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疼くような激しい痛みに内部を突き刺されて呻く。視界が赤黒く染まっていて、自分が今、目を開いているのかさえうたがわしい。拘束された前足を引きずって舐め、湿らせた毛で顔を擦る。ぽろ、ぽろ、と小さな黒い塊が剥がれ落ち、真っ白な足は拭った部分を中心に仄暗い色に侵食されていた。つきり、と頭が痛んだのを引き金にして、より一層身体は痛みを訴えた。全身を岩に打ち付たような衝撃に、朱のまじった涙がにじむ。

太陽が高い位置にある。頭を動かすことすら出来ずに上目で空を見る。風の冷たさに身を震わせていたら、唐突に目の前が暗くなった。影が差したのだ。

「えーい!」

無邪気で甲高い声がうるさく響いて、瞬間、心臓が鷲掴みにされたかのようだった。真冬の、凍り付いた岩の塊に、心臓だけを置き去りにされたような。毛皮が重たく、地肌が粟立つ。冷たい川の水が、頭の先から爪の先まで降りかかり、冷えた血液が身体中を駆け巡った。身体を震わせて水気を追い払う気力、体力も、残っていない。

「びしょぬれだ、びしょぬれだ!」
「えー、かわいそうだよぉ!」
「かあちゃんに言われたじゃんか!こいつは悪魔だって!だからいいんだよ!」

大きな人間たちと違って、悪意のない声が、今はひどく怖い。もう水の入っていない容器を振り回しながら、ふたつの小さな足音が去っていった。甲高い声がそれに伴って小さく、薄いものになっていく。

どうして、自分がこんな目に。何もしていない。噛みついていない、睨んでいない、引っ掻いたりなんて、していない。何も、人間に対して悪いことはしていない。
どうして、どうして。誰も助けてくれない。誰もあたたかくない。冷たい。寒い。いたい。くるしい。




寒さのせいではない悪寒がして、唐突に目が覚めた。そうして、自分がまたいつの間にか目を閉じてしまっていたことに気付く。乾ききってない重たい毛皮は、ないよりは幾分かましなのだろうが、それでも冷たい。
半分だけになった視界で空を仰ぐ。目が開いていないのかと思い足先で軽くこすると激しい痛みがやって来たので、そうだもうこの目は使えなくなったのだ、という結論に達した。それに関してどうという感慨もなかった。ただ、視界が狭い。それだけのことだった。
澄んだ空気に満ちた寒空には、いくつもの星がちりばめられていたが、月は出ていなかった。

どうやら、自分の命はまもなくここで尽き果てるらしい。最期の場所くらい自分の意思で選びたかったが、人間どもに殺されないだけずっとマシだと思った。このまま夜更けまで、誰もここに来なければの話だが。わざわざ早起きしてまで鉈や鍬で殴ってくるもの好きもいないだろう。

目が覚めれば暴力、目を閉じていても暴力で目が覚める、そんな日々をもう何度繰り返したことか。考えることすら億劫になっている今となっては、時間の感覚というものがまるで麻痺してしまっていた。目が覚めるのは朝日の差すときであり、薄暗い雨の降るときであり、夜の帳が迫る夕暮れであり、しんしんと雪の降る夜であった。目を閉じている間に、空に何が、何回現れたのかを知る術はない。太陽が二回昇ったかもしれないし、一度沈んだだけかもしれない。最近はよく、冷たい雨が降っていた気もするが、もう、そんなことはどうでもいいのだ。


目を閉じ、前足に顎を乗せ、静かにうずくまる。本能的に立ち上がりそうになった身体を、頭の重みでぐっと押さえ込む。いくら本能が、動けと、知らせよ、叫べと、命令していたとしても、自分の意思は逆向きのベクトルの上に乗っている。それに、知らせるべき対象から散々に痛めつけられた四肢は、歩くことさえままならない。

どれくらいそうしていただろう。地の底から、かすかに、囁くような振動。それから、突き上げてきた大きな揺れと、響き渡る大地の咆哮。それは、下からも、上からも、圧倒的な質量を伴って轟音と共に辺り一面に降り注ぎ、地面を掻き乱す。

土煙に噎せて鼻を鳴らす。口で息をすれば赤色混じりの唾液が滴り落ちた。野ざらしにされている身体にも、容赦なく崖の上から崩れた土砂はやってくる。ひときわ大きな岩が、頭上に影を作る。顔を上げる気力はないが、暗闇になれた今なら、風を切って巨岩がのしかかろうとしているのが察知できた。ふと視線を下げれば、重たい鉄の枷がついた前足の上にも、尖った岩が落ちていた。先端が足の甲に食い込んでいたのに、今まで気づかなかったのは、痛覚という痛覚が既に閾値を越えていたからだろう。それとも、寒さで感覚がないだけなのか。前者であるようだとわかったのは、流れ出た血が生温かいと感知できたからだった。
心は、吐息とは裏腹に冷たく凍えていた。次に目を開けたときは、ここよりもあたたかいところがいい。そっと願ったそれすら叶いそうになくて、それでも、願わずにはいられなかった。


こうして、テンガン山の山間にある小さな村は、夜明けの明星を見ることなく地震による土砂で一切合切、埋もれてしまった。藁ぶきのもろい建物も、霜の降りた田畑も、人も、草木も、ぜんぶぜんぶ。

予知できたのは、ただあの白い獣のみ。その獣も今は、村と運命を共にし、瓦礫の中で静かに瞳を閉じていた。もう誰も、暴力を振るってくることはない。唾を吐きかけてくることもない。災いをもたらす存在だと、恐れ敬う者もいない。憎んだ村と同じ道を辿ることが、皮肉にも、彼に平穏をもたらしているのだった。知らせないこと、本能に、抗うことは、彼なりの些細な復讐であり、人間が自ら招き入れた災いであった。







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