道化師は黄昏に哭く‐03
琳太の身体が、おもむろに縮みだした。人の姿を取る。撃ち落とされた姿勢のまま、頭だけを持ち上げて、琳太は九十九を見上げた。
その右目はぎらぎらと、けだものの光を宿していた。一方、左の目は、光を失い、虚空を見つめていた。今にも泣き出しそうに、震える唇を噛み締めている。口の端からは、強く噛み締めすぎたのか、それとも戦闘で負った傷か、一筋の赤が流れていた。
「琳太、きみは怯えているね」
それは質問ではなく、断定だった。
「ぼくは外のすべてが怖かった。外に出てからも怖いことばかりだった。だからわかる。琳太、きみは今、とても怯えている。怯えてためらって、拒絶ばかりしている」
「……」
九十九が、琳太の眼前まで歩み寄る。
地面を掻きむしりながら、琳太が片腕をつき、上体を起こした。
それでも九十九は、頑としてその場を動かなかった。
しゃがみ込むことも、さげすんだ視線で見下すでもなく、まっすぐに、琳太を見ているのだと思った。
わたしには、九十九の背中しか見えないけれど、そう思えた。
「……また、傷つけてしまう。おれ、いない方がいい。会いに来ない方が、よかった」
どうしても一目、見たかったのだと。見てしまったら、会いたくなってしまったのだと。地面を濡らしながら、琳太は口にした。
そう語る彼の右目はなおも、理性のない光を宿している。
勝負のついた今も、琳太は自分の中で、自分と戦っている。破壊衝動に抗っている。手袋の破れた指先、爪と指の間に土が食い込み、血がにじんでいる。理性を手放すまいと、必死に目の前の光にしがみついているのが目に見えて、呼吸が止まってしまいそうだった。
今すぐにでも駆け寄りたくて、でもそれをしなかったのは、琳太が怖かったからではない。
九十九がわたしの前に手を出して、「任せて」と示したからだ。
「本当にそれでいいの?リサさんが連れ出してくれた外の世界を、きみは彼女と、一緒に見たいんじゃないの?」
「み、たい。みたい……ッ」
両手を地面に押し当てて膝をつき、下を向く琳太。その姿は、罪を告白し、懺悔する罪人のようだった。
肩で息をし、土を掻き、身体を震わせる。自らの罪の重さに、押し潰されそうになっていた。
荒い呼吸を繰り返す琳太へと降り注ぐ九十九の声。そこに、同情の色はない。かといって、突き放したような冷酷さもなかった。
「ぼくはね、最近になってやっと、きみのことを羨ましいと思えたんだ。手が届く距離になって、やっと気づいた。でも、ぼくじゃだめなんだ。ぼくは持っていないものを、初めからきみは持っていて、誰にも譲ることを許されていない。きみは、きみこそが、リサさんの一番近くにいるべきだ。琳太。ぼくにきみを、羨ましいままでいさせてよ」
「おれ、そんな、きれいじゃない。おれが、みんなのこと、うらやましいって思って、」
「いいや、違うよ、琳太。ぼくはきみが羨ましい。……いや、こうなると、お互い羨ましいと思っていることになるのかな」
「おれじゃだめ、ふさわしく、ない」
「いいや、いいや。琳太。きみじゃなきゃだめだ」
「ちがう、ちがう!」
ちがう、ちがう。
わがままを言う子供のように、琳太は首を振りたくった。
いいや、いいや。
聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように、九十九は諭した。
「この世界に初めてリサさんを迎え入れたのは、きっときみだ、琳太。ぼくたちの中で、リサさんの瞳をきれいだと言ったのは、きみだけだ」
そういえばみんなに、そんな話したっけ。
みんな、わたしが別の世界にいたことは知っている。どうやって琳太と出会ったのかも。この先にあるチャンピオンロードで何があったかまでは、細かく説明していないけれど。何があって、どうやってカノコタウンまでたどり着いたのか。だからはなちゃん達は、龍卉さんのことを知らなかった。
九十九は何を思って、その言葉を選んだのだろうか。
確かに、瞳をきれいだと言われたことは嬉しかった。初めて、他人にありのままの自分を受け入れてもらえたような気持ちになったからだ。その言葉に、わたしがどれほど救われたのか、よく分からない。多分、この先もしっかりと実感することはないと思う。
言葉は、音の響きは、色あせていくものだから。きっと最後は、言われて嬉しかったな、っていう感情だけが記憶に残る。
その感情でさえも、言葉を受け取った当時のまま持って行けるわけじゃない。もしそうなら、それは素敵なことだけれど、反面、辛かったことも、悲しかったことも、きっとずっと心に刺さったトゲになる。そうなってしまえば、心の器はとっくの昔に感情を受け止めきれなくて、壊れてしまっているだろう。
「おれ、思ったこと言っただけで、特別なことなんて、何にも、……おれ、もう、何にも」
「心の底から出た言葉で、飾らない言葉で、ひとを救えるきみはすごいんだよ」
ゆっくりと、琳太が顔を上げた。血と涙と土埃でぐしゃぐしゃの顔の中で、双眸が同じ色をして揺らめいている。
「ぼくが今、どれだけ言葉を尽くしているか分かるかい。きみを納得させるために、どんなに考えて言葉を紡いでいるか、分かるかい。正直、……正直、もうこれ以上、どうやってきみを説得すればいいのか分からない。嘘はついていないけれど、誠実でいたいけれど、どうやったらきみを納得させられるか、これしか考えられずにいるんだ」
でもきみは違う。
九十九の表情は分からない。でも、穏やかな目をしているんだろうと思った。
震える喉に力を込めて、泣き出しそうになるのを我慢した。
「彼女にとって、きみだけが唯一なんだ」
「そんなこと、」
「あるよ。そんなことある。きっとぼくが琳太より先に出会っていても、リサさんはきみを選ぶだろう。誰にも、きみにでさえも度し難いほどに強く、大きく、きみはリサさんの心を動かしたんだ」
彼女には自覚がないみたいだけどね、と言って、九十九がようやくわたしの方に向き直った。片手を顔の横まで上げている。
彼が何をしたいのかよく分からなかったが、向かい合わせになる方の手を同じように挙げると、柔らかい布地で覆われた手のひらが、わたしのそれに触れた。
「ここから先は、パートナーのあなたにお願いするよ」
「……うん」
音もなくバトンタッチをして、九十九がボールの中へと戻っていく。
手のひらの優しい感触を忘れないよう握り込み、わたしは1歩、前に進む。
怯えたように肩を揺らした琳太の前で、膝をついた。前はこうしたら、立っている琳太と同じくらいの目線になっていたのに。今となっては、わたしが見上げなければならない。
それでも、萎縮している琳太は、叱られた子供のように、精一杯自分の身体を小さく見せようとして、背を丸めていた。……前の方が、ずっと堂々としていたなあ。
両肩に手を置くと、広い肩が跳ねた。よりいっそう、身体の震えが増している。
しっかりと両の眼を、覗き込むように見つめると、彷徨っていた視線が、諦めたようにこちらを見つめ返してくれた。
もうどこにも行かないで、と肩に置いた手に力をこめる。
右目の、本来白目であるはずの部分が反転したまま、黒く染まっている眼球の中で、マゼンタがおろおろと彷徨っている。罠にかかった獣のような、親を見失った子犬のような、不安を色濃く残した目。けだものの獰猛さは、なりを潜めている。目に宿る光は小さく、炭の中に埋もれている残り火のようだった。
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