ひらひらと舞い落ちる桜の中、儚い笑みを薄く浮かべ佇むき着物姿の男。表情はぼんやりとしていて、良く見えない。しかし確かに口元に哀しそうな笑みを浮かべているのだけは見える。その男は、彼女が見かける度に、何か物思いにふけっているように見えた。


落ちてくる桜の花びらを哀れみ、愛おしむように。男は手を伸ばし、花びらを掴もうとするが、まるでそれに触れるのを恐れるかのようにゆらりと手を引っ込める。


要はその隣に立っていた。


「捕まえないんですか?」
「ああ」


そして要はその男に会う度に同じことを問いかける。彼はいつも同じように一言で肯定する。それ以上の会話はない。ないと言うより、会話が出来ないのだ。


どこからか強い風が吹いたかと思えば、瞬きした次の瞬間にはもう男は消えていて、彼の立っていた場所に残っているのは桜の花びら。そしてそこで目が覚める。


「…夢か」


むくり、とまだ半分眠っている状態の頭に鞭を入れ、要は毎朝ぼんやりとした意識の中で思うのだ。


(…同じ夢を毎日見る人は、可笑しいと笑われるのだろうか)











「おはよう大河。調子はどう?」「絶好調。おはよう」
「にゃーん」
「おはようあずき。あら、幸太も来てたの」
「うん!」
「良かったね幸太、やっとお母さん退院よ」
「かーさん、今日はご馳走食べたい!」
「はっはっは」
「大河、これ。飲み薬調合しといたから。毎食後に二錠ずつ飲んで」
「あの小さかった要がわたしの薬まで調合できるようになるとは…大河ちゃん感涙だわ」
「ただの風邪薬だけどね」


文久二年、四月


着替えを済ませ診療所に入った要を出迎えたのは、春の暖かな日な差し。そしてこの診療所の主・大河とその息子の幸太、診療所に住み着く猫あずき。


純日本人ではごくありきたりな黒髪を長く伸ばした要は、内・外科医師、薬剤師を担当し、この診療所に雇われている。江戸では医者が沢山営まれているが、その中でも大河と要の経営する診療所は、経営難に苦しむことなく、しかし華やかさもなく、細々と毎日開院していた。細々とはいえ、そこそこ名前のある診療所になったようで、日々沢山の患者がやって来る。


診察や手術に追われる。そんな日々を過ごしていたある日、つまり今日。要の耳に一つの噂が入った。




「医師の人手不足…京から?」
「ああ」




ずずず、


大河は湯飲みの茶を啜った。


大河の話によると、京のお偉いさんからの瓦版が張り出されたのは昨日のこと。


『京の町での火事による負傷者が多数。治療に腕の有る医師求む』


要は診察に出ていたが、昨日大河のお使いに出ていた幸太が、その瓦版を見つけたのだとか。


瓦版の配布元は華の街、京。


多数の負傷者を治療。久しぶりの京。それにもしかしたら




夢に出てくるあの人が、京にいるかもしれない。




「わたし、京に行くわ」
「要、お前正気か?」
「わたしは何時でも正気よ」


決して表面には出さないが、行く気満々の要。


ただ、目の前に座る大河は湯飲みを置きながらちらりとこちらを見る。化粧の施されていない、しかし綺麗な顔立ちをした顔の、小さな唇が何か言いたげに少し動く。


「大河、どうかした?」
「えっああ、いや、別に何でも。…ただ、京は治安が悪いって聞くしなあ」
「大丈夫よ。医者は帯刀が認められてるし、いざとなれば拳銃だって使うわ。それに」


誰もこんな女襲わないわよ。要はそう言うと、旅立つ為に商売道具である小刀や布地、生活必需品などが入っている箪笥を漁り始めた。


その要の様子に、仕方ないというように溜め息を吐く大河。要は一度こうだと決めたら絶対にそれをやり遂げる性格なのだ。彼女はそれを良く理解している。


あずきとじゃれていた幸太がふと要に尋ねる。


「留守の間、ここは閉めるの?」
「うん。丁度今は入院中の患者もいないし、暫くは京で過ごすことになるだろうから」
「寂しくなるなぁ……あっ、要!鞄忘れんなよ!」
「ああ、ありがとう幸太」
「へっへーん」


幸太は得意気な表情をし、要に鞄を手渡す。


要の医者鞄は彼女が世話になった人物から貰ったものだった。そしてこの鞄には元の持ち主の家紋が刺繍されている。


診療所を開院する際、鞄を譲り受けた人物の案でこれを診療所を特徴付ける印にした。


「大河、診療所をよろしくね。あと、暫くの間はあの薬を飲んで」
「分かってるって。…気をつけろよ、要。何かあったら」
「千を頼れ、でしょ?多分それは無理だろうけど」
「なんで?」
「千とわたしが最後にあったのはもう何年も前じゃない。わたしのことなんか覚えてないと思うよ」
「そんなことないさ、きっと心配してる」
「その言葉、そのまま返すよ」


要はそう意地悪く言ったが、当の大河は苦笑を浮かべるだけだった。千というのは大河の妹だ。要より少し歳は下だが、それにも関わらずしっかりした性格をしている。大河と千は何年か前に喧嘩別れし、それ以来会っていないようだ。


要は床に置いた鞄を持つと、大河と幸太、幸太に抱かれているあずきを抱きしめた。


「行ってきます」
「気を付けて、要」
「何かあったらすぐに文書けよ!」
「にゃーん」
「はいはい」


そして要は大河と幸太、あずきに見送られて京の街へ向かった。勿論これからの出会いが自分の運命を大きく変えることになるなんて、この時の彼女は知りもしない。







文久二年





要が二十歳になりたての春だった。











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