リンも知らない
萌え 2021/10/31 23:46
・景光さん同居シリーズ
・リンさん視点
・10/31のSPR事務所の話
「あっ」
少女の声に続いて、大きな紙袋がリノリウム張りの床で倒れる。大きさの割に重い物は入っていなかったのか、冊子が落ちた程度の音しかしない。着替え用のロッカーに入りきらない大きさの紙袋は麻衣の持ち物だ。彼女は仕方なく仕事用のデスクの脇に置いていたようだが、それをうっかり滝川が蹴ってしまったらしい。そもそもSPRへの用事も依頼もない滝川がこの場にいるのがおかしいのだが、リンはそれを指摘することを数か月前に諦めた。ついでに同じような理由で、我が物顔で応接用のソファで寛いでいる松崎についても諦めている。時折ふらっと訪れる彼らが持ち寄る菓子や軽食に、せっせと餌付けされている麻衣は歓迎しているようだが。遊びに来た輩にちょっかいを出されようと、なんだかんだで麻衣は任された仕事は時間内に終えるので、リンとしても文句が言いづらい。あまり気になる時は自分だけ奥の部屋へ引っ込むくらいしか抵抗が出来なかった。
「悪いな、麻衣……、……」
倒れた紙袋に手を伸ばしかけた滝川が、不意に言葉を失う。無表情で淡々とキーボードを叩いていたリンが僅かに視線を上げると、紙袋から馬の生首がはみ出しているのが見えた。リンの出身地ではないが、広東省では“四本足のものなら椅子やテーブル以外何でも食べる”という言葉があるほど、中国の食材は幅広い。それでも馬を食べるのは一部の地域だけであり、リンも馬食には抵抗がある(それ以前に基本は菜食だが)。日本のマーケットでは馬の生首も売っているのだろうか。
表情に迷って結局真顔のまま滝川と馬の生首を見つめていると、滝川が笑いながら生首を引っ張り出した。よく見てみると、それは生首ではなくリアルな馬の全頭マスクだった。リンは安堵で胸を撫で下ろ……そうとして、どちらにせよ少女の荷物に紛れ込んでいるのはおかしいことに気付いた。
「何だこれ。まさか、今日がハロウィンだから被ろうってワケか?」
「バイトの後にクラスメイトとコスプレする約束をしたんです」
そういえばSPRの事務所がある渋谷は、ハロウィンの日にコスプレの集まりがあるらしい。夕方にかけて非常に騒がしくなるらしいので、今日はナルと共に昼過ぎには仕事を切り上げる予定にしていた。ナルは住まいにしているホテルから出た瞬間、漂ってくる賑やかな雰囲気に渋い顔をしていたが、このまま夕方まで渋谷に留まっていればそれどころではなくなるだろう。
「馬のコスプレ?」
「キッドザサンフラワーちゃんです」
「他の選択肢があるだろーにこの娘は」
「馬娘です」
「うまぴょい!」
奇声を発した滝川に白い目を向けたリンは、そっと溜息をついてディスプレイに視線を戻した。「知ってるんですね」「若い子が言ってたわ」「温泉行きたい」と謎の理解を示し合う二人に内心で首を傾げる。ハロウィンで馬のコスプレというので牛頭馬頭(ごずめず)の類かと思ったが、どうやら違うらしい。
「コスプレなんて元気ねぇ」
麻衣が淹れた紅茶を優雅に啜りながら、松崎が面倒そうに呟く。
「松崎さんはハロウィンやらないんですか?」
「あんたね、巫女にそんなこと聞くんじゃないわよ」
「でもお菓子持ってきてくれたじゃないですか」
「義理よ義理。あんた、いつもお腹空かせてそうだし」
松崎が事務所の紅茶を飲んでいてもリンが文句をつけないのはこれが理由である。ケーキの詰まった白い箱を持ってきた松崎を笑顔で歓迎する麻衣を見ているので、何とも無下にしづらい。ナルが知れば鼻で笑われるであろう理由だが、同時にリンが多少なりとも麻衣に気を許しつつある証左なのかもしれない。ちなみに、ケーキはリンとナルの分もあったが、二人ともあっさり断った。
「カロリーに貴賤はありません」
「あんたってどうして発言が欠食児童になるのよ」
「食べられるときに食べておくのがいいかなと」
何故そこまでサバイバル的な発想が出るのかよく分からないが、麻衣が食事を好きなのは明らかである。今のところ、食い意地で仕事に支障をきたしたことはないのでまあ良いだろう。
「あ、さすがにキッドザサンフラワーちゃんの格好で事務所から外に出たりしないので安心してください」
「……当然です」
思い出したように麻衣に話しかけられたリンは淡々と頷く。渋谷サイキックリサーチは心霊現象の調査事務所であり、馬の待機所ではない。馬頭で出入りしようものなら、ナルから「草原で牧草でも食んでいたらいいんじゃないか」と詰られて渋谷から叩き出されているだろう。TPOさえ弁え、事務所に迷惑が掛からないのならリンとして言うことは何もない。
……麻衣の趣味は理解し難いが、彼女なりに楽しめればいいとリンは考えたのだった。
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西暦何年代かを考えてはいけない。
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