あの印象的な出会いから1日。
まずクラスを見回してみたが彼女は見当たらない。
移動教室の際にも彼女の姿を探してみたがあの美しい黒髪を見つけることはできなかった。

「どうした神童?」
「いや…何でもない」

思えば名前だけじゃなく学年すらも聞いていなかった事を思うと昨日の自分はどれだけ彼女のリズムに持って行かれていたんだと思う。


「霧野、今日も先に帰っといてくれ」
「何かあるのか?」

「…ちょっと、な」


理由も告げぬままな俺は馬鹿な奴なのだろうか。
素直に理由を言えばいいのに、なぜか彼女の事を他人に知られたくない自分がいた。

思いを馳せる事数時間。
あっという間に放課後を指す時間になっていた時計を見て俺は時間の経つ早さに少し驚く。
流石に部活中には考えない様にしようと思っていたが、南沢先輩にどうかしたのかと聞かれてまた驚く羽目になった。
霧野も先輩もよく人の事を見ている。
それに悟られるようではまだまだ自分も甘いものだ。


「今日の練習は以上だ!各自クールダウンして上がれ!」
「「はいっ!!」」


片付けの指示を出し、早急に部室へ向かい泥だらけになったユニフォームを着替える。
昨日と同じ赤く燃える夕日が空を照らす。
彼女はもう音楽室にいるだろうか。


「お疲れ様でしたー!!」


部室を飛び出した俺は、ボールの片付けをしていた松風の挨拶を擦り抜けるようにして校舎へと吸い込まれて行った。

まるでレッドカーペットを敷いたような廊下。
今日は教室に用事はない。真っ直ぐに音楽室へと急ぐ。
音楽室が近づくにつれて流れてきたピアノはそこにいる彼女の存在を告げていた。

優しい音楽を耳に、肩で息をする呼吸を落ち着ける。
そしてそのまま曲が終わるのを待ち、ガラリとドアを開けた。


『拓人くん!来てくれたんだね』


俺を視界に入れ、ドア付近へ駆けてきた彼女。


「昨日のあの別れ方で来ない方が気になります」
『あはは、ごめんね』


昨日は思わず敬語も使わなかったが、俺はまだこの人が何年生かも聞いてない。
俺を知っているという時点で2年生か3年生だろうけど、この人が年上な確率は二分の一。
わからない人には敬語を使うのが一般常識であろう。
ハッキリさせようと何年生なんですかと聞けば目の前で『あ』と声を漏らす。


『ごめんね、私の方が知ってたから言わなかったっけ。

私は苗字名前、三年生』



よろしく、と差し出された手は白く細い。
思わずその手を握ることを躊躇してたら、苗字先輩から手を握られた。
離された自分の手を見てみたが、同じ人の手なのに苗字先輩と自分の間には大きな違い。
男と女の差って、こんな歴然としたものなのか。


『で、拓人くん。今日も聞いてくれる?』
「はい」

『リクエストとかある?クラシックもだいたい弾けるよ』
「じゃあ…ベートーヴェンのピアノ協奏曲変ホ長調を」
『…拓人くん…いきなりリクエスト難度高いね…。まぁいいやそこの椅子、座って』


正直自分でも無茶なリクエストかと思ったが、それでも拒否をしないという事は弾けるという裏付けになる。
どうやら本当に弾いてくれる気らしい。



先程触れた細く、長い指から紡がれ出した旋律はまるで苗字先輩そのもののように優しいもの様だった。



協奏曲第2楽章
(俺があの人の名前を知った日)






―――――

曲名は実在するものですが実際のところどんな曲かあまり知らずに書いています。
あしからず。

天音
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