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この施設の連中のことなんかちっとも好きじゃないのに、俺らの姿は人間を信頼したその先の力をもつものだった。進化した時、いや、進化させられた時は絶望した。どうしてここで、このクズどもの前で、尻尾を振るような進化を見せなきゃならないのか。わけのわからない薬を使った無理やりの進化とはいえ、それが本来懐き進化であるべきだと知っていたから、余計に衝撃は大きかった。進化の石の方が、まだマシだった。

だが、そんなことはもうどうだっていい。進化して力が強くなったことは事実だ、そして、その進化を施したことによって、ここのクズどもは俺らに翻弄されている。本当に、いい気味だと思った。


無我夢中で走って、気づけばどこか知らない森の道、そのど真ん中で仰向けに倒れていた。たった1人で。
全身がギシギシと悲鳴を上げている。やがて酸素が行き渡った脳の中に理性が帰ってきた。しかし森にたどり着くまでの記憶は帰ってこない。一体どうやってここまでやって来たのだろう。起き上がる気力も体力も無い。何もかもがどうでもよかった。


「空が、青い」

憎らしいほどにさっぱりとした雲ひとつない青空を見て、最後に見た姉貴の笑顔がフラッシュバックした。黎明を越えたその先でしか、見られない空。目を閉じても突き刺さる陽光、髪を揺らして過ぎ去っていく風。
どれもこれも、憧れて、恋しいと思っていたはずなのに、どれもこれも、くすんでいた。

「無理、だろ」

俺だけ生きろ、だなんて。普段の軽口や悪口の報復にしては、残酷過ぎる仕打ちだ。生まれたときからずっと一緒で、片時も離れたことがなかった俺に対して、あっさりと。
施設にいたときの方がまだましだったと言ったら、姉貴は怒るだろうか。多分、俺を殺す勢いで激怒するだろう。

「ひでェ姉貴を持っちまッた」

俺に、姉貴の分まで生きろっていうのかよ。やってられッか冗談じゃねェ。一度歪んだ思考回路は、ひたすらに意味もなくぐるぐるとまわりだす。

また会いましょう。

脳内で最後の言葉がよみがえる。会うっていつだよ。いつ会えンだよ。また会おうって心に誓った筈なのに、それを自分で嘲った。……矛盾してるか?別にいいだろ。やがて思考回路は辿り着きたくも無いところまでやってきた。

姉貴、生きてンのか?
姉貴はあの施設の連中が言うところの“成功例”だから、殺されはしない、はずだ。だが、無傷でやんわりと取り押さえられる、なんてことは間違いなくないだろう。今頃強い麻酔や鎮静剤にどっぷり付け込まれているはずだ。

虚ろな瞳を思い出して、心がざぶりと氷水につけられたような感覚に陥った。あンなの、生きてるッて言わねェだろうがよ。

生きて、だなんて、そんなこと言っておいて、自分は死ぬ気だったクセに。命懸けで追手をおさえていたクセに。

俺だけ生きていても、何ら楽しいことなんか無いに決まってるじゃないか。一緒に逃げようって言ったのに。ハナッから諦めてたのかよ。まじでバカじゃねェの姉貴。姉貴にあたっても無駄だとわかっているのに、ひっきりなしに姉貴の悪口を言っていなければいつか気が触れてしまいそうで怖かった。
あの忌々しい牢獄の中で送る、痛みに満ちあふれた日々の中で、姉貴が一緒にいることだけが生きる意味だったのに。

何で側にいてくれないンだよ。俺だけ帰ッたってしょうがねェだろ。
自分たちを、あの少女は探しているだろうか。もう声すら思い出せない小さな女の子。俺だけ帰ったら、怒るだろうか。それとも、もう俺たちのことなんか忘れてしまっているのだろうか。

「……ずっ」

呼吸が苦しくなって、無意識に鼻を啜ったことにより、やっと自分が泣いていることに気づいた。重い手で頬に触れると、確かに生ぬるい感触。涙なんかとうに流しきってしまったと思っていたのに。

「…ぇぐっ、ひっく……」

泣きながら見た空はぼやけていても、やっぱり綺麗だった。
姉貴と一緒に見たかった。


その後のことは、よく憶えていない。そのまま眠ってしまっていたのかもしれない。どのくらい時間が経ったのか。気づけば目の前に、銀色がいた。

「生きろ」

差し伸べられた手を、迷わずとった。
姉貴にまた会えるのなら、なんだってする。悪口も謝ってねぇし、助けられっぱなしで、俺だけ逃げ出したんじゃ、寝覚めが悪すぎる。それに、殴るって決めた。

姉貴が死んだかどうかなんてうじうじ考えるのはバカのすることだ、と笑われた。言われた時はブチ切れて殴りかかりもしたし、未だにソイツとは顔を合わせる度に喧嘩になる。本当に鬱陶しい。
でも、その通りだ。探し続けていれば、いつか絶対に見つけ出せる。

差し伸べられた手をとって正解だった。マスターには感謝している。命の恩人だし、仲間にも囲まれて、今の俺は幸せ、なのだろう。

……ひとつだけ不満があるけれど。
でもそれは理不尽な不満で、口にしてはいけないのだ。誰にもどうすることの出来なかったモノだから。
なぜなら彼は、俺にしか、手を差し伸べてくれなかったから。もう少し早く、マスターに会えたら。何度もそう、考えた。そうしたら、俺たちが連れ出される前に、マスターは助けてくれたんじゃないか。施設に乗り込んできてくれたんじゃないか。そんな、誰にも言えない小さな不満を掻き消すように、俺はただひたすらに姉貴の姿を追い続けた。まだ間に合うだろ、クソ姉貴。





ほら、間に合った。
手のひらに伝わる、幾分か艶のないやわらかな髪の感触と、鼻に容赦なく入り込んでくる磯の香り。口の中がしょっぱくて、でも、それが涙なのかそれ以外なのかは、わからなかった。ただ、手のひらに伝わる感触だけが、俺の唯一だった。唯一、探し求め続けていたものだった。

たくさん話して、たくさんの世界を、今までの時間を埋めるために見せてやって。
それから、……そうだ。一発、殴るンだったな。

朝焼け色の瞳には、満足げな自分の顔が映っていた。



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