。
ぴりっと夜風で冷えた体に熱が走る。
私の周りで光る"何か"も、それを感じ取ったのか少し光が跳ねた気がした。


『夜景が…凄く綺麗だったので、その…つい』


シンドバッド様が直視できなくて、私はまた上を見上げた。
すると隣から聞こえた陽気な笑い声。


「そうかそうか!実は俺もだ」
『シンドバッド様も?』

「あぁ。引かれる様にここに来たが…来てみて正解だったなシエルにも会えたし、美しい歌まで聞けた」

『そ、そんな…!私に美しいだなんて勿体ないお言葉…!』
「謙遜することはない。あと、最初の俺の問いにも答えちゃくれないか?」
『え…あ!』


シンドバッドに話し掛けられたと言う事態の大きさが相まってすっかり話し掛けられたきっかけに投げ掛けられた質問を忘れていた。


『はい、あれは私の世界の歌です。少し言語も違うようなので聞き慣れないかも知れませんが…』


喋る言葉は通じるのに、やはり生じる相違点があるということに距離を感じた。
私は確かに違う世界にいた、そんな確信ばかりが胸を突き刺す。
シンドバッド様は何も触れない。
シンドバッド様は優しい人だから、私から話すまで聞かないでいてくれているんだと…思う。


「…キミの世界で夜曲はなんと呼ぶ?」
『夜曲は……Serenade…セレナーデ、ですね』
「セレナーデ…か」

『…夜曲は恋歌でもあるんですよ。夜に恋を歌うなんて…素敵ですよね』
「あぁ。実に素敵だ」


顔を見合わせて、口元が綻ぶ。
あぁ、今までこんな楽しい夜を過ごしたことがあっただろうか。
孤独と恐怖に怯えるのではなく、こんなに楽しさと笑顔に溢れた夜を。


「シエル。キミはファミリーネームをなくしたと言っていたな」
『…はい』


なくした…と言うよりは授かりもしなかったといった方が語弊がないと思う。
気付いたらファミリーネームなんて知らなかった。
呼ばれてる名前だって本名なのかすらわからない。


「なら、今日からキミはシエル・セレナーデだ!」
『…え?』

「名前と言うのは唯一無二のものだ。…それがないだなんて悲し過ぎる」

『シン…』


シンドバッド様、とは言葉を紡げなかった。
大きくて逞しい、武骨な、でもとても優しい手が私に差し出されたから。



「行く場所がわからないなら手を引いてやる」

「留まる場所がないなら俺がつくってやる」

「名前がないなら与えてやる」

「怖いなら怖くなくなるまで傍にいてやる」



国の行く末を見据える真っ直ぐな瞳が私を貫いて、息が出来なくなる。
開いた口が塞がらなくて、何か言葉を紡ごうにも言葉にならなくて。

変わりに溢れてきたのはとめどない涙だった。

震える体と震える手。
本当にゆっくりとだったけど、自分の指先をシンドバッド様の手に重ねた。
そう、彼は待っててくれたじゃないか。
どうしようもなく臆病で馬鹿な私を、差し出した手に触れるまで。
触れた手から体温が融解する。


「触れたじゃないか」
『…はい』

「キミはキミなんだ。背伸びなんかしなくとも、ゆっくりでいいんだよ」
『…はい…っ』


止まらない涙を慌てて拭う。
みっともない、こんな人前で大泣きだなんて。


「あんまり擦るな。跡が残るとジャーファルやらヤムライハやらに後でどやされる」
『っん』


重ねた手とは逆の手が私の目元を滑る。
びっくりして少し肩が跳ねたけど、嫌じゃなかった。
むしろシンドバッド様の手が心地よくて瞼が下がってくる。

だめ…ここで寝たらシンドバッド様に迷惑が、

必死で思っていたくせに私の意識はそこで飛んで行ってしまった。








光り輝く夜の歌

(おや…寝てしまったか)

(…俺もいい加減眠くなってきた…が)
(仕事抜け出してこんなことして、明日はジャーファルの説教から始まりそうだ)


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補足的なもの

セレナーデ【(ドイツ)Serenade】
1 夕べに、恋人の窓下で歌い奏でられる音楽。オペラのアリアや演奏会用歌曲にも取り入れられた。
2 18世紀に発達した、娯楽的な性格の強い、多楽章の器楽合奏曲。夜曲。小夜曲。セレナード。セレナータ。



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