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友人帳は箪笥の肥やしにしないでください
萌え 2021/06/07 23:38


・夏目君になった兄さん





 これはきっと、彼が諦めてしまった世界なのだろう。

 あと少しで彼は藤原夫妻に引き取られるはずだった。けれど、その寸前で彼は心を閉ざし、代わりに俺がひょっこりと現れた。そんな、可能性の世界だ。





 夏目友人帳という作品をご存知の方は多いと思う。妖怪が見える主人公の夏目貴志と周囲の人間、妖怪たちとの交流を描いた物語だ。人気が高く、何クールもアニメが作られたし、劇場版も作られた。その有名な見た目儚げ美少年主人公に成り代わってしまった俺は――案外普通に生活している。

 幼い頃から人ではないものが視える夏目少年は、両親を亡くした後、それが原因で親戚をたらい回しにされ、最終的に優しい藤原夫妻の元に落ち着いた。俺が目覚めたのはその藤原夫妻との初対面の時だった。正直、戸籍なしの完全身一つで異世界に放り込まれた経験もあったので、優しいご夫妻に引き取られることになったのはかなりありがたかった。

 その藤原夫妻が住む場所、つまり物語の舞台は田舎だ。今まではなんだかんだで都心部にいることが多かったのだが、今回は熊本県人吉市。つまりは九州なので陸地すら違う。大学生の俺ならば、アルバイト代を溜めて日程を調整すれば、気軽とは言わずとも東京に出ることは難しくないが、今の俺は高校生。しかも居候中。アルバイト代を溜める余裕があるならむしろ家に入れる(藤原夫妻はとても優しい人たちなので、家に入れるくらいなら将来のために溜めなさいと言ってくれるだろうが)。追い打ちで、当然ながら東京よりも時給が数百円単位で安い。その辺りは物価の違いも要因ではある。

 高校生の夏目少年に成り代わった俺は、東京に行くための交通費と今後の備えのためにアルバイトに精を出していた。俺の薄い夏目友人帳知識では、主人公がバイトをしていた気がしないのだが、そこは考えないでおく。あの魅惑のまんまるボディなにゃんこ先生とも今のところ会っていないのだが、それが“今の俺にとって”いいことなのか悪いことなのかも分からない。とにかく、やれることをやるしかなかった。

 東京に行くための交通費とは、単純にこちらの世界に俺の親友が来ていないか確かめるための手段である。俺一人がふらっと都心部に行っただけで見付かるものではなかろうし、そもそも彼までこちらに来ているかも分からないのだが、もし来ているのなら一人にしておけない。要は、俺自身の安心感を得るための手段でもあった。俺と親友にとってゆかりのある場所をいくつか巡る予定である。なお、トム・リドルというもう一人の友人のことはあまり心配していない。奴の神経はナイロンザイル製なので、放っておいても勝手に人生謳歌しているし、いつの間にかこちらを探し出している。何より、彼はイギリス人であるせいか、異世界に放り込まれたら日本国外スタートになることも多いので、手の出しようがないのだ。俺、英語、喋れない。

 ところで、俺が成り代わった夏目貴志君と言えば、妖怪が見えるし声が聞こえるし触れる。謎めいた美人祖母譲りの、大層なお力の持ち主だ。その能力がまるっと俺にスライドしているため、妖怪に絡まれることは少なくない。

 妖怪はあまり空気というものを読んでくれない。こちらが授業を受けていようが、バイトに勤しんでいようが、気の向くままに話しかけてくる。幼少期からこんな状況では、夏目君もさぞかし苦労したことだろう。何しろ、自分にちょっかいを出してくる奴らのことを認識できるのは、自分しかいないのだから。

 夏目君と俺の違いといえば、俺が既に成人していることと、妖怪にいちいち動じない程度の場数を踏んでいることだろう。正直、妖怪の方が余程マシだと思える場面が過去に多々あった。そのため、間違いなく俺の方が夏目君よりも遥かに図太いのである。

 例えば、バイト先で皿洗いをしている俺に対して、窓からわざわざ声を掛けてくる輩がいる。

『ねぇ……こっちにおいでよ。一緒に遊ぼう……』

 たまに悪癖と言われる俺の行動の一つに、会話できればとりあえず誰とでも会話してみるというものがある。それはもちろん、窓の外から俺にちょっかいを掛けてくる人の形をした黒い何かにも適用される。

「俺は今、遊ぶ金欲しさに働いてるんだ」

 言った後に、まるで短絡的な犯行動機を自供している気分になったが、半分くらいは事実なので仕方がない。残りの半分はもしものための蓄えである。いつ夏目君本人と入れ替わってもいいように、先立つものは備えておくべきだ。俺としても、放課後の時間を持て余すよりはバイトに費やした方が気が楽だ。別に部活動で輝かしい青春を送るのは気が咎めるというわけではなく、単純に部活動に打ち込む気力がない。つい先を考えてしまうので、今ではなく確実に先のための目に見える蓄積となるバイトを選ぶというだけの話だ。

 原作本編軸の夏目君は、妖怪や人との交流を経てそれなりに上手くやっていく術を身に付けていった。うまい付き合い方、あしらい方、きっと彼にしかできない方法がたくさんあるのだろう。しかし俺は彼ではないので、相手を激怒させない程度にぞんざいな扱いをしておくくらいである。

『こっちの方がずぅっと楽しいよ……』

「皿洗いめっちゃ楽しい」

 いや嘘だけど。ただの皿洗いにそこまでエンターテインメント性なんぞ見出せないわ。世の中にはエクストリームアイロニングなるものも存在するが、俺はアスリートでもないのでスポーツ性も見いだせない。

 窓の外の何かは少しの間黙りこくると、おずおずと『お皿、数える……?』と聞いてきた。それ、パクリとかって怒られません? ここ四谷じゃないです。

 俺のとりあえず会話してみるスタイルは案外妖怪にも通用するらしく、TPOをわきまえない奴でもある程度は抑制できた。たまに問答無用で食わせろと襲い掛かってくるヤベーのもいるが、薄い原作知識の中で、夏目少年のグーパンの威力を知っていた俺がラリアットをかますと、半泣きで怯んでいた。作法というものを全く知らないので、筋肉で解決するしかなかった。かつて別の異世界でワンパン除霊かましてた親友を笑うことが出来ない体たらくである。

 こんな俺だが、この数週間後、今度は寺生まれのTさんと化した親友とめでたく再会することになるのだから人生、もとい異世界は分からない。なお、リドルの憑依先はもっと酷かったことをそっと付け足しておく。



+ + +



親友は田沼君で、リドルは多軌ちゃんだとか(掲示板設定)。最高かよ。
正直なところ、兄さんが原作通りの流れで友人帳やらにゃんこ先生と関わっていくのかよく分からない……。友人帳の名前を返そうと思うのは夏目君と一緒だと思いますが、にゃんこ先生……出会えるのか……?


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