ローズマリーと子守歌‐03 

 3階にも人の気配はない。
 再びダークトリニティが突然現れるのを警戒しているのか、与壱がわたしのマフラーのはじを掴んで離さない。おかげでちまちまとしか歩けず、ちょっとでも大股で歩けば首が絞まるという始末。進みづら……。
 与壱が一番、野生の勘というか、本能的な感覚が鋭いようだから、彼が警戒してくれているというのは頼もしいんだけど。
 琳太もそれなりに厳しい環境で生き抜いてきただろうに、鋭い勘が冴え渡る、なんて場面を見た憶えはない。わたしが気付いてないだけなのかな。

 長い廊下を、次の階段めがけて歩いているさなか、男の声が聞こえてきた。独り言のような、ぼやいている声だった。

「おれ、プラズマ団向いてないのかなあ……」

 思わず足が止まった。
 急に止まったわたしを気にも留めず、与壱は先に行こうとする。マフラーが前方向に引っ張られて、歩かざるを得ない。これでは犬の散歩だ。
 それはそれで嫌だったので、一歩分追い抜くくらいの位置まで早足で歩いて現状維持した。

『ご主人元気ないねえ!あそぶ?あそぶ?』

 ぼやきが聞こえてきた部屋が遠のいていく間に、舌っ足らずな声幼い声が聞こえてきて、それに対してまたさっきの男の声が何かを返していた。
 誰かのことを「ご主人」と呼んでいる辺り、舌っ足らずな声の主はポケモンだろうか。声音からも「ご主人」に好意を抱いていることがうかがえる。プラズマ団員であっても手持ちのポケモンがしっかり懐いているのがなんだか意外だったが、おかげで、男のぼやきの理由がなんなのか、つかめたような気がする。
 プラズマ団員の中にも「ポケモントレーナー」がいるんだと分かって、ちょっとだけ嬉しくなった。


 何事もなく3階の廊下を通り過ぎ、4階へと上がる。
 この建物、何階建てなんだろう。何階の、どこに行けばゴールなのか、バーベナさん達に聞いておけばよかった。

 4階に上がった途端、後ろ向きに引っ張られてそのまま背中を支えられた。
 与壱がわたしのマフラーを引っ張ったのだ。
 階段を上り終えたばかりだったから、転げ落ちるかと思った。心臓がばくばくしている。

 目の前にダークトリニティがまた1人立っていて、じっとこちらを見ていた。

「あの部屋はN様に与えられた世界……」

 そう言って彼は、廊下の一番手前の部屋を指さした。
 
「私は何も思わないが、お前なら何か感じるかもな」

 こちらが何かを言う前に、またもや男は姿を消した。さっきと同じ男だったのか、それとも残り2人のうちのどちらかなのか。それすら分からないまま、わたしと琳太は顔を見合わせた。

「入る?」

 琳太がわたしに尋ねながら、部屋を覗き込む。
 おいでと手招きされるがままに入った。

「……」

 声が出なかった。
 スッと短く息を吸い込んで、その後、それを吐き出す方法が分からなくなってしまった。
 床は明るくて柔らかいパステルカラーの青空模様。壁は可愛らしいピンクと白のブロックチェック。
 室内用のバスケットゴールがあって、そこにはおもちゃの列車が刺さっていた。
 かたかたと小さく規則的な音が聞こえる方に視線を向けると、電動のプラレールが走り続けていた。輪っかのように組み合わされたレールがCのかたちで中途半端に途切れているから、端まで来たらまた折り返して、を永遠に繰り返している。もしかして、レールを組んでいる途中だったのだろうか。プラレールの周囲には、似たようなパーツが散乱していた。

 おかしい。
 子供部屋としてはおかしくない。海外の子供部屋として、多くの人が想像するような見た目だと思う。でも、おかしい。
 これが、Nの”今”使っている部屋?これが彼に与えられた世界?

 琳太はNの部屋の中をしげしげと物色している。少し色褪せたバスケットボールを持ち上げてみたり、おもちゃ箱の中を覗いてみたり。
 わたしは部屋から1歩入ったところで動けなくなり、立ち尽くすばかりだった。
 ”ピュア”で”イノセント”。
 女神の言葉が甦る。

 それらの言葉でよく形容されるのは、物心ついたばかりの子供達じゃないか。
 天使、無邪気などの言葉と並んで、かわいらしい幼子を形容する言葉。それがわたしと同じか、年上に見えるような人間を形容する言葉として使われていることがこわい。

 琳太はこの部屋に対して、特に思うところがないようだ。部屋というよりも、そこにあるおもちゃに対して興味を示しているようだし。
 対する与壱はわたしの後ろにくっついて、マフラーのはじを相変わらず握っていた。ここを物色する気はないらしい。 

「与壱はこの部屋をどう思う?」
「目に痛い色」
「そっか。ほかには?」
「わからん」

 与壱も、何も思わないようだ。
 事情はどうあれ人間として育てられて、というか両親が人間なのだから、何か思うところがあるかと思ったが、そうでもないようだ。
 この部屋が子供部屋であることと、ここを今もNが使っていることが”おかしい”と感じるのは、わたしが人間として、人間の親に育てられて、そして今も、……。
 
 わたしって人間なのかな?

 ほの暗い疑問が湧き上がる。
 これ以上もう何も考えたくなくて、部屋を出た。
 バスケットボールを何度か弾ませているような音がして、それから琳太がついてくる。
 まさかと思って振り向いたが、手ぶらだった。バスケットボールはもう置いてきたらしい。
 安心感から漏れたため息に、琳太が気付く。首を傾げられたけれど、何でもないよと言ったら、またわたしの1歩前に出て、切り込み隊長のポジションに収まった。

 きれいな色ばかりの部屋だったのに、悪夢みたいな世界だった。
 うまく言葉にできないけれど、吐き気すら覚えるような場所だったし、一刻も早く忘れてしまいたかった。

 与壱に掴まれているマフラーを引っ張るくらいの早足で歩いていると、もう4階の端にさしかかり、そのまま階段を上ろうとしたところで、琳太の黒い背中にぶつかった。
 せっかく与壱はわたしのマフラーを掴んでいるのだから、ぶつかる前に止めてくれてもいいのでは?と思って痛む鼻をさすりながら振り返ったものの、与壱は「何してんだ」と言わんばかりの呆れた顔をしていたのであった。今のは保証サービスの対象外だったらしい。

「琳太、どうしたの?」
「さっきの部屋、リサ、きらい?」
「きらいというか、……こわい、かな。気味が悪いというか、うーん」
「ん?」
「うまく言えないけど、長くはいたくないって思った」
「ん……」

 階段の目前で立ち止まった琳太の、問いかけの意図が分からない。
 3階までよりも早足で歩いていたかと思えば、急に立ち止まった琳太。丸い瞳孔の目を見ても、蛇のように縦長に開いた方を見ても、やっぱりよく分からなかった。

「あの部屋は、悪いもの?」
「そうじゃないとは思うけど」
「けど?」
「うーん、なくなってほしいとか、そういうことは思わないよ。でも、……そうだなあ。違和感があるかな」
「違和感」
「子供部屋だといってあの部屋を見せられたら、何も思わない。でも、今のNが使ってる部屋だと思うと、違和感があるかな」
「どうして?」

 難しい質問だ。
 わたしはどうしてあの部屋をこわいと感じたのだろう。
 こわいって何だ。分からないものを怖がるのは生き物の本能だ。
 分かれば、怖くなくなるかと言われれば、そうだとも言えないけど。

 琳太に尋ねられて、”こわい”が少し分かったような気がする。
 それを琳太にどうやって伝えよう。どうしたら分かってくれるだろう。わたしもまだうまく言葉にできないこれを、どうしたら自分が抱いている感情ごと受け渡せるのだろう。
 
 

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