「…遅い」
「なー、ほんとに遅すぎだよな」
藤堂の隣で膝を曲げ姿を隠しながら要は不機嫌そうな顔で眉間に皺を寄せていた。これを不機嫌と言わずして何と言うべきなのか。出会って間もないが、初めて見る要の苛立ちように藤堂は苦笑いを浮かべていた。沖田は楽しそうに笑みを浮かべ此方を見ていたのだが、今の要にはそれすらも腹立たしい
「おっかしーな…誰かが伝令に出てる筈なんだけど」
長州の人間が会合を行っていたのは池田屋だった。つまり、ただでさえ少ない人員を割いて多めに割り振った土方率いる四国屋ははずれで、十人程度しかいない池田屋が当たり。その事実を四国屋にいる員に伝えるため誰かが伝令に走ったらしいのだが、会津藩や所司代の役人などの援軍が一向に来ないのだ。
「…流石にこれは遅すぎるな」
「近藤さん、どうします?これでみすみす逃しちゃったら無様ですよ」
「今回ばかりは私も沖田さんに賛成です。これ以上待っていれば敵を逃してしまうかもしれません」
永倉、そして沖田と要の進言に頭を悩ませる近藤。しかし本当に敵を逃してしまっては元も子もない。近藤は目を開けると、要の肩に手を置き言った
「市井くん、君は少し池田屋から離」
「申し訳ありませんがそれはできません」
要はそれをさらりとぶった切る。
「今の私は医者ですが補欠隊士の一人でもあります。貴方方が戦っている時にただ見ているだけなど出来ると思いますか?」
「…無茶はしないようにな」
「はい」
断固として引かない要にここ数日で諦めがついたのか、意外にも近藤は要の肩から手を離すと、意を決したように池田屋へ踏み込んだ。
「会津中将お預かり浪士隊、新選組。詮議のため、宿内を改める!」
近藤の高らかな宣言に宿内からは小さな悲鳴が上がる。その様子に沖田は面白そうな笑みを浮かべた。その声は弾んでいる
「わざわざ大声で討ち入りを知らちゃうとか、すごく近藤さんらしいよね」
「良いんじゃねえの?正々堂々名乗りをあげる。それが討ち入りの定石ってもんだ」
「自分をわざわざ不利な状況に追い込むのが、新八っつぁんの言う定石?」
「でもまあ、ネチネチ陰険に突入するよりかは、大胆な方が好みですがね」
沖田に続く永倉、藤堂、要の言葉に近藤の喝が飛ぶ。
「気を引き締めろ!…御用改めである!手向かいすれば、容赦なく斬り捨てる!」
そして激戦が始まった。襖が勢いよく音を立てて開けられ、座敷の中からは刀を持った藩士がうじゃうじゃと出てくる。
「じゃあ、あとでね」
「はい」
軽い口調で沖田と言葉を交わしてから、会話はなかった。隊士の数に比べ藩士の数はかなり多い。そもそも池田屋に割り振られた隊士は十人程度しかいないので、数を比べるのも意味のない行為としか思えないのものだが
「はい、次」
目の前にいる侍を刀一振りで斬り捨てる。四国屋へ向かった土方や斎藤、原田はどうなっているのだろう。しかし今はそれよりも二階で戦っている二人が気がかりだった。
(平助、沖田さん…)
彼等は二階で戦っていた。どうやらそこには一階の敵とは比べ物にならない位腕のある者がいるらしく、先程軽く会話を交わした永倉によると、藤堂は額を割られ、沖田は胸を突かれた結果として吐血したらしい。診断に行きたいが今はそれすらも不可能だろう
「はああ!」
考え事をしていた所為で注意力が散っていたのか、野太い掛け声で漸く背後の敵に気付いた要。振り返り刀を構えようとするが
(間に合わない…!)
そう思った瞬間、耳に届いた肉の切れる音。痛みは、ない。要のすぐ目の前で最早見慣れた浅葱色が翻った。
「怪我はないか」
「…さ、斎藤さん」
後ろから要の敵を斬ったのは、土方達と共に四国屋へ向かった筈の斎藤だった。何故此処に、と聴くのは愚問だ。恐らく誰かが伝令に走ったのだろうから。
「これは心強い応援だな!」
近藤の声が耳に届く。指示を出す近藤の声を聞きながら目の前の斎藤を見上げると、なんと彼のこめかみにはうっすらと汗が滲んでいた。まさか四国屋から此処までの距離を走ってきたのだろうか。永倉が普段通りの口調で斎藤に話し掛けた
「よう斎藤!悪いが美味しいところは貰っちまったぜ」
「ふん…今回は譲ってやる。市井、大丈夫か」
「は、はい。私は大丈夫ですけど…斎藤さんは大丈夫なんですか。汗かかれてますけど」
「平気だ」
「市井!」
二人の話に混じっていると、血塗れの隊士が一人、上の階から駆け下りてきた。隊士は自分が血塗れなのも気に掛けず要の名前を叫んでいる。
「裏に来てくれ、怪我人がいるんだ!」
「!!」
怪我人。
その言葉に要は裏庭へ向かおうとするが、ふとその足が止まる。否、止められた。傍にいた斎藤が彼女の腕を掴んだのだ。どうしたのかと要は斎藤を見上げる。何か言おうとするがなかなか言葉が出てこないらしい。しかし要は腕を振り払うことはせず、ただ斎藤が話すのを待っていた
「市井」
「はい」
「…気を付けろ」
「…ありがとうございます。斎藤さんも、お気を付けて」
斎藤の手が離される。それと同時に要は血塗れの隊士を追って裏庭へと駆け出した。
「要!」
裏庭には原田が屈んでいた。彼の足元には三人の隊士が倒れている。要は駆け寄ると脈を測った。しかしその内の一人は既に息を引き取っていた。悔しげな表情で原田は要を見る
「安藤と新田だ。頼めるか」
「…ああ」
要は頷く。この出血量ではかなり厳しいとも言える容体だが、要は決して首を横に振りはしなかった。何もしない内に諦めるのは要が最も嫌うことのひとつであり、少なくとも二人にはまだ息がある。だから
「助けて、みせる」