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ほぼ反射的に身体が動いた。下から斜め上にすくい上げるようにして、頭を振る。一閃。袈裟切りの要領で、目を閉じたまま動いた。びしゃ、と温かい飛沫が瞼を濡らして顔をしかめる。嫌なにおいだ。しかし、どうしてだか、もう一度嗅いでみたいと思った。

そうして真っ赤に染まった、ポケモン“だった”何かを見て、枯れ果てたと思っていた喉が、絞り出すような咆哮を吐き出した。いや、嗚咽だったのかもしれない。

空っぽの胃袋から幾度も幾度もこみ上げる液体を口から滴らせ、うずくまる。さきほど蹴られたせいだけではない脇腹の痛みと、生理的な涙。

きもちわるい。顔にこびりついた血でもなく、目の前で微動だにしない肉の塊でも、後ろで甲高く笑っているヒトでもなく、自分自身が。血の匂いの中に仄かな快感と喜びとを見出してしまった、この他でもない自分が、きもちわるい。

それでも、薄暗い誘惑には耐えられなかった。次々とやって来た動くものは、もれなく真っ赤に染めてやった。生暖かい返り血を心地よいとすら感じ、もっともっとと足が動き、双眸が血走り、鮮血を求めて鼻を鳴らす。牙が肌を食い破り、じゅわりとあふれ出る血を嚥下する瞬間に、興奮で背筋が粟立つ。逃げる標的を捕まえ、抑えつける瞬間は、目も眩むほどに甘い時間。


何度も何度もそうしているうちに、ヒトは切ってしまうとあとで罰が与えられることをなんとなく学んだ。痛みを与えられることには鈍感になっていたが、ヒトのだみ声が気に食わなくてすぐに人に牙を向けるのはやめにした。だいたい、さしたる抵抗がなくてつまらないのだ。なんとその生命力のひ弱なことか。そのくせ口だけは良く動くし群れれば強いと思い込んでいる。

呆れたものだが、その人間に快感を提供されていることもまた事実。利害の一致だと、そう思い込んで従順な狂犬のふりをする。実際、動くものを追い詰めて血染めに仕立て上げることしかやりたいことがなかった今の自分にとって、他のことは興味の範疇外だった。返り血を浴びることで生きていると実感できたし、それ以外では何も感じられないようになっていたのだ。

今までずっと、冷たいものばかり与えられてきた。
冷たい水に冷たい視線、冷たい床、寒い寝床、重く体温を奪う枷。

そんな時、いつも自身を温めてくれたのは、他でもない自分自身の血潮だ。
血脈は凍らない。生きている限り。それが温かいことは、命があることの証明。浴びても浴びてもまだ足りない。渇望するのは温もり。命を浴びて、温かみを蹂躙する。やがて冷えた肉塊に触れ、温度差を感じたときにも、自分は生きているのだと実感できる。


そうして、幾日もの日々を過ごし、月は何度も満ち欠けを繰り返した。浴びた血の量など覚えていない。ただ、どこを壊せばよく血が出るのかはなんとなく把握できるようになったし、力でごり押しすれば向こうがすぐに動かなくなってしまうことに、多少のつまらなさを覚えたりはしていた。蔦で相手の動きを封じることも、最近はやっていない。本来使えなかったはずの技が使えることに対しては、ああ眼のせいかと結論付けた。

いつしか自分が、暴君などと呼ばれていることには気づいていたが、他者からの視線などどんな温度であっても気にしない。ヒトからネロと呼ばれる暴君になった自分は、今も求めているものに変わりはないのだから。

今日もまた闘技場へと引っ張られ、固い地面に足をつける。錆びた金属の匂いがそこかしこでするのは、この場に流された血の多さのせいか、それとも、自分の鼻腔からこびりついて離れないだけか。鮮血を求めて体毛が逆立つ。

いくつかの身体を切り刻んで足の裏でぐずぐずになった肉を踏みしめていた時、そっと、自分の頬に何かが添えられた。温かい何か。けれど、液体ではない。ずるりと、それは力をなくして地面に落ちた。最後の一撃を食らわせようと、力を振り絞って自分の顔を狙っていたのかもしれない。結局は触れるだけに終わってしまったわけだが、その感触があまりにもやわらかで、優しくて、それが地面に落ちて一度微かに跳ね、落ち着くまでが、スローモーションで両目に焼き付いた。

どうしてそこに、どうしようもないくらいにぎゅっと詰まった温かみと切なさを見てしまったのだろう。処分される歪なものたちと、処分する側の自分。互いの間に面識はなかった。むしろ向こうからすれば自分は恐怖と憎悪の対象だったに違いない。それを十二分に理解していても尚、頬をかすったものに温かみを感じてしまった。ずっと焦がれ、求めていたものがあの刹那だけ、手に入った気がして、たまらない。欲しかったものは温もりだ。間違いなく、温もりが欲しかった。だというのに、同じ温度でどうして血飛沫よりもあの生き物の身体は温かかったのだ。

ほしい、ほしい。あれがほしい。頬を擦りつけ鼻を鳴らしても、どんどん力なく倒れ伏した肢体と自分との体温差は増すばかり。

ほしい、ほしい、くれよ、どうして、どうして、おなじ、おなじおんどのそれがほしい。ずっとほしい。ふれてくれ。あたたかいそれで、そっとふれてくれ。つめたいのはきらいだ。くれよ、ほしいよ。

…どうして。

今まで触れてくれなかったくせに。温もりなんて、分け与えてくれなかったくせに。どうして今、ここにきて。もう自分で奪うことでしか、温もりなんてもらえないと思っていたのに。どうして、皮膚越しに与えられた温もりは、泣きたくなるほど儚くて、どうしようもなくやさしいのだ。


『…あ、あ、…あァ』


どうして今も自分は、温もりが欲しいと思っているのだ。冷たい環境になんて慣れっこだったのに。早く死にたいといつも思っていたのに。どうして、生きていることを実感したかったんだ。血飛沫に求めていたものは何だ。動くものを追っていたその心は何を欲していたんだ。自分の心が自分でわからなくて、血に塗れた思考では考えることが疎ましい。


『あああぁ、アアアアアァァ!!!!!』


だから、やめた。かんがえることもみることもかんじることもぜんぶぜんぶやめた。やめた。
やめてさけんではきだした。

憎悪という憎悪。切望という切望。
吐いても吐いても足りなくて、何度も何度も吐き出した。

きもちわるくてきもちいい、肉塊の生温かい感触と、長い首元の毛を濃く染める粘着質の液体が愛おしくて疎ましい。触れたくて触れて欲しくて、求めたものは得られずに。

考えないことが、結局一番きもちいいのかもしれない。

真っ赤に染まった視界でがむしゃらに身体を動かして、狂ったように、いや、狂っている俺は、歪に丸く切り取った寒空に煌めく星を見た。考えるのをやめたのに、きれいだと思った。自分の心にも、歪に穴が開いているのが見えたけれど、星は見えなかった。生暖かく赤黒い、どろりとしたものの中に沈んでいる心は奥底に横たわっていて、外気に触れれば冷たいからと、同じ温度の中で微睡んでいた。決して温まることの無い場所で、いつまでもいつまでも、同じ夢を見ていた。






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