ローズマリーと子守歌‐04 

「琳太、たいあたりってまだ使える?」
「ん……使えるかもしれないけど忘れちゃったかも」
「なんで忘れちゃったと思う?」
「使わないから」
「他に理由はある?」
「ん……他に使えるわざがいっぱいあるから。そっちの方が強くていいから」
「バトル中にわたしがたいあたりってしか言わなくなったら?」
「ん……従う、けど、他のこともできるのにって思う」
「じゃあ、他のサザンドラがたいあたりしか使わないのを見たら、どう思う?」
「変だなって思う」

 そこで琳太が、ん、と背筋を伸ばした。何かに気付いた顔をしている。

「あそこはリサにとって、たいあたりしか使えないサザンドラ?」

 どんどん進歩していく他人が傍から見れば、あれもできる、これもできる、次はこうしてみようと思える何かが、あの空間には決定的に欠如していた。
 時間が止まっている、というか、無理に止められているみたいで、それが不自然で、違和感になって、得体の知れない恐怖に繋がっていた。

「うまく言えないけど、多分そういう感じなんだと思う」
「ん。分かった……かも」

 うまいたとえかどうか自信はないけれど、琳太は納得してくれたようだ。
 わたしも、琳太と話して少しすっきりした。あの部屋のことも、少しだけ、こわくなくなったような気がする。

「与壱、分かった?それとも、怖かった?」
「どっちでもない」
「ん、そっか」

 それ以上話す気はないのか、与壱の返答を聞いた琳太はゆっくりとした歩調で階段を上り始めた。
 5階も、それまでの階層と同じような光景が広がっていた。違いといえば、壁にプラズマ団の旗が飾ってあることくらい。
 それから、廊下の突き当たりが壁になっていて、それ以上奥へ進めそうな空間が見当たらなかった。ここが最上階と考えていいのだろう。
 部屋に通じる部分は1カ所しかなくて、わたし達がそこにたどり着く直前、誰かの足音がその部屋の中へと遠ざかっていくのが聞こえてきた。
 かろうじて翻るマントの端が見えて、きっとあれはゲーチスだと思った。
 わたしが最上階までたどり着いて、舞台が整えられていく様を、確認したかったのだろう。
 七賢人の邪魔を乗り越えて、わたしがここまで来るのも、彼のシナリオ通りなのだろうか。
 いや、今更考えても仕方のないことだ。


 足を踏み入れた先にあったのは、祭壇のような空間と、高い天井。そして、最奥部に置かれていたのは、玉座と呼ぶにふさわしい、白を基調とした荘厳な作りの椅子だった。
 椅子はひとつだけ。王と呼ばれるのも、英雄と呼ばれるのも、ただひとりだと、この空間は示していた。

「来たね、リサ」

 Nが、玉座から立ち上がる。
 足音を全て吸収してしまうほどの厚みがある絨毯の上を歩き、まっすぐこちらへとやって来る。
 高台になっているこの場所では、Nの声と一段低い場所に流れている清らかな水の音だけが、とてもよく響いた。

「……さあ、最後の戦いだ。ここまで来たからには、キミはボクと戦うつもりだ。そうだね?」
「うん、そうだよ」
「それならば、キミにもあるんだろう?あるならボクに見せてほしい!キミの覚悟を!!」

 強い語気と共に、Nがその手をわたしに伸ばす。指を指されたその延長線上が、刺されたように痛んだ。きっとその痛みはわたしの思い込みで、幻覚のようなものだろうけど。

 わたしの鞄……その中に入っているダークストーンからは、何の反応もない。
 数瞬の後、それに気付いたNが、あからさまにがっかりとした表情を浮かべた。キャップのつばから、Nの顔に影が落ちる。

「ボクと戦うつもりで、ここまでキミはやって来た……。だのに、ゼクロムは反応しないんだね」

 がっかりだ。

 Nの表情には、失望の色がありありと浮かんでいた。
 不思議と、それを見ても、わたしの心は穏やかだった。失望された悲しみも、がっかりだと言われたことによる怒りもない。
 少なからず顔見知りの人間からこういうことを言われれば、何らかの感情を抱きそうなものだけれど、今のわたしは、自分でもよく分からないほどに、なぜだか揺らぎそうになかった。

「ボクは、少しだけキミのことを気に入っていたのに。何度も戦ううちに、ポケモンを大事にするトレーナーかもと感じたのに!……だけど、ボクの思い込みでしかなかっ」
「そうだよ」
「……?」
「そうだよ。リサは、ポケモントレーナーだよ。おれ達のことを大事にしてくれるひとだよ」

 琳太の言葉に、Nの瞳が揺れた。

 そっか。
 Nに失望されようと、ゼクロムに認められなくとも、わたしには関係ない。
 琳太がわたしのことを信頼してくれている。わたしを信頼して、大事にしてくれる人がいるから、別に、こわくない。
 
 ダークストーンの中にいるゼクロムが認めてくれなくても、別にいいのだ。
 わたしが大切にしたいと思っているたからものが、わたしのことを、これ以上ないくらい、大切にしてくれるのだから。

「それでも、リサ、キミにできることは2つ。勝ち目のない戦いを挑むか、諦めて、ポケモンが人から解き放たれた新しい世界を見守るか。……おいで、レシラム!」

 ただ、それはそれとして、現状、レシラムへの対抗策がないことは事実だ。

 Nの呼び声に応じて、玉座の後ろから、レシラムが姿を現した。
 建物の壁を突き破り、高らかに咆哮を上げ、Nのそばへと舞い降りる。
 白鳥のように優雅で、狼のように雄々しく、何度見ても、神々しくも恐ろしい姿をしているポケモンだった。

 咆哮ひとつで、この空間のありとあらゆる水分が蒸発した。水路をたゆたっていた水が、真っ白な湯気を立てて消えていく。
 大量の水が一気に蒸発したためか、一瞬奇妙な音がした。白くかすむ間もなく、蒸発した水分は消え、皮膚がひりつくような熱気に包まれた。
 存在するだけでこれだ。戦おうという気持ちすらも焼き尽くされてしまう。

「リサ、どうしたい?」

 わたしと与壱をマントの下にかくまいながら、琳太が尋ねてくる。

「戦いたい?」
「……」
「ん……戦わなくちゃ、いけない?」
「うん」

 戦いたくはない。でも、戦わなくちゃ。琳太と一緒にいられなくなってしまう世界には、なってほしくない。わたしの生きる場所を、奪わないでほしい。
 もう誰も、Nを止められなくなってしまう、その前に。

「それならおれは、ぼろぼろになってでも戦うし、勝つよ」

 袖口のリボンの裾が少し焦げて不愉快そうな与壱は、ずっとNとレシラムを睨み付けていた。

「リサは、おれ達と一緒にいたいって言ってくれるだけで、いいんだよ」
「うん」

 覚悟が足りなかったのは、わたしの方だ。琳太達はこんなにも、


 ばちん。


 静電気が弾けたときの、何倍もある音がした。
 バチン、バチン。
 一度のみならず、その音は何度も鳴り響き、鳴る都度、その間隔を狭めている。
 時限式タイマーのようなそれに急かされてバッグを漁ると、ひとりでにダークストーンが浮上した。
  目の前まで浮かび上がり、目の高さでぴたりと止まる。

『お前の理想は何だ?』

 わたしの、理想。
 とても個人的で、小さくて、他の人に分かってもらえるとは思えない願いのことを、そう呼んでもいいのなら。

「わたし、ポケモントレーナーになりたい」

 英雄じゃなくて、ポケモントレーナーがいい。
 それがわたしのなりたいもの、わたしの理想。

『それがお前の理想か』

 疑問符はなく、了承したような抑揚だった。
 きっとこれは、ゼクロムの声だ。
 幼子のような声音なのに、凜として成熟された響きを含んでいる。
 はきはきとした重ための声は、よく響いた。

「ダークストーンが……!いや、ゼクロムが!」

 黒い球体を中心に、突如として風が巻き起こる。
 皮膚を灼く熱い空気が渦を巻き、オーラとなって、ダークストーンへと吸い込まれていった。

 鳴り続けていた電気の弾ける音は、いつしか地鳴りのような音へと変わっていた。それが地面を揺らすほどの影響力を持つまでに、そう時間はかからなかった。

   

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