道化師は黄昏に哭く‐08
みんなを置いて、テントを出てきてしまったから、帰ってきたら怒られるかもしれない。
離陸した後にそれを思ったが、戻ろうとは思わなかった。
夜空はやはりとても美しくて、思わずほう、と息を漏らしてしまった。
新月なのか、月の姿は見当たらない。そのせいで、よりいっそう闇は深く、星々は強く輝いていた。
リゾートデザートでゲーチス達と対峙した日の夜。琳太はずっと、自分の存在意義を感じられずにいた。
パートナーなのに自分は弱い。空も飛べず、足も遅く、海を渡ることもできない。
我慢できず、ここに、リサの隣にいてもいいのかと問うたとき、その疑問を口にしてしまった時点で、もう一緒にはいられないと悟ってしまった。
そのまま、全員が寝静まった頃合いを見計らって、琳太は姿を消したのだという。
そしてリサ達の泊まっていたポケモンセンターの近くに”たまたま”いたゲーチスに拾われた。自分と共に来れば強くなれると誘われて。
「別に、行くあてはなかった。拾われたときも、このまま殺されるのかと思った」
どう考えても罠だ。
しかし、自分がゲーチスの手に落ちたところで、大してリサ達には影響しないだろうと、その時はそう思っていた。
今思えば馬鹿な考えだね、と笑った琳太の顔を、わたしは直視できなかった。
風で流れていく髪の毛が顔を隠してくれたから、少し安心した。
琳太の予想に反して、ゲーチスがしたことといえば、モノズが進化できる種族だという知識と、食事を与えることだけだった。どこへなりとも出て行くことはできたし、その気になれば、Nに会うこともできた、と琳太は言った。
3食おやつ付き、と言えば平和な響きだが、ゲーチスの狙いは3食の方ではなく、おやつの方だった。
「リサ、ふしぎなアメって知ってる?ポケモンの経験値が上たくさんたまるアメ」
「聞いたことはあるよ」
「おれに与えられた”おやつ”はそれだった」
変化は、アメをもらい始めてすぐに現れた。
はじめは本当に、ただのおやつだと思っていた。食事がきちんと出てきて、大して痛めつけられることもないことを怪しく思いはしていたが、Nが同じ建物にいるという話を盗み聞きしていたため、ゲーチスもここでは”そういうこと”はしないのだろうと結論づけ、ある程度警戒を解いていた。
身体が熱くなる。頭が痛くなる。ときどき、周囲の物音が二重に聞こえてくる。
何か薬を盛られはじめたのかと、逃げ出すことを考えはじめた矢先、ゲーチスが現れてこう言った。
「進化の時は、もうすぐそこまできていますよ」
進化。強くなりたいと願う琳太の心に、それはとても良く響いた。
そして、ゲーチスがひとつのモンスターボールを取り出す。
この中に、アナタの望んでいる強いポケモンが入っていて、それが、アナタの未来なのだと言いながら。
放り投げられたボールから飛び出したサザンドラは、何のためらいもなく琳太に襲いかかった。
一切の命令を受けず、一切の迷いもなく、動くものをただひたすらに破壊せんとする兵器。
「あの唸り声を聞いたとき、もう、おれの帰る場所はどこにもないと思った」
琳太はすぐさまその場から逃げ出した。
「ばけものだと思った。おれもばけものになってしまうと思った」
ゲーチスの高笑いと、サザンドラの獰猛な唸り声が混ざり合った音を、思わず想像した。心臓を直接掻きむしられるような不快感だ。
強くなりたいと願った琳太が、その”強さ”を違えた存在に立ち向かうことなく背を向けなければならなかったときの絶望はいかほどか。
その日、初めてゲーチスは、琳太が逃げることを阻止したという。
「無理矢理捕まえられて、何か箱みたいなのに押し込められて、……気がついたら、どっかの橋の上で、遠くにリサ達がいた」
あのときの琳太の泣きそうな顔は、今でも忘れられない。
前を向いている琳太が、どんな表情をしているのかは分からない。でも、泣いているのかもしれないと思った。
「あれで会うのは最後にしようと思った、けど……」
「諦めきれなかったの」
「ん」
シリンダーブリッジで琳太は、わたしたちの方へと走って戻ることはできただろう。隙を突いて脱出するチャンスは、いくらでもあった。
それをしなかったのは、重たい生地でできたマントの下で、ゲーチスが、サザンドラの入っているボールを握りしめているからだった。
「あそこであいつに暴れられたら、ひとたまりもないと思った。……おれ、震えて突っ立ってることしか、できなかった……!」
声が泣いていた。
鼓膜を震わせる悲痛な響きに、思わず唇を噛み締める。かさついた、やや皮がめくれかけたそれから、ほのかに血の味がした。
「空、きれいだね」
「ん」
「一緒に見られて、本当によかった」
「……ん」
ふかふかの首元の毛に顔をうずめていると、やや風が弱くなった。
下を見ると、景色の流れていく速度がやや落ちている。
首をもたげて空を仰いでいる琳太と、背中越しに目が合った。
多分、他の誰にも見せたくなかったのだろう。進化する前に出すら見せなかったような、弱々しい表情を。
膝でにじり寄って、静かに泣いているその頭を抱え込むようにして抱きしめる。
誰にもこんな話、したくなかったはずだ。恥ずかしくて、醜くて、情けなくて、嫌になる。
でも、琳太は話してくれた。わたしだけに、包み隠さず。
隠し事があったって、怒らないのに。誰だってひとつやふたつ、言いたくないことはあるのに。
罪悪感から、言わずにはいられなかったのかもしれない。言わずにはいられなくて、それでも九十九達には聞かれたくなくて、こうやってふたりきりになることを望んだのかもしれない。
「……流れ星、また降ってくるかな」
「琳太がまたいなくなっちゃいそうになったら、きっと降るよ」
「それはやだ」
「わたしもやだ」
ふたりして鼻をすすって、小さく笑う。
「リサ、」
「うん?」
ぺろっと唇を舐められた。
生暖かく、湿った舌が、わたしの下唇をなぞる。
「血が出てるよ」
それだけ言うと、琳太は再び力強く翼を動かし、高度を上げた。
身体はさっきよりも冷えていて、指先なんて凍えてぽろりと落ちてしまいそうだ。
それでも、血のにじんだ唇を中心に、じんわりと熱が身体中に広がっていく。その熱に共鳴するかのように、鼓動が速くなる、胸が熱い。ぎりぎり火傷しないくらいのココアを、少し無理に飲み込んだときのような熱が、喉元を過ぎても消えてくれない。
もうしばらくは白みそうにない夜空の中、琳太は無言で飛翔を続けていた。
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