その日は朝から忙しかった。御陵衛士の拠点として選別されたこの屋敷は、屋敷と言えども、掃除をしないと住むことも出来ない広い環境だ。此処へ越してきたばかりということで、怪我人や病人などいる筈もなく、要も屋敷の掃除に励んでいた。

「…」
「…」
「…ねえ平助、聞きたいんだけど」
「…なんだよ」
「何怒ってんの?」

雑巾で縁側を水拭きし乍ら、要はふと顔を上げ、同じように水拭きをしていた平助を見た。返事をしたものの、彼は振り向かない。平助が要を避けるようになったのは、もう長い間続いていた。

きっかけは何だっただろう。幾ら頭を捻っても要には思い当たる節がない。それにも関わらず平助は要との交流を避ける節を見せていた。

怒っている、と指摘された平助は動揺したように振り返り、焦って否定した。

「なっ、別に、怒ってなんかねーよ!?」
「怒ってるというか…何か、気に入らな地ことがあったのかなって。わたし何かした?」
「え…っと、その…」

要は鋭い洞察力を持っているようで、とてつもなく鈍感だ。特に人の気持ちに対しては鈍いところがある。平助は、彼女のことが知りたかった。

「…なあ、要」
「ん?」
「前に言ってたよな…男として育てられたようなもんだって。それって、前に何かあったってことか?厳しい家系に生まれたとか」
「ああ…そのこと」

ふと要は遠くを見た。縁側に脚を崩し、息を吐いた。平助も同じように寛いだ姿勢を見せる。

「別に、隠す程のことでもないんだ。ただ、喋る程のことでもない」
「怒ってる訳じゃねーけどよ…なんつーか、逆にお前のこと怒らせるようなら、謝るけど」

平助は要との距離をじっと詰めた。必然的に顔も体も距離が近くなる。

「お前のこと、もっと知りたい」

何とも彼の言葉は不意打ちで、そんな意味ではないと分かっていても、要の頬はみるみる内に紅く染まっていく。しかもそれを言っている本人は無自覚なのだからこれまた厄介だ。

「っ馬鹿か、お前…!」
「あ?何がだよ!」
「そういうことを、ほいほいと、仮にも女に向かって言うもんじゃない!」

真っ赤になった頬の熱を冷ますように、要はパタパタと手で風を扇ぐ。その様子に、やっと自分の発言の意味に気付いたのか、今度は平助が顔を紅くする番だった。

「べ、別にそういう意味じゃ…!ただ俺は、お前のこと大事な仲間だと思ってるから…その…」
「…うん。ありがとう」

新選組に身を寄せて、もう二年は経とうとしている。羅刹に詳しい知識を持っているからという理由で要が身柄を拘束されているという事実は、平助にとって、最早ただの名目に過ぎなかった。そしてまた、他の隊士達もきっとそうだろうと、彼は信じている。

一方の要も、まさか平助とここまで強い信頼関係を築けるとは思いもしなかった。当初は別の用事で京を訪れた要だったが、二年もの月日を彼らと過ごしていると、楽しいことが多かった。此処へ、京へ来てよかったと思った。だからこそ、自分の心許ない発言が、平助を筆頭に周囲を混乱させているのだと気付くことができた。

「確かに、わたしには秘密が多かったかもしれないな。いいよ、何が知りたい?」
「そうだなー…色々聞きたいけど、じゃあまず、あれだな、生まれた故郷の話が聞きたい!」

生まれ故郷。その言葉に、要の表情が一瞬固まった。彼女の身体を不安が過る。これまで故郷というものの話を、要は新選組の誰にもしたことがなかった。自分の過去を話しても、平助は遠ざかってしまわないだろうか。

「驚かないで欲しいんだけどーー…わたしは、どこの誰の子か、分からない」
「…え、」
「何処で生まれたのも、誰の腹から生まれたのかも、兄弟がいたかも、分からない。捨て子だったんだ」
「…」
「前に、外国語で書かれた医学書を見せたことがあっただろう?あれは、わたしが育った場所のもの。多分わたしは、物心付く前から、外国にいたんだ」

拳銃が使えるのも、語学に長けているのも、外国にいたから。その場所にいた仲間と共に、大人から教え込まれたものが殆どだった。

「仲間…ってことは、一人じゃなかったんだよな?」
「まあ…姉みたいな人は、いたかな。優しい人だったよ。一匹狼を気取ってたわたしを看破して、面倒を見てくれた」

優しい面影にふっと意識が遠のきそうになる。要はハーっと深く息を吐いた。

「だから、」

要が続く言葉を紡ごうとした時、要の視界が急に暗くなった。平助が彼女をそっと抱き寄せたのだ。暴れることもなく、すとんと彼の胸に収まる要。どうしたものかと思っていた矢先、平助が口を開いた。

「…ごめん。辛いこと、思い出させて」
「…いや、別に構わない。辛いことばかりじゃなかったんだ。それに、過去のことがあったから、今のわたしがいる」

でも、と言う平助の声は寂しそうだ。何故お前が泣きそうなんだと要は軽く笑う。ぱっと顔を上げると、やはり彼の眉は下がっていた。

「さて、わたしのことは話したよ。次は平助の故郷の話を聞かせてくれないかな」
「…ああ!」

平助は切り替えて、自分の故郷の話を要に聞かせ始める。その一方で、誰かが気配を消して建物の物陰から去って行くのが彼女には分かっていた。別にこれ位の話なら、立ち聞きされても困るものではなかった。本当に聞かれたくないことは、もっと別の、要の心の奥深く、暗いところにあるのだから。










物陰から離れたのは斎藤だった。彼も故意に立ち聞きをするためにあの場所へ向かった訳ではなかった。ただ、伊東から二人の様子を見て来てくれと頼まれたから訪れただけのこと。まさかそこで要の過去のことを知ることが出来るとは思いも寄らなかった。しかしその場から立ち去らなかったのは、斎藤自身、要に少なからず興味を抱いているからだろう。そしてそれがただの好奇心ではないことに、彼自身も気が付いている。

ただ、それを伝えることは、出来ない。

平助が彼女のことを知らなかったように、斎藤もまた、要のことを殆ど何も知らないのだ。出逢って二年が経った今も、彼女との距離はあまり変わらないままだ。

桜の花びらが、春風に舞い落ちる。それを掬い上げ乍ら、斎藤は想いを馳せるのだ。あの日花びらを追いかけようと手を伸ばした彼女を、そして、夢によく見る光景を。















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