二条城の警備の後。千鶴は悩んでいるようだった。彼女が風間達に何を言われたのかは要の知るところではないが、大方彼女自身のことについてだろう。あの様子では千鶴は自分のことをほとんど何も知っていないようだし、悩むのも当然のことだと思う。しかし彼女は何故鬼について何も知らないのか。断言できないものの、恐らくは雪村綱道の計らいだろうが。

千鶴が悩んでいる間、要もまた悩んでいた。風間と共にいた一人の鬼、不知火匡についてである。

不知火と要は過去に、ある一人の人物を介して知り合っていた。知り合いというようなレベルではない、最早友人と言う程までに深い仲だった。とある事情から離れ離れになってしまったが、土方達幹部の話を纏めるに、どうやら彼は今長州に属しているらしい。

「…彼が変わらないのか、私が変わったのか」

その真偽は誰にも分からない。ただ不知火が要に対し怒っていることは明確だった。そして彼女を新選組から引き離そうとしていることも

「私は…間違っているのか…?」

その問い掛けは誰にも届くことなく、深い夜に溶けて消えていった。







慶応元年 閏五月

要は朝から走っていた。そして要だけでなく、何人かの幹部達も走っていた。

「そこ!診察の前は走るなとさっきも言ったでしょう!」

要の喝がぴしゃりと炸裂し、隊士達は苦笑いを浮かべ足を止める。

何故彼女が朝から走っているのか。その理由は、本日実施されている健康診断だった。

次から次へと処方されていく薬。普段なら千鶴を呼び付けて薬を調達するのを手伝わせるのに、今朝に限って千鶴の姿が見当たらないのだ。私だって診察の仕事があるのにと愚痴を零しながら、要は薬箱を抱えぱたぱたと診察処である広間へ駆け込んだ。

「おお、すまないな要くん!」
「…っ誰か、手の空いた奴…手伝え…」
「ははは、素人に処方させたら患者に毒だろう!」

息を切らす要の肩を笑顔でばしばしと叩く大柄の男がいる。名を松本良順といって、大坂を拠点に活動している、その道ではかなり名の知れた医者である。将軍上洛の際に近藤と意気投合したらしく今回の健康診断の開催に至ったというわけだ。

しかし要はそれよりも前に彼と知り合っていた。いつか要は沖田に話したことがあった。彼女がかつて全国を放浪しながら活動していた頃、拠点を一ヶ所に絞った方が医者として仕事をする際動きやすいと要に諭した人物。彼こそがその松本良順である。

「それにしても、本当に久しぶりだな。まさかお前さんが新選組にいるとは。近藤さんに聞いた時は驚いたぞ!」
「はあ…まあ色々ありまして」

知り合いというよりは寧ろ師弟関係のようなものだった。二人には共通の患者がいることもあり、松本は要を懇意にしていた。

「お待たせしました。次の方、どうぞ」

薬箱を床に置き、簡易な作りの木の椅子に腰掛ける。要の前に出来た列にはまだ疎らにしか人が並んでいない。すると、彼女の声を聞きつけ、隣の松本の前に並んでいた隊士の列から飛び出してきたのは、松本の真ん前に並んでいた伊東だった。

「市井さん、よろしくお願い致しますわ」
「はあ…」

何の意図を含んでかは理解出来ないが、そわそわとした様子の伊東は要にしきりに目配せしてくる。しかし何が言いたいのかさっぱり彼女には分からない。困った様子で要が苦笑いを浮かべていると、伊東の後ろ衿を、ぐわしっと大きな手が掴んだ。松本である。

「おっと、おいお前さん!ずっと並んでたんだから、俺が見た方が早いだろう。お前さんはこっちだ、俺が見る」
「まあ!私は市井さんに診て貰…」
「患者が医者を選ぶんじゃない!」

そう言って無理矢理伊東を自分の診察椅子に座らせる松本。服に手を掛けられた瞬間、伊東は顔を真っ青にして広間から飛び出して行ってしまった。要としてはどちらの医者が誰を診るかなどどうでも良いことなのだが、松本は患者をみすみす逃がすような真似はしない医者だったらしい。

「…次、どうぞ」

逃げ出した伊東を尻目に溜息を吐きながら、次の患者に椅子を勧める。

「…あ、斎藤さん」
「診断を頼む」
「はい」

黒塗りの鞄の中なら聴診器を取り出し自身の耳に取り付ける。その先を露わになった斎藤の左胸にあてがう。

鞄は京に始めてやって来た夜持っていた、大河から借りてきたそれだ。江戸の大河と幸太、そして猫のあずきは元気にしているだろうか。斎藤の心音を聞き目を閉じながら、要はふとそんなことを考えた。

「…」

一方で、表面上は平静を装いながらも内心どぎまぎしている斎藤。要の長い睫毛が作る黒い影が、白い肌に映えている。斎藤は自分の鼓動が一気に速くなったのを感じた。それは聴診器をつけている要にも当然伝わり、彼女は顔を上げた。

「斎藤さん?心音が少し速いみたいですが、何かありましたか」
「、っあ、ああ。いや、何もない」
「顔も赤いですね。…風邪でしょうか」

要が斎藤の額に手を当てようとした時、ふむ、と松本が唸るのが聞こえ彼女は動きを止める。何かと思い広間の入り口の方を見ると、千鶴が此方の様子を窺っていた。

(…そういえば、綱道は松本先生とも懇意にしていたんだっけな)

「…松本さん。薬の補充もしたいので、一旦休憩にしませんか」
「そうだな。おうい、そこの君!手伝ってくれるかね!」
「えっ!?あ、はい!」

部屋の外から様子を窺っていた千鶴は、松本に突然呼ばれた驚きのあまりその場で飛び上がった。それを見ていた斎藤は不思議そうに首を傾げる

「斎藤さん、異常なし…っと」
「市井、彼は」
「千鶴が京に来て最初に頼る予定だった人ですよ。…雪村綱道とも、まあそれなりに親しかったようですが」
「…」

カルテに記入する手を止めず、要は斎藤の問いかけに答える。まただ、と斎藤は思った。彼女は時折、綱道の話になると表情を暗くする。

「何かあったのか」
「え?」
「雪村綱道と」

その言葉に要の表情が一瞬強張る。しかし次の瞬間には斎藤に対し朗らかな笑みを浮かべた。

「何もないですよ」

全て順調。

そう言い聞かせるような声で、要は笑った。













「病名は…労咳、ですね」
「…まあ、何度診察を受けても結果は変わらないよねえ」

松本良順の診察を受け、要の診察を受けても、彼ら二人による沖田の診断結果は変わらなかった。沖田総司が、労咳。この事実は、新選組だけに留まらず外部の人間にも大きな影響を与えるだろう。しかしどうやら、沖田が病の存在を隠したがっている理由はそれだけではないようだった。

「治療は此処で出来ないんでしょ?」
「そうですね。何処か、空気が綺麗で静かな山村で療養するということになります」
「…僕は、此処を離れないよ」

沖田の瞳からは固い意志が感じられた。確かに彼の言う通り、新選組内に沖田が労咳であることを公表すれば、近藤や土方を筆頭とする面々は沖田を療養させようとするだろう。しかし沖田はそれを望まなかった。まだ、戦える。新選組の剣として。彼は最後まで、一人の剣として生きたいのだ。

「…週に一度の健診、毎食後に薬を飲むこと、隊務の時以外はなるべく休むこと、無理はしないこと」
「え?」
「屯所に残る条件です。守れないなら、すぐにでも松本先生の管轄にある田舎に連れて行って、休養させます」

つまり要は、此処に残ることを許可しているのだ。しかしそのためには彼女が提示した幾つかの条件を守らなければならない。沖田は笑った。

「意外だなあ。僕は君が、もっと情に薄い人間かと思ってたよ」
「…此処で生活していれば、貴方達が賭けている想いの強さがいやでも分かります」

要はふっと笑みを浮かべた。自嘲的な笑みにも見えたが、どこかすっきりとした表情だった。

「…今までわたしは、患者の病気を治すことが本人にとって一番の幸せなのだと、そう信じてきました。だけど此処に来て、貴方達と生活を共にして…人には無理をしてでも追い掛けたい夢があるのだと、そう教えられた気がするんです」
「それは、要ちゃんにとって良いことだった?」
「さあ、どうでしょう。結局わたしは怪我を治すとか、病気の症状を軽減するとか…補助することしか出来ないんですから」

最後に治すのは、要ではなく、その患者本人だ。ならば病であることを知った時、どうするかも患者の自由な意志なのであって。要は境内の先を指差して言った。

「さあ、早く戻ってください。いつまでも此処にいては体調を崩しますから」

沖田は意外にもすんなりと自室へ戻って行った。沖田を見送り、彼の気配が完全に消えた後、その場に立ち尽くしていた要は、暫くして声を上げた。

「もう、出てきていいですよ」

その言葉に物陰から姿を現したのは、斎藤と山崎だった。二人の表情からは感情が読み取れない。要は静かに口を開く。

「…どうしましょう。医者とはいえ、わたしには組織に発言する権利はありませんが」
「ここは取り敢えず、この場にいる三人と総司、松本先生だけが知っていることにした方が良いだろう」
「そうですね。先程仰った通り、公にしても良いことなど殆どないように思えます」
「時が来るまで隠し通すか…」

仕方ない、と肩を竦める要は医者失格だと自分を嘲笑した。しかしそうではないと山崎は思う。要は、沖田の生きる道を創ったようなものだ。もしここで要が問答無用で沖田を新選組から引き離し、療養させていれば、確かに寿命が少しは延びたかもしれない。しかし彼女は沖田を本物の武士だと思ったからこそ、新選組に留まることを許可したのだろう。最期まで、武士としての誇りを貫けるような、そんな道を造る形で。

「それに…」
「ん?」
「要さんは、組に対して発言権が無いと言いましたが、あなたはもうただの医者ではあやません。新選組の隊医です」
「…」
「ですから、ええと、その…」

遠回しだが、少なくとも仲間であると。山崎はきっとそう言いたいのだろう。新選組に連れて来られた当初は要が気に入らず冷たい態度を取ってきた山崎が、まさかこんなことを言うようになったとは。要のみならず斎藤さえも驚いていた。要は苦笑いを浮かべ、目の前の山崎の頭をくしゃりと撫でる。

「っ、な、なにするんですか!」
「はは、ありがとね」
「…」

こうなると斎藤は何故か面白くない。いつも通りの表情で佇んではいるものの、放つ覇気には何処か禍々しいものが感じられた。それに気付いたのか気付かなかったのか、要が丁度良いタイミングで場を仕切り直す。

「わたしたちも戻りましょうか。こんなところにいつまでも居ては、広間に残っているみなに怪しまれますから」
「…そうだな」

山崎が先陣を切り神社の中へと入って行く。斎藤はその背を見送りながらも、ふと視線を外すと、目の前の要の肩が震えているのが目にとまった。同じく山崎を見送るように斎藤と同じ方角を見ているのでその表情は分からないが、着物の袖から覗く手は、固く握り締められている。

「要、どうかしたのか」
「…何でもない、ですよ?」

本日二度目となる斎藤の問い掛けに、やはり要は同じように何でもないと答えた。斎藤を振り返り、微笑みを携えて。





いつからこんな、本心を隠す人間になったのだろうと思い、即座にその考えを打ち消す。愚問だ。要は斎藤から逃げるようにその場を後にする。無意識にグッと唇を固く結んでいた。





生きる道など、創っていない。創れない。創りたい訳がない。嘘で塗り固められた自分の言葉に、要は苦しんでいた。

本当は、沖田に療養してほしい。新選組から離れ、もっと静かで空気の澄んだ山間の村で。そこでならきっと彼も少しはよくなる。完治とまでは行かないものの、実際にそこで療養し、長生きしている人間もいる。

沖田だって、生きたいと願ってはいる。まだ死ねないと。しかしそれは今の沖田にとって、一番の願いではないのだ。新選組にいること、皆と、近藤局長と共にあること。それが、今の彼にとっての願いで、生きる道なのだろう。

分かっているからこそ、言えない。戦いの最中死ぬならまだしも、病に侵されて死ぬなど馬鹿馬鹿しい。沖田に生きてほしい。死なせたくない。しかしそんなことを沖田に、誰かに伝えられる筈もない。

「っ、クソったれが…」












近藤さんの助けのお陰とはいえ、まさかこんな所で松本先生とお会いできるとは考えてもみなかった。先生も父様の行方は知らないらしく情報は掴めなかったけれど、彼と会えたことが私にとって収獲だった。

近藤さんと松本先生と私。自然に話は羅刹の話になった。

「要も言っとったでしょう、あの計画は失敗だ。行わない方が良い。幕府も見切りを付けているはずだ」
「むう…」

黙り込んでしまった近藤さん。幕府から与えられた研究だから、断るという判断はもしかしたら近藤さんの中には最初からなかったのかもしれない。そんなことを思いながら、私は、ずっと疑問に思っていたことを尋ねることにした。松本先生なら知っているだろうから。

「あの…要さんって、何者なんですか?」
「何者、とはどういうことかね?」
「その…私とそんなに年も変わらないのに、凄いお医者さんだと聞いて。それに、新選組にくる前から羅刹について知っていたり…」
「ふむ…」

松本先生は眉間に皺を寄せ顎をさすった。答えるべきかどうか迷っているのだろう。近藤さんも知りたそうな目で松本先生を見た。暫く唸った後、彼は話し始めた。

「彼女は良く出来た子だ。勉学にも励み剣術にも長けている。しかし私も、あの子についてはほとんど何も知らないんだ」
「え?」

松本先生の言葉に私は思わず目を丸くする。正直なところ、意外だった。お医者さん繋がりで、松本先生と要さんは仲が良いとばかり思っていたから。

「…何も知らないよ。聞いても全て、上手いように受け流される。私と出会う前は何処にいて何をしていたか。何処で生まれ、育ったのか。何もな」
「…」
「知りたければ自分で聞くといい。答えてくれるかは分からないが、彼女は第三者の介入を何よりも嫌うだろうからね」

気になる、けど、松本先生にもなにも教えていないのに、私が聞いても何も言わないんじゃないかな。彼女は、私が彼女のことを聞いても、怒らないだろうか。少なからず不安だった。

そんなことを考えながら、再開された松本先生と近藤さんの話を聞いていると、山南さんがやって来た。まだ昼間なのに起きていて大丈夫なのだろうかと心配したが、彼は松本先生に、羅刹の研究を止めることはない、あの研究は成功だとだけ言って去って行った。その時の彼は、やはり少し怖かった。

山南さんが去った後、取り敢えず、と言って松本先生が今現在分かっていることを私と近藤さんに教えてくれた。

「…私と知り合った頃から彼女は飛び抜けていた。今の山南くんや綱道さん、それに私よりもだ。そこいらの変な医者よりよっぽど腕が立ったんだな」

松本先生も同じ位素晴らしいお医者様だと否定したけど、要さんの腕がその辺りのものではないことは、私にも理解できた。要さんの怪我や病気の処置は適切で迅速で、何よりも丁寧だ。鋭い観察力で些細な症状から病を見付け出す。それにお医者様として、一部の隊士以外からの信頼も厚い。だけどそれは建前だ、と松本先生は言った。建前?私にはよく分からなかった。そして松本先生が屯所を出立する際、近くにいた私だけに要さんのことを教えてくれた。

「腕はたつ。頭も切れる。ただ」
「ただ?」
「弱いのさ、彼女は」



要は今もまだ誰にも心を見せることが出来ない。








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