道化師は黄昏に哭く‐06 

 お風呂から上がると、ビニール袋片手に部屋へと入ってくるはなちゃんがいた。続いて、美遥。
 九十九はソファに身体を預けているが、琳太の姿がない。

「琳太はベランダにいるよ」

 わたしの顔を見て、九十九が言う。
 確かに、窓際のカーテンが揺れていた。
 湯冷めするから先に髪を乾かしてねと、お母さんみたいなことを言ってきた九十九に返事をして、再び洗面所に引っ込んだものの、ドライヤーのコードがギリギリ届く範囲まで、リビングに戻ってきてしまった。
 わたしがリビングに顔を突っ込むような形で髪を乾かしているものだから、はなちゃんがそれを見て顔をしかめる。

「大人しく乾かしてこいって」

 ドライヤーがうるさくて、何と言っているのかあまり聞き取れなかったけれど、なんとなく引っ込めと言われたような気がしたので、大人しく洗面所に戻った。
 少し生乾きのような気がするけれど、もういいやとドライヤーを放り出し、首にタオルを掛けて洗面所を出る。
 上着を羽織って一直線にベランダへと向かうわたしを、九十九が笑って見ていた。

 からからと網戸を開けると、冷たい風が直に顔を撫でていく。お風呂上がりの火照った身体には、その冷たさが涼しくて気持ちいい。
 琳太が肩越しにわたしの姿をみとめて、そして振り向く。

「リサ」
「寒くないの?」
「そっちこそ」

 お風呂上がりだから平気だよ、と言えば、琳太は困ったように眉根を下げる。確かに長居すれば湯冷めしてしまうから、あまり良くはないだろう。でも、少しだけなら。

「みんなに何か言われた?」
「おかえりって」
「そっか」

 落ち着きのある声が、耳から染みこんでいく。まだ聞き慣れないけれど、だからといって、初めて聞く心地にはならない、不思議な声。
 空は曇っていて、雲の流れは遅い。太陽は、冬らしいくすんだ色の雲に分厚く覆われており、昼だというのに薄暗かった。

「……ゲーチス、追い掛けてきたり、しないかな」
「それは、ないと思う。この先には、いるとは思うけれど」

 そう言って琳太は、チャンピオンロードのある方角を見やった。
 ゲーチスが追い掛けてくることはないといったその響きには、断言するような響きがこもっていて、琳太はそうだと確信しているようだった。

「だって、おれのこと、”時限爆弾”って言ってたから」
「え?」
「もう爆発しちゃったけど」

 進化した際に起きた琳太の暴走を、ゲーチスはそう比喩したのだろう。なんとも言いがたい、嫌みのある喩え方だ。ついつい顔をしかめてしまう。さっきのはなちゃんみたいに。
 琳太は、わたしの表情を穏やかな目で見つめていた。
 少し、強めに風が吹く。そろそろ寒くなってきた。いい加減部屋に戻るべきだろう。

「やっぱり冷えるよ」

 そう言いつつも、琳太がわたしを室内へと追いやらないのは、まだここで一緒に過ごしたいと思ってくれているからだろうか。
 ふわりと、身体を大きな黒い布が包み込む。琳太のマントだ。わたしの身体は、すっぽりと琳太の脇に収まってしまった。
 毛布のよう、とまでは行かないまでも、わずかに琳太の体温が移ったそれは、ほんのり暖かい。
 琳太のマントにくるまれながら、もう一度空を見上げる。やっぱり薄暗い昼だと思った。

 
 黒い大きな布をかき分け、カーテンをかき分け、部屋の中に戻ると、九十九たちがみんなソファに座って、わたしたちを……正確には、わたしの後ろにいる琳太を、待っているようだった。

「まあ座れや」

 はなちゃん、それ、完全に人を脅すヤクザの話し方だよ。
 どうにか突っ込みたい気持ちをこらえて、言葉を飲み込んだ。こんなことが言えるような雰囲気ではない。
 琳太は、大人しくはなちゃんの向かいに腰を下ろす。わたしがその隣、ソファの端っこに腰掛けると、はなちゃんが再び口を開いた。

「琳太、本当に何もされてないんだな」
「ん」
「証拠は」
「んー……」

 琳太は、困ったように眉をハの字にして頬を掻いた。
 言葉を選ぶように、何度か口を開いては閉じ、ゆっくりと区切るように話し出した。

「ゲーチスは、きっと、おれ達がこうやって、疑い合って、仲違いするのも、計算のうちだったと思うよ」
「それでもだ」

 はなちゃんの、星を散らしたような瞳が、まっすぐと琳太を射抜いている。その視線からは警戒心が見て取れたものの、その目の鋭さは、琳太自身に向けられたというよりも、さらにその向こう側を狙っているようだった。

「なあ、これやんなきゃだめか?」
「だめだ。少なくとも俺は納得しない」

 どこに行って、何をしていたのか、何をされたのか、はっきり教えてくれ。
 はなちゃんはそう言った。
 美遥はつまらなそうに足をぶらぶらさせているが、部屋を出て行こうとはしなかった。

「……」
「言わない気か?言えないことでもあんのか?」
「英さん、ちょっと、」

 目を細めてすごんだ英に対して、隣の九十九が制止の言葉をかける。
 わたしの身体が強張ったことに気付いたのか、そっと紡希が手を握ってくれた。
 できれば、こんなぴりぴりした話し合いなんてやってほしくないけれど、今後、はなちゃんが納得して琳太を迎え入れてくれるためには、必要なことなのかもしれない。
 わたしが口を挟むことはできないと思った。。
 
「ゲーチスも、サザンドラを持ってるよ」
「……」

 今度ははなちゃんが黙る番だった。

「いつか、ゲーチスのサザンドラと戦う日が来る。そのとき、俺が勝てたら、認めてくれる?」

 はなちゃんとは対照的で、琳太の声は凪いでいた。
 琳太はそれ以上言葉を発する気がないようで、英たちの言葉を待っている。
 すっかりぬるくなったココアをずず、と飲み干して、美遥が席を立つ。缶をへこませたとき特有の音を鳴らしながら、部屋を出て行ってしまった。空き缶を捨てに行ったのだろう。そんな場合ではないような気もするけれど、はじめからあまり乗り気ではなかったから、はなちゃんも引き留めはしなかった。

「お前のことを疑うつもりはない。というか、疑いたくない」
「かといって証明するのも難しいとは思うけど」
「そうだな。そう、その通りだ」

 琳太の空気に引きずられたのか、はなちゃんの眉間のしわが消えた。
 わしわしと頭を掻いて、言葉を探しているようだった。

「俺あんまこういうこと好きじゃねえんだよなー……」
「じゃあやめたらいいのに」

 はなちゃんはうるせえよ、と言って、視線を斜め下に向けながら笑った。
 ふっ、と空気が緩んだのを感じる。終わったんだろう、とぼんやりながらも思った。
 はなちゃんが何を思って琳太と話し合おうとしたのかは、薄々分かる。
 でも、さっきのは話し合いと言えるほどのものでもなかった。むしろ、琳太はほとんど話をしていないし、一切説明のようなものもなかった。これではなちゃんがもう納得した雰囲気になっているのが、不思議でならなかった。

「リサ、悪い。こうでもしねえと気が済まなくてな」
「う、うん。はなちゃんはもう納得したの……?」
「ああ。一応、な。でもな、」

 もしまたああいうことがあったら、次こそ俺が止める。
 右の拳を左の手のひらにぶつけて、はなちゃんが断言した。
 それは心強いと言って、琳太の口元が緩む。はなちゃんの力強い、いっそ射殺すような視線を受けても飄々としている。わたしなら、何も悪いことしてなくても謝りたくなるような眼光なのに。

 ふと時計を見ると、あと少しで日が傾きかける時間帯だった。
 そういえば、お昼ご飯食べてなかった。この短時間にいろいろなことがありすぎて、とても今日一日の出来事だったとは思えない。
 
「リサ、今日はここに泊まるのかあ?」
「うーん、できれば先に進めたらとは思ってるけど……」

 そうなると、チャンピオンロードの手前で夜になってしまうだろう。
 できればチャンピオンロードを進むのは、日のあるうちがいい。
チャンピオンロードの手前で野宿すれば、日の出と共に出発できる。できれば万全の状態で突入したい。それは、チャンピオンロードが今までの道のりよりもはるかに危険な場所だという理由以上に……あの男がいるからだ。
 この世界に来たばかりのわたしが出会った、危険人物。ゲーチスのように言葉を弄せず、命を弄ぶような冷たい目をした色素の薄い人。

 琳太の顔を見ると、わたしの視線に気付いたのか、紅紫色の瞳と目が合った。
 うなずく琳太を見て、わたしと同じく、彼のことを考えているのだと分かった。

「チャンピオンロードで、多分、とっても危ない目に遭うと思う。……わたしもそうだったから」
「どういうこと?」

 九十九が問いかけたところで、美遥が戻ってきた。何事もなかったかのように、ソファでごろりと横になった。それをはなちゃんが白い目で見ている。
 美遥、猫みたいにマイペースなとこあるよね。鳥だけど。

「うーん、会えば分かるよ」
「適当かよ」
「でも危ないから気をつけてね」
「意味不明なんだが?」

 はなちゃんが、頭の上に疑問符をいくつも並べているのが容易に想像できる。
 でも、わたしだって具体的なことは何も知らないのだ。彼がどこの誰で、どうしてあそこにいたのか。どうして襲いかかってきたのか。悲しみの音色は、未だに耳にこびりついている。

「そういえば、次に会ったら殺すって言われたような気がする……かも……」
「は?そういえば、じゃねーよお前はよお!?」
「は、英さん落ち着いて……」
「お前らそろいもそろって”ほうれんそう”って言葉知らんのか?あ?」

 これには苦笑いをするしかない。琳太と顔を見合わせて同じ表情をしていると、ひとり憮然としていたはなちゃんが、ようやく落ち着いた。

「誰にだって言いたくないことのひとつやふたつ、あるでしょう」

 紡希が、美遥に膝枕をしながら言う。美遥はうとうとしていて、今にも眠ってしまいそうだった。紡希ママ……。
 
 最後に大きくため息をついてから、はなちゃんはスッと顔を上げた。憑き物が落ちたみたいな、覚悟を決めたような、きりりとした表情だった。

「よし、もう俺はこれ以上何も聞かねえ。琳太のことは信じる」
「ありがと、英」

 琳太のへにゃっとした笑みが、進化前のそれを彷彿とさせるものだった。そういうとこは変わらないんだなあ。
 はなちゃんもそれを見て、毒気を抜かれたような顔をしている。

「今夜、野宿でもいい?ちょっと寒いけど……」
「アタシがあっためたげるからリサは大丈夫よ!」
「おいら達は」
「ボールに入ってりゃいいだろ」

 寝ていると思っていたが、美遥は起きていたらしい。
 のっそりと起き上がって目をこすり、大きなあくびをする。ついでに伸びをして、もうひとつあくび。伸びをすると眠たくないときでもあくびが出るよね。何でかは知らないけど。

「ところでリサさん、ちゃんと髪乾かした?」

 どきっとした。慌てて洗面所に引っ込む。後ろから九十九の小さな笑い声が聞こえてきた。
 お母さんポジションみたいな人がいっぱいいるから、安心できるようで気が抜けない。
 まだ生乾きだった髪に温風を当てながら、ショップで補充しておいた方がいい道具のことを考えていた。
 


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