いつかどこかの可惜夜で‐06
あんなに余裕たっぷりの、どこかせせら笑うような口調ばかりだった男の、化けの皮が剥がれ落ちているのが嬉しくて、それと同時に、ここまで徹底的に壁を作らなければならないほどの状況で生きてきた事実を叩きつけられたようで、途方もないくらいの悲しみに、胸が苦しくなった。
「な、なん、なして泣いとると……」
心配しているというよりは、理解に苦しんでいるといった顔だった。
ずるずるとみっともなく鼻をすすっているわたしを、男は黙ってじっと見つめている。
そんなに見られると恥ずかしい。そう思ってうつむくと、男の足が座ったままこちらに向けられた。こちらを向いた状態で座り直してくれたらしい。
地面に座り込んで泣きじゃくっているわたしを、男が興味深げに覗き込んでいる。
「今さら傷が痛んできたんか?」
「ううん、ちがっ、ちがうよ」
悲しいんだよ、と言うと、深い溜め息が聞こえてきた。
同情なんていらない、という人はいる。本人が味わった悲しみや苦しみは、その人自身にしか分からない。他人が何様のつもりだ、と。
でも、少なからず辛い境遇を味わったことのある人でなければ、同情なんて気持ちは沸いてこないとも、思うのだ。同情しているからと、相手が望んでもいないのにいたわることは、余計なお世話になってしまうけれど、わたしは、同情という感情を抱くことが悪いとは、思えなかった。
男の境遇は、誰がどう見たって”かわいそう”な部類に入る。そして、それをかわいそうだと思うのは、わたしが親の愛情を受けて育ってきた証拠だ。
「悲しいって思われて、嫌だった?」
「別に。変やとは思うけど」
他人の、それも、命を狙うような相手を捕まえて、その境遇を聞き出して涙する。
……確かに、よく分からない行動をしていると自分でも思う。みんなが心配するのももっともだし、この男の人が言うのももっともだ。
「はじめてその笛の音を聞いたときにね、悲しいなって思ったの」
「意味分からん」
「わたしもよく分かんないや」
「は?」
でもね、ともう何度こすったか分からない目尻に指をあてながら、言葉を続けた。
「わたしはあなたにもう一度会いたいと思ったし、会えてよかったって思ってるよ」
おさまりかけていたと思ったのに、再び目頭が熱くなる。
わたしが膝立ちになれば、びくりと彼が中腰になり、身構えた。それに構わず、膝立ちのまま近づいていくと、困惑した表情を浮かべてはいたものの、敵意をあらわにすることはなく、動かなかった。
逃げずにいてくれたことにほっとしつつ、両手を伸ばし、腰の辺りにそえた。そのまま、下に向かって少し力を込めると、彼は素直に腰を下ろし、元の姿勢に戻ったのだった。
彼の腰にしがみつき、ぎゅう、と濡れた頬を薄いお腹に押しつける。思っていたより、何倍も華奢な体つきをしている。
彼から拒絶されることはなかった。どうしたらいいのか分からず、固まっているのかもしれない。
「あのね、うまく言えないんだけど、でも、あなたも一緒に、旅がしたい」
「なして、そんな、」
「分からない、分からないけど、わたしに旅の目的を、一番に与えてくれたのはあなただから、だから、あなたも一緒に来てほしい」
「どんだけ自分勝手なん」
「うん、自分勝手だよ。でも連れて行くから」
頭上から、深い溜め息が落ちてきた。
同時、ぽた、と頭のてっぺんに、雨の降り始めのような感触があった。
後頭部に手が添えられて、ぐい、とやや強引に、お腹へと顔が押しつけられる。
息が苦しい。布越しのぬくもりが、微かに伝わってくる。さっき食べた変な味の焼きそばを消化しているのか、めまぐるしくお腹の中が動いているような音も聞こえてきた。
「どうなっても知らんで」
「……へへ」
「あ?」
「ううん、なんでもない」
投げやりな言葉だが、それは一緒に来てくれるという返事に等しい。
まさか、わたしの説得とも言えないような何かで、すんなりと同意してくれるとは思わなかった。てっきり時間をかけて、それこそ、何年もかかる者かとさえ、思っていた。
思わず緩みかけた表情筋を引き締める。あんまり笑っては、またへそを曲げて襲い掛かってくるかもしれない。そうなったら琳太ともども、まともな抵抗ひとつできないまま、一瞬で殺されてしまうだろう。
頭に添えられた手が離れる気配は、まだない。彼の気が済むまで、こうしておこう。
「そういえば、名前」
つけてくれんの、と言われて、ああやっぱりあのとき起きていたのかと思った。ボール越しに、彼はわたし達の言葉を全部聞いていたのだろう。
「いいの?」
「最後まで責任持って飼ってくれるんやろ?」
「その口調やめてくれないかなあ……」
くつくつと、喉の奥で男が笑う。
「ま、狂ったフリにも疲れた。好きにしろ」
「うん、……よろしくね、与壱」
よいち。壱を与える者。わたしに、一番の旅の目的をくれた人。
彼ももしかしてポケモンなのでは、と気付いたのがいつだったかは思い出せないけれど、旅を始めて割とすぐの頃だったと思う。擬人化という現象を知って、その状態でもわざは使えるのだと聞いて、きっとこの人もそうなのだと思った。
彼がかくとうやノーマル以外のタイプだったら、右目をえぐられていたかもしれないけれど、そこは……まあ、結果オーライだ。運がよかった。
「与壱、なあ」
「嫌だった?」
「
きさん、嫌だと思う名前つけたかちゃ?あ?」
「いや、どう思うかは人によりますので……」
腹の底から響くような声に肩が震えて、思わず敬語で返事をしてしまった。
口調の荒さに反して、未だ後頭部にあてがわれている手に、無駄な力は込められていない。
「飽きたら殺す」
「それはやだなあ」
「裏切ったら殺す」
「うん、分かった」
「捨てたら……
つまらん」
「うん、捨てないよ。……絶対に、置いていかない」
ぽたぽたと、温かい雫が、頭にぶつかって跳ねる。
「うそつき。嘘つき、うそつき……!そうやって言って、オレのこと置いていったくせに、ひどい、なんで、なして、捨てたかちゃ……!」
わたしの髪の毛をくしゃりと握りしめて、男が泣き喚く。見た目よりもずっとずっと幼い、迷子の子供のような泣き声だった。
わんわんと響く涙声の奥に、小さな美遥の泣き声が被さって聞こえてくるようだった。 それに、わたしも、置いて行かれた側の悲しみは、もうじゅうぶん分かっている。
与壱には、迎えに来てくれる人も、探しに来てくれる人もいなかった。そのときの絶望も、悲しみも、同じだけ分かってあげられることはないけれど、できる限り、寄り添っていきたい。
わたしだけじゃ抱え切れないときもあると思う。というか、わたしがいつもみんなに迷惑かけて、気を遣わせっぱなしでいる方だ。
だからきっと、与壱のことは、みんなが支えてくれる。今は衝突気味だし、今後もたくさんけんかすると思うけど。
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