昨日。あんなことがあってから、西くんとわたしは一言も喋ることなく床に入った。夕飯時には向かい合って座ったが会話は全く無し。
そして次の日。つまり今日。すなわち今。わたしは部屋の扉の前で立ち往生している。
(昨日あんなに気まずかったのに、今日いきなり普通に接する自信がない…!)
しかしいつまでもこんなことをすり訳にはいかない。ごくりと唾を飲み、ばくばくと煩い心臓を抑えながらわたしはドアノブを回した。
「た、ただいまー…」
小声で。今まで出した声の中でも最小の部類に入るレベルの小声で、わたしは部屋に入った。電気が付き、台所から何やらいい匂いが漂っているということは、つまり今日は西くんがどこにも出掛けていないこと。
(普通に、普通に、普通に、西くんに「ただいま」って言ったら、大丈…)
「おかえり」
「わ―――っ!!」
「…」
わたしは思わずびっくりして飛び上がった。だって、てっきり台所にいると思ってた西くんが、わわわわたしの、私のすぐ後ろに!
「…大声出すな。うるさい」
「ご…ごめん、なさい…?」
わたしは頭を傾げながら西くんの顔を見た。いつもと変わらない、少し不機嫌な表情。
「謝んなくて良いから、ちょっとどいて。鍋焦げる」
「えっ、…あ、はい!」
西くんの言葉を理解したわたしは勢いよく壁に張り付き、彼が通れるように道を作った。西くんは軽く掛けて行き、しばらくして、火を止めるカチッという音が聞こえた。
(…西くん、普通だ)
西くんの態度が普段と何も変わらないことに少なからず驚きながら、何故かわたしは食事の時に座る椅子ではなく、いつも彼が寝ているソファに腰を下ろした。
「名前?」
(そうだよね…別にわたしたち恋人同士とかじゃないし、そこまで深く考える必要無かったのかも)
「おい」
(それにしても西くん、気持ちの切り替え早いなぁ…あれ、まさかわたしが遅いだけ?いやいやいや、そんな)
「聞いてんのかっ」
「はっ、はい!ごめん聞いてなかった!」
どうやら西くんはわたしにずっと話し掛けていたらしく、後ろから彼の声が聞こえたわたしが慌てて振り返ると、そこには溜め息を吐く西くんの姿があった。
「ぼーっとしてんな」
「ごごごごごめんなさい!あ、わたし邪魔だったよね!?今どくから、」
「別に邪魔じゃない。あと、もうあの人とは話つけてきたから」
「え、」
話、あの人。と言われれば話の内容は昨日のことしかない。話をつけてきたということはつまりその、援交紛いなことをやめたと
「…そういう意味で受け取ってよろしいんでしょうか?」
「どういう意味だよ」
「だから、…もう、そういうこと、しない?」
「…そういう意味で受け取っていいよ」
「!」
すると ぽん、と西くんの手が私の頭に置かれた。と思ったら、ぐしゃぐしゃと掻き回された。
「う、わわわわわ」
「名前 今、鳩が豆鉄砲喰らったような顔してんぞ」
そう言って西くんはニヤリと笑ったが、私は実際にそんな光景に出くわしたことがないため上手く想像が出来なかった。
というか、それよりも
(いま、 西くん 、 笑っ )
西くんが笑った。