どの道を走ったかなんて覚えていない。
このだだっ広い校内を走り回って、あの人を探して。

いつの間にか大分日が傾いてきた。
微かに廊下が赤く染まってくる。
もう部活は終わったのだろうか、もう時間なんてわからないが静けさを感じさせる校内。
かなり時間は経っていたようだ。
肩で息をする自分。
一度立ち止まって目を瞑り息を整えながら意識を集中させる。

きっと聞こえるはず。
あの人の奏でる音が。




〜♪‐…

「!」



―導くは彼女の旋律









「苗字さん!!」



音楽室のドアを開ければ流れていた音が止まった。

『来ると思ってたよ……拓人くん』

椅子から立ち上がり、苗字さんは俺に背を向けて窓辺へ歩を進める。
その背中は後ろから抱き締めたくなる程小さい。
窓が開くと風が入ってきて苗字さんの長い髪を揺らした。


『篤志に………聞いた?』
「…すいません」

『いいよ。そりゃあ気になっただろうしね』


苗字さんが窓枠についた右手に左手を添えた。
入り口付近から動いていない俺にはその表情が見えない。
予想ではあるが…苗字さんはきっと悲しげな笑みを浮かべているのだろう。
しばらくの間この空間に訪れたのは沈黙。
情けなくも俺にこの沈黙を切り裂く勇気はなかった。


『私、ピアノを嬉しそうに聞いて貰うのが好きだった』


初めて会った時から変わらない凛とした声。


『でも、あの日から周りが私を見る目が変わったの』


でもどこか震えた声で。


『命があるのが奇跡だって、言われたから…自分にも周りにもそう言い聞かせてさ』


一歩一歩俺の足が前へ進む。


『"可哀相"だとか"勿体ない"だとか言われても……ピアノを弾いてた……』
『でもっ「もういい」


耐え切れなくなって苗字さんを抱き締めた。
俺の腕に収まるぐらい小さいのに。
一体どれ程のものを背負っていたんだろう。


「俺、苗字さんのピアノが好きです」
『拓人、くん?』

「それに何より」






貴方が好きです





時が止まった様に感じた。
苗字さんは動かない。ずっと俺の腕の中で小さく震えている。
1分だったかもしれないし5分だったかもしれないし、30分だったかもしれない。
どれ程時間が経っただろう。

ゆっくりと苗字さんの腕が俺の腕を掴んだ。



『私…も、すきだよ』



ギュッと苗字さんの腕に力が入ったのがわかる。
苗字さんは続ける。


『でも、私は中途半端なの』
「…それが何だって言うんです」


体を離し、苗字さんの手を引いて苗字さんをピアノ前の椅子に座らせる。
俺はその右隣に立って片方の手を鍵盤にそっと手を置いた。
ここまでくればきっとわかってくれる。


「半分は俺が弾きますから」
『拓人くん?』
「2人でだってピアノは弾けますよ。名前さん」
『!』


名前さんは戸惑っていた様子だった。
でも俺と視線を合わせ、ゆっくりと頷くとついに左手を鍵盤に添えた。








奏でられる協奏曲。
2つの音が美しく響きあい、互いを引き立てあっている。

時には音が途切れるかもしれない。

時には失敗があるかもしれない。

それでもこの曲は響き続ける。
奇跡を信じる貴方の胸に。






協奏曲最終章

(君の音と)
(貴方の音とが)
(1つになった日)




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