(2/6)

風にさらわれた細かい岩の粒子。それを生み出している切り立った崖からは、時折ぱらぱらと小石が落下し、あるものは砕け散り、またあるものは眼下に映る急流の中に、波紋さえ残すことなくさらわれていく。

幸い雪が降っていない今ならば、高い所に来れば容易に探し出せるかもしれないと思ったが、そうでもなかった。目を凝らしても、見つけることができない。不意に突きさすように冷たい風が吹いて、そうだ風下に行こう、と思いつく。側にいるのが当たり前だった、安心する匂いを求めて、夜空色に染まった爪が岩をがっしりと掴んだ。そのまま跳躍できる、はずだった。

あっけなく崩れた足元の岩。先ほどまでは何ともなかった地面には、跳躍の圧力に耐えられずに蜘蛛の巣状のヒビが走っている。風化した岩が跳躍の衝撃に耐えられずに崩れたのだと気づいたときには、もう遅かった。身体は宙に投げ出され、足は空を虚しく掻いた。

それからは、全てがスローモーションの世界だった。澄み渡る青い空、ともに落下していく岩の破片。土埃や落ち葉にまみれた、もとは純白であった自分の毛並み。
身体の中だけ崖の上に置いてきてしまったような、気持ちの悪い浮遊感に襲われた。
そして、最後に見たのは、岩にぶつかって白く泡立つ激しい水流。身体を芯から蝕む、凍てつく温度。

視界が、洞窟の奥にいるときよりも、ずっとずっと真っ暗になって、その暗さに酷いめまいを覚えた。もがけばもがくほど、鼻からも口からも水が容赦なく侵入し、水を吸った毛皮は重りとなり、身体を水底へといざなう。がぶり、と大きく水を飲み込んで、内臓が凍るような冷たさにぞくりとした。爪は岩にも水底にもかすらず、激流の中ではろくに泳げもしない。四肢は言うことを聞かないせいで、そこら辺にある棒切れとさして変わらなかった。

そして…そして、その後どうなってしまったのかは覚えていない。



次に目を開けたとき、全身が鉛のようだった。
特に四肢のだるさは、大きな岩でも乗せられていると錯覚するほどだった。うっすら開いた眼で、冷たく重厚な足かせが付けられていることが原因だと見て取れた。細く白い足にはおよそ似つかわしくない、鉄の塊だった。

『おかあ、さん…?』
「おい、目を覚ましたぞ!」

突然、聞きなれない野太い声が耳に触り、びくりと身体が震えた。本能的に恐怖を感じ、ぎゅっと身体を縮こまらせる。遠くに山が見えることから、どうやら自分が麓の方まで流されたらしいことはわかった。
全身の筋肉が引きつるように痛い。生きているだけでも、僥倖なのだろうが。身体はまだ濡れていて、首元の豊かな毛並みからはとめどなく冷たい雫が滴り、地面を濡らしていた。ぶるぶると身体を震わせて水気を払うが、当分乾きそうにはない。

「まだ子どもでねえか」
「子どもだから今のうちに始末した方がええんでねか!」

何やら言い争っているようだ。人間に捕まってしまったら、あまり良いことはないとお母さんが言っていた。自分たちは、時として勘違いされ、迫害される種族だから、と。俺の種族は、人が普段立ち入らない切り立った崖や険しい山岳地帯を好んで生活しているが、それは人との距離を置きたいがための定向進化なのかもしれない。

災いをもたらすと忌み嫌われているために、いわれのない迫害を受けることが少なくないことは、自分より幼い仲間たちでも知っていることだ。そして、それは、我が身にも例外なくあてはまることだったと、身をもって思い知ることになった。

突如、頭に感じた熱。それはもう、言いようのないくらいの熱さで、頭の中が沸騰しそうだった。くらり、と平衡感覚を失って、ざらざらの地面に頬を寄せる。熱が引いたかと思えば、地面とは反対側の頬に、ぬるいものが伝う感触。口の中まで流れ込んできたそれが、鼻腔を嫌なにおいでいっぱいにする。口の中は、金属を舐めたような味がした。いっぱいに広がってむせ返り、咳き込む。吐き出して地面を染めた液体は、己の瞳の色によく似ていた。先に地面を浸食していた水に混じった血は、素早く吸い込まれて砂を赤黒くにじませた。

何度も何度もむせて、鼻につくにおいが嫌で身もだえるが、頭が重たくて思うように動けない。口の中と同じ味がする足枷に噛みつくが、びくともしない。じん、と牙の付け根が痛んだだけだった。


「こいつ、まだこんなに元気で…!」
「なら囮にして親でも仲間でも呼んじまうとええ。まとめて片付けた方がええが」


もうろうとした意識の中で、自分を殴った人間たちが何かを言っていたが、うまく聞き取れない。ただ、はじめの頃より人数が増えていて、言い争っているような雰囲気だけは伝わってきた。結論がどうあれ、自分にとって良いことは何一つ起こらないと、直感が伝えていた。

しかし、こちらに気を取られていないのはいい機会だ。そう思って起き上がろうとしたところで、もう一発衝撃が来て、目の前が真っ赤になった。
うめき声をいくらあげても、泣き叫んでも、ただ衝撃が、腹に、頭に、足に、容赦なく叩きつけられるだけだった。口の中には鉄の味と、じゃりじゃりとした砂の感触、それから生ぬるい血。

どこにも、労わって、慰めてくれる温もりなど、ありはしなかった。守ってくれる存在など、現れてはくれなかった。

激しい痛みに支配された感覚の中で、足枷が自分の体温でぬるくなっていることだけは、なぜだか感じ取れた。ひたすらに、温もりというものに縋りたかったからかもしれない。その些細な感覚すら、何度目かもわからない腹部への衝撃によって、跡形もなく霧散していった。目からこぼれた雫の色を見ることなく、まぶたが現実を、痛みを、拒絶した。






[戻る]
- ナノ -