後に油小路の変と呼ばれるその夜のことを、皆が、忘れないと思った。要も、千鶴も、隊士達も、誰もが。
沖田が、変若水を飲んだ。
眠る沖田、それを抱き抱える要。部屋の戸口に立ち尽くしその様子を見ていた山崎は、遠くから、バタバタという足音と共に、要を呼ぶ声が聞こえた。重症の怪我人が出たのだろうか、この部屋からは離れているが、酷くざわめいている。耳が良い山崎は、それを聞き取ることができた。
「要さん、行って下さい。沖田さんは俺が」
「…」
「…要さん!」
山崎の少し強めの口調に、要は俯かせていた顔をゆっくりと上げる。その表情を見て、山崎は驚いた。涙の痕が頬に残っている。目も少し赤い。
泣いたの、だろうか。山崎は思わず、彼女の頬に手を伸ばした。
すると、もうすぐ肌に触れる、その直前。唐突に、その手がパシッと軽い音を立てて弾かれた。
「、」
「彼を…どこか、別の部屋へ。わたしを呼んでいるのは、多分、左之助かな」
「…そうだと、思います」
「…沖田さんのこと、お願い」
弾いたのは、他でもない要だった。
今は、慰められている場合ではないのだ。だから、その手に甘える訳にはいかない。要はそういう意味を込めて、しかししっかりと、山崎の手を振り払った。
山崎は少なからずショックを受けたが、自分を拒絶された訳ではないのだと分かっていた。彼女の目が、いつもと違い、不安げに揺れているからだ。
「…すみません」
「…容体は、安定してると思う」
山崎の謝罪に対し、要がただ、そう言い残すことが出来たのは、山崎もまた彼女と同じように、沖田が労咳であることを知っているからだった。沖田総司が労咳を患っていることは、近藤や土方でさえも知らないのだ。だからこそ、知っている山崎に、沖田を託すことが出来る。
手を弾いたのも、沖田を預けられるのも。山崎を信頼しているからこそ、出来る行動だった。
「彼のこと、お願いね」
「分かり、ました」
「…ありがと」
沖田を自分の膝から山崎に渡し、立ち上がった要は、しかし山崎の頭をポンと撫でる余裕もなかった。
「要!」
沖田の部屋から外に出てみると、酷く空気が澄んでいるように思えた。羅刹の死体、というのもおかしな話だが、死体が転がっているあの部屋はやはり空気が篭っているのだと、そんな当たり前のことに気付いた。
やはり彼女を探し回っていたのは原田と永倉だった。丁度自分の部屋の前を通った時、要が歩いて来たのと反対側から、二人が走ってきたのだ。どうして屯所に?もう伊東の暗殺は終わったのかと、そんなことを尋ねる間も無く、要は彼の腕に抱えられている何かを見て、目眩がした。
それは人間だった。血に濡れた、人間。それを抱えている原田の、浅葱色の隊服が、紅く染まっている。目さえももう、見えているか分からない。
「おい、死ぬなよ!平助!」
「邪魔、どいて。…彼と話をする。他の誰でもない、彼自身に、生きるか死ぬか、選ばせる」
要もまた、死にかけているその人間を、よく知っていた。
合流したのがたまたま自分の部屋のすぐ近くで良かったと思った。平助を部屋へ運びながら、要は、原田と永倉から土方の意向を聞いた。
「こいつが死ぬと、戦力の痛手になる。だから、」
「…変若水を飲ませろ、と?」
「…ああ、そうだ。ただ、本人が望まないのなら、無理強いはしないって」
土方は、ただ、平助に生きて欲しいのだろう。戦力の痛手など、大した問題ではない。事実、新選組は、隊士のおよそ半数が御陵衛士に流れた時も、どんと構えていた。少なからず隊務に影響は出たが、それでも。
「運んでくれて、感謝する。だけど、やっぱり出て行ってくれ」
要は無理矢理原田と永倉を部屋から追い出すと、襖をぴしゃりと閉め、布団に横たわる平助へと視線を投げた。
「…さっきの話聞こえてた?」
「…ああ…」
何とか、まだ、喋れるようだ。しかし当たり前だが、彼の声からはいつもの覇気が感じられない。要は布団の側に腰を下ろすと、平助の手を握った。
「…わたしは…」
沖田を、羅刹にしてしまった。自分のせいで。自分があそこにいて、変若水を持っていたせいで。それでも、彼女は、平助に提示しなければならない。生きるか、死ぬか。変若水を飲み修羅の道を行くか、このままゆるやかに死を迎えるのか。
「…君の、意見を尊重する。平助の命だ、他人に命じられる必要はない」
「…」
「生きるか死ぬか、今、決めて」
どうしてこうも、今日は、考える時間がないのだろう。沖田も、平助もそうだ。変若水を飲むか飲まないか、深く考える時間も長く取れないまま、沖田はそれを飲み羅刹になった。修羅の道を行くことを、決めたのだ。
ひゅうひゅうと、か細く呼吸を繰り返す平助。このまま放っておけば、長くはない。要は机の引き出しから小瓶を取り出した。透明の中に浮かぶ深紅、変若水だ。
平助の瞳が、揺れる。
「修羅の道を行く覚悟があるのなら、頷いて、口を開けて。わたしがこれを、君に飲ませる」
「…」
「人間のまま生を終えたいなら、どうか頷かないで。このまま、看取ってあげる」
平助が、何を考えているかなんて、要には分からない。ただ、暫くの沈黙の後、平助は小さく頷いた。要は、目を見張った。
「…本当に、?」
「…、」
そうして、平助は、薄く口を開いた。
彼は、生きたいと願っている。今ここで要が羅刹の吸血衝動や寿命について話しても、彼にとっては意味がないだろう。要は泣きたかった。一晩で、大切な人をふたりも羅刹にするなんて。そのきっかけを、変若水を与えるのが自分だなんて。
それでも、やるしかないのだ。
「…ごめんね」
要は小瓶の口を平助の口元へ寄せ、ゆっくりとそれを傾けた。
深紅の液体が、平助の口へと消えていく。コクリ、と小さく音を立て飲み込まれる変若水は、沖田が飲んだものと同じ。要が改良を加えたものだ。しかしそれでも、吸血衝動も寿命も、どうなるのか分からない。
得体の知れない変若水を扱っている新選組を、おかしいと思った。それと同時に、得体の知れない変若水を人に飲ませている自分も、どうかしていると思った。
だから、たとえ無用なものだとしても、謝らずにはいられなかった。
「…飲み込んで」
「、」
「もう少しだから…っ!」
コクリ、コクリと、平助の喉がそれを吸い込んでいく。そうして小瓶の中身を全て飲み干した彼は、やはり羅刹の姿へと変貌していった。白い髪に、紅い瞳。身体が熱いのか、もがき苦しんでいる。しかし彼が額や胸に負っていた瀕死の傷は、みるみるうちに塞がっていった。
「…」
こんなことを、喜んでする研究者の気が知れないと思った。知れないというよりも、知りたくないと感じた。そしてもう一生、誰にも変若水を飲ませたくないと、要は思った。
「…」
沖田が、そして平助が羅刹になって生き延びたことを、報告しなければ。平助も沖田も、少なくとも明日の朝までは疲労で起きないだろう。近藤に、土方に、皆に。泣いたせいで瞼が重いが、眠る訳にはいかない。でも脚が動かない。身体が重くて、頭も怠くて、動けない。
「…要?」
その時、縁側に面した襖がゆっくりと開いた。そこから顔を覗かせたのは、斎藤だ。いつも要を見守る時のような心配に満ちた表情で、彼は襖を開けた。途端に要の肩の力が抜ける。
「さいとう、さん?」
「…ああ、俺だ」
斎藤は要の側に寄ると、今にも崩れ落ちそうなその肩を支えた。
斎藤が、何故此処にいるのか。それは原田が、要が斎藤を呼んでいると言って、彼を呼び出したからだ。否、本当は、要は斎藤を呼んでなどいない。しかし彼女が斎藤の存在を必要としていることはなんとなく分かった。理由は分からないが、しかし原田は、そうすべきだと思ったのだ。
だから斎藤は、今、此処にいる。
「斎藤、さん、わたし、皆さんに報告しなきゃいけない、ことが、」
「分かっている。…だが今は少し休め。顔色が悪い」
「でも、とても大切なこと、なんです。平助と、沖田さんについての、だから、どうか」
土方さんの所に、連れて行ってください。
そう言う要の願いに、応えるべきか、斎藤は躊躇した。理由はまだよく分からないが、見るからに彼女は疲弊し、憔悴しきっている。そんな彼女にこれ以上負担を掛けられるのだろうか。否、それでも、
「…分かった」
斎藤は、目の前の布団に横たわる平助にさっと目をやる。服が血塗れだが、胸が上下し、呼吸が正常に行われていることが分かる。よく眠っているようだ。このまま少し、この場に一人で寝かせていても、問題はないだろう。
斎藤は要の膝の裏に腕を通すと、もう片方を彼女の背に添え、要を抱き上げた。要の部屋から土方の部屋はそう遠くない。土方も、伊東の接待から戻っているか分からない状態だが、それでも構わなかった。彼女を此処に居させ続けるには、何もかもが難しかったのだ。
きっと斎藤も要も、暫く屯所から姿を消すことになる。間者とはいえ、御陵衛士として活動していた二人は、事情を知らない隊士からすれば、御陵衛士から出戻りしたようにしか受け取られないだろう。
斎藤は恐らく、噂により坂本龍馬暗殺の濡れ衣を被せられた、紀州藩の三浦の警護に回されるだろう。御陵衛士の崩壊、伊東の暗殺のほとぼりが冷めるまで、彼らは新選組にいない方が良い。
しかし、要は、どうなるか分からない。斎藤と同じく新選組を離れるかもしれないし、沖田と平助の様子を見守ることになるかもしれない。こればかりは予想がつかなかった。
要は緊張が緩んだのか、斎藤の腕の中で、いつの間にか気を失うように眠りに落ちていた。
抱き上げた要の身体が、斎藤には酷く軽く感じられた。