キツい練習を終えた薄暗い空の下、俺の足は帰路ではなく自分の教室へ向かっていた。
予習をしようと思っていた古典のノートを教室に忘れてきた為だ。
一緒に帰る霧野達を待たせるのも悪いから先に帰って貰い、一人夕日で赤く染まる廊下を歩く。
赤く染まる廊下は幻想的で、その雰囲気はどこか自分の好きなクラシックを思い出させる。

教室でノートを回収し、今度こそ帰路に付こうと再び赤い廊下を歩き出した時、耳についたのは透き通った音。



「ピアノ…?」



まさに自分が思い描いていた旋律の軌跡は、微かではあるが確かに響いている。
ピアノがある音楽室は吹奏楽部が使っている筈だがこんな時間まで部活をしているとも思えない。
見えない糸に惹かれる様に、俺の目的地は此処からさほど遠くない音楽室へと修正された。


徐々にゆっくり、大きくなっていく音は、メゾピアノやメゾフォルテ、クレッシェンドにデクレッシェンドの丁寧な音の波をつくっている。
押しては返す波は、消えていくように迎えた最後の音。
完全に波が引いたのを待ち、俺はゆっくりとドアを開けた。


ガラッ

『…だれ?』


ピアノとは違う、凛とした声が俺の耳に届く。
黒いピアノの間から覗く顔は夕日の逆光でよく見えない。
床に映るシルエットにピアノと同じ黒いロングヘアが見えた。


『あ……神童拓人くんだ』
「…?俺の事を?」
『うん。サッカー部のキャプテンさん』


自分の肩書きはこの学校において有名な事が頭から抜け落ちていた。

椅子から立ち、俺の目の前に歩を進めたこの人の顔が、始めて鮮明に見えた。
燃えるような赤い夕日をバックに、流れる黒い髪・黒い瞳。
美しさの中に静かな情熱を秘めた瞳に真っ直ぐと自分が映される。


『クラシック、好きなんだよね?』
「あ、あぁ……」
『じゃあ、ピアノは好き?』
「そりゃあ…嫌いではない…が……」


そこで彼女はニコリと笑い、机に置いてあった私物と思われる鞄を持って俺の横をスッと通り抜けて行った。



『明日も弾いてるから、よかったらまた来てね。拓人くん』



手を振って駆けていく彼女。
まるで嵐が通り過ぎた様な感覚に陥った俺は、とにかくドクドクと煩い心音を鎮めるのに必死だった。






協奏曲第1楽章

(俺があの人と出会った日)

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