がなりたてる刃‐06 

驚いて一歩のけぞった拍子に、シャワールームの扉に背中をぶつけた。したたかに打ったにもかかわらず、視線が目の前に釘付けになっているせいで、痛みを感じることはなかった。

「ほほほっ。生きておったようじゃな!狭間の仔よ」

泉雅さんがわたしのことを“狭間の仔”と呼ぶのは、わたしが半分人間で半分ポケモンだからなのだと、今更ながら、このとき初めて理解した。妖艶な笑みを湛えて薄く開いた唇から、チラリと鋭い犬歯が覗いている。少し伏し目がちな暗い緋色の瞳が、えもいわれず色っぽい。

「ま、またどこかに飛ばすんですか?」

できることならあんなことはもう御免だ。あれではいつ黄泉に逝ってしまうかわからなくて危なっかしい。泉雅さんは底意地の悪そうな笑みを貼り付けたまま、わたしをじっとりと見つめている。薄暗い鏡の向こうで、やけに双眸だけが鈍い光をたたえていた。

「余とて御免じゃわ。あのようにエネルギーを使うことなぞ…今回来たのは別の件じゃ」

一旦言葉を切った泉雅さんは、ふむ?と小首をかしげてから再び口を開いた。

「いや、別の件とは言えぬか…狭間の仔よ、お主は余に恩義があるじゃろうが」
「え、あ…はい…」

疑問文なのに断定するような口調が、泉雅さんらしい。確かに、こちらの世界に連れてきてくれたのが泉雅さんなら、家のあるカノコタウンまで飛ばしてくれた上にモンスターボールやキズ薬を用意してくれていたのも、泉雅さんだ。恩義がないはずがない。なのに、素直にうなずけないのは、いや、うなずいたらいけないような気がするのは、彼女が今まで見てきた中で一番の、底意地の悪さ全開な笑みを湛えているからだ。相変わらず見た目にそぐわない表情ばかり浮かべている人だ。ポケモンの擬人化年齢というのは、あてにならないということだろうか。

「恩には恩で、報いるというのが礼儀じゃろう?」

…ああ、これはもしかしなくても恩義の押し売り。言い方は悪いが、飛ばすだけ飛ばしておいて…それですか。彼女の笑みからして、わたしに良いことがなさそうな線が限りなく濃厚だ。しかし、この世界でひよっこ同然のわたしに何ができるというのだろう。旅を始めたばかりでポケモンバトルも下手だし、知識だってあまりにも足りないというのに。

「何をすればいいんですか?わたし、まだこの世界のことはよく…」
「ほほほっ!なに、お主の損になることではないわ!」

高らかに笑う泉雅さん。琳太と九十九が起きてしまわないかと思ったが、ベッドの方からは何も聞こえてこなかった。それよりも、わたしも損しない、という言葉が以外で気になった。

「え?」
「お主、失礼なことを考えておったな」

否定はできない。どれだけこきつかわれるんだろうかと気を揉んでいたのだから。だが、そんな心配は無用だった。ごめんなさい泉雅さん。疑ってました。心の中で素直に頭を下げた。現実でこうも素直に謝罪するのは、後が怖いのでやめておく。ただでさえ貸しがある状態にさせられているのだから。下手なことは言えない。

「ふむ、まあ良い。いずれ余の手となり足となる日が来るわ。…そのために、狭間の仔よ、強くなれ」

やっぱりこきつかわれるんじゃないか!!
言い返そうとした時には、すでに鏡はわたしの顔を映していた。鏡の向こうのわたしがため息をついている。泰奈と龍卉のこと、聞こうと思っていたのに。肝心なことは何も聞けないまま、一方的に立ち去られてしまった。わたしも鏡の向こうに接触できないかなあ。そうしたら、色々便利だろうに。

強くなれ、か。

強くなるのは確かにわたしの目的だ。チャンピオンロードに行くことや、ポケモンバトルを通して絆を深めていくことが大きな目標になっている。そして目下の目的は、九十九がポケモンバトルできるようになること。というか、九十九の臆病さが、少しでも前向きな気持ちに変わること。その手助けをする。それと、わたしがもっとうまく指示を出して、スムーズにふたりの力を引き出してあげられるようになること。でも、泉雅さんの言った“強くなれ”は、わたしの考えているそれよりも、更に上にある気がした。

強くなるって、なんだろう。

明日は朝いちばんにカラクサタウンを出て、サンヨウシティへ向かおう。悩んだって仕方ない。ストレスでお腹が痛くなりそうだからいいことなんてないし。

何をしに洗面所に来たんだっけ。そうだ、歯を磨きに来たんだ。用事を終えてそっとベッドに戻り、眠たい目を擦って横になる。琳太はわたしが撫でても起きなくて、ゆっくりとした息遣いだけが部屋に響いていた。ちょっとしたシーツの擦れた音すらも、大きく聞こえるような空間。その空気に溶け込むようにして、ゆっくりとわたしの瞼が下がっていく。枕元の明かりのスイッチを押した感触を最後に、わたしは眠りについた。夢を見たかどうかは、覚えていない。でも、少し息苦しい感覚が、心に張り付いているような気がした。






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