警察と名乗った男性は胸元のポケットから黒い手帳を取り出しわたしに見せた。そこにはその人の顔写真と、警察のマーク。

「な、にか、御用ですか…?」

警察官に恐る恐る尋ねる。わたしは何かしたのだろうか。それとは別に、もうひとつ最悪の展開が頭を過る。

(まさか、わたしじゃなくて)

警察官が次に発した名前に、耳を塞ぎたくなった。

「此処に西丈一郎という少年はいませんか」
「…」



「名前?どうし…」

なかなか戻ってこないわたしを不審に思ったのだろうか。部屋の中から聞こえてきた声に、そしてその足音に、わたしは手で口元を押さえたまま振り返る。来ないでお願い、出てきちゃ駄目。そんな願いも虚しく、西くんは部屋の奥から姿を現した。彼の視線がわたしに向けられ、続いて警察官に移る。彼は焦ることも逃げ出すこともせず、無表情で警察官を見つめていた。

「西丈一郎くんかな?」
「…だったら?」
「君を連れ戻すように言われているんだ。帰ろう、お父さんも心配されているよ」

警察官が話している言葉はほとんど耳に入らなかったが、まとめるとこういうことだった。西くんは東京に住んでいる高校二年生で(まさかわたしより年下だとは思ってなかった)、あの政治家の西さんの息子さんらしい。しかし西くんはある日突然姿をくらました。捜索届を出そうにも政治的な問題を危惧して、西くんのお父さんが秘密裏に警察を動かし西くんを捜していたという。

そして西くんが隠れ処として選んだのが、わたしの住むアパートだったということ

「名前」
「っは、はい」

西くんは床に座り込んだわたしを見下ろしながら、驚愕のことばを口にした。

「名前が行かないでって言ったら、俺は此処に残るよ」
「丈一郎くん!?」

警察官は驚きの声を上げたが、わたしは彼ら以上に驚いていた。

どうしてわたし?だってわたしは西くんにとって何でもない存在で、ただの利用しやすいばかな女で。それだけでしかなくて。

だから、わたしに西くんのことを決める権利なんてないから

「…か、帰った方が、いいよ」
「…」

わたしは西くんの顔を見ずに口を開く。

「お父さんが待ってるんだもん。お、おかあさん、だって」
「いない」
「…え?」
「ママは、死んだ」

それだけ吐き捨て、西くんはわたしを一瞥する。その目は、今まで見たことのないくらい、怒っていて、それでいて悲しかった。

「俺のこと迷惑だったんだ。やっぱり」
「ち、ちが」
「おまわりさん、もういいよ。行く」

西くんはハンガーに掛かっていた制服を、その辺にあった袋に乱雑に放り込む。そして座り込むわたしを通り過ぎ、警察官のいる、開け放たれた扉の前に立った。見慣れた白い扉。端には普段鍵を隠してあった鉢植えが見える。

「名前」

西くんがこちらを振り返った。逆光で彼の表情はよく見えない。

「俺とセックスした時のこと、覚えてる」
「…え?」
「初めてした時もそれ以降も、名前にキスしたことはなかった」

なんでだと思う、と聞く西くんの声が、何処か遠くで鳴っているような錯覚を覚える。そうだ。疑問に思ったことは何度かあった。キスよりもっと凄いことをしているのに、その最中で彼がわたしのくちびるに近づくことは一度もなかった。これまで、そう、一度も。

西くんが靴を履きながら、こちらを振り返ることなくただ話し続ける。

「居候する代わりにいっこだけ願い事聞くとか、そんなのどうでもよかった。ただ、名前が嫌がるのが、嫌で」
「…どうして」






「名前のこと、好きだから」









その言葉を最後に彼は此処を去った。ぱたん、と扉が閉まった瞬間、わたしはその場で泣き崩れた。わたしは彼が、西くんのことが好きだったのだ。そして彼もわたしを好きだと言ってくれた。なのに今更もう遅い。彼はもういない。

創世記の記述によると、アダムとイヴが管理していた土地をエデンの園というらしい。彼らはそれを管理するためだけにそこにおかれ、そして園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。そこで彼らは掟をやぶりその実を食べ、性を認識し、愛し合い、怒った神に追放させられた。

アダムとイヴはふたりでエデンの園を壊した。でもわたしたちは違う。このエデンを壊したのはほかでもない、わたしだったのだ。














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