道化師は黄昏に哭く‐01 

 ちっぽけで、いつも見下ろしていた頭が、今は遙か遠く、見上げるほどの位置にある。
 わたしが目を細めたその折、雲が太陽を覆い隠した。逆光で暗い影を落としていた琳太の表情が、よりはっきりと見える。

「琳太……!」
「リサ、ごめんなさい」
「ううん、いいの、いいの!琳太お願い、そこで待ってて、今行く!」
「もう、おさえきれなくて……っ!」
「え……?」

 ふらり。小さな身体が、風に吹かれたように揺れて、傾いた。
 はっと息を呑むことしか出来なかった。
 落下してくる小さな身体。それがスローモーションで視界に焼き付く。
 通常の落下速度とは違い、それが本当にゆっくりと落ちてきているのだと気付いたのは、琳太の身体が薄く光をまといはじめてからのことだった。
 はためくポンチョの裾が長く伸びて、夜空を切り取ったようなマントになる。
 小さく柔らかかった手が、指が、無骨で節くれ立ったものになり、黒い手袋で覆われた。
 
 進化、している……?
 
 長い足で着地した琳太が、ゆっくりと顔を上げる。
 その距離、わずか数歩だというのに、とても遠い場所にいるように思えた。
 幼さのそぎ落とされた、男の人の顔で、悲しげに琳太が笑う。

「ごめんね、リサ。間に合わなかった。見せたく、なかったけれど」

 強くなりたくて悩んでいた琳太が、進化した。それは、琳太にとって喜ぶべきことなのに、どうしてこうも、悲しい表情のままなのだろう。どうしてわたしは、喜べないのだろう。

「ゲーチスと、一緒にいたの?」
「ん」
「変なこと、されてない?」
「……」

 その問いに、琳太は否定も肯定もしなかった。曖昧に、斜め下へと視線を逸らす。その右目がうまく人間になりきれていなくて、半ばわたしを拒絶しているようだった。
 ふい、と琳太が顔を逸らす。きびすを返そうとしているのだと気付いたときにはもう、真っ黒な後ろ姿しか見えなくなっていた。

「もう、行かなきゃ」
「琳太待って、まだ全然、」
「怖いんだ」

 自分が自分じゃなくなりそうで怖いと、琳太は言った。背中越しの言葉は、自分に言い聞かせているみたいだった。
 ゲーチスには何もされていない、ただ与えられた食事を提供されていただけだとも、言った。それが果たして変な薬入りの食事だったかどうか確かめる術は、もうないのだけれど。

 でも、そうなら琳太は、ただ進化しただけだ。心配なら、ポケモンセンターで診てもらえばいい。大した問題じゃない。琳太が帰ってきてくれないことの方が、ずっと問題だった。

「琳太、待って。帰ってきて、お願い」
「……」

 琳太が無言で振り向いた。
 黒いマントが翻る。少しだけ伸びた髪には、ところどころ黒以外の色も混じっていた。
 はなちゃんほどではないけれど、背が高くて、声も低い。初めて聞く声だけれど、琳太の声だというだけで、ずっと前から知っている声に思えた。
 
 わたしが1歩進めば、琳太はそれよりも大きな歩幅で1歩、後ろに下がった。決して、私と琳太の距離が縮まることはない。それどころか、少しずつ、開いていく。
 
「おれね、強くなれたらいいって思った。強くなりたいって。でも、そしたら、そしたら……っ」

 我が身を抱きしめるように、琳太は両腕を自分の前で交差させた。頭を振り、何かを、堪えているみたいだった。今にも溢れ出しそうな衝動を、必死に押しとどめているようだった。
 もともと琳太の肌は白い方だけれど、今はそれを通り越して青白い。血色感がなく、額には玉のような汗が浮かんでいた。唇も真っ青だ。
 今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られるが、先ほどの様子からすると、追い掛ければ逃げてしまうだろう。

 こんなはずじゃなかったのに。
 うめくような声で、琳太が吐き出す。

 騙し討ちのような方法で申し訳ないが、一度ボールに戻してしまった方がいいかもしれない。そう思って腰に手を当てる。
 しかし、わたしの動きを察知したのか、キッと琳太が顔を上げた。ぎらぎらとした瞳に、一瞬手の動きが止まる。へびにらみでもされたみたいだった。

 よろよろとさらに琳太は後ずさる、けれど、とうとう自分の身体を支えきれなくなったのか、膝をついてしまった。地べたに、夜空のベールが広がる。飛ぶことを諦めた翼が、静かに地面を撫でているようだった。
 琳太がささやくように言った言葉が聞き取れなくて、1歩近づく。今度は拒絶されなかった。気付かれなかっただけかもしれない。

「にげて、リサ」
「え?」
「おれ、もうだめだ。逃げて」
「……?」

 言っている意味が分からない。
 逃げているのは琳太の方だ。

「おれ、進化しちゃいけなかった。進化したら、強くなって、リサのところにかえれると思ったのに。進化したら、もっともっとかえれなくなった」

 にげて。
 もう一度そう呟いた琳太の身体が、黒いもやに覆われた。
 いっそまがまがしいと表現してもいいほどの、どす黒いもやだ。黒いクレヨンをでたらめに動かして作ったようなそれが、意思を持ってぐちゃぐちゃとうごめいている。

 琳太って、進化したら何になるんだっけ。今まで考えたこともなかった。
 今まで琳太達に対して、早く進化してほしいと思ったことがなかったから、と言うと聞こえはいいが、勉強不足だと突っ込まれれば反論のしようもない。進化方法もろくに知らなかったのだから。
 道具を使って進化するようなポケモンが仲間になっていたら、ポケモンの進化について龍卉さんに教えてもらうまで、ずっと進化せずにいただろう。

「ドラゴンポケモンは扱いが難しいよ」

 それはアイリスちゃんも、龍卉さんも言っていたことだ。
 特に琳太は、と、龍卉さんは付け加えていた。
 そこから先は自分で調べなよ、と言われたから、どうして琳太の扱いが難しいのかは教えてもらっていない。でも、少なくとも、わたしが調べられることなのだから、琳太個人の性格とか、わたしとの相性とか、そういう話ではなく、何か一般的に知られている、”モノズ”として、あるいはその進化先としての生態のことを指しているのだろう。
 ジム戦前の特訓から今の今までが、怒濤の試練の連続だったから、まだ調べられていない。
 琳太を迎えに行く者として、睡眠時間を削ってでも調べておくべきだった。

「おれね、とっても凶暴なんだって」
「え?」
「もう手がつけられないくらい凶暴なんだって、ゲーチスが言ってた」
「嘘かもしれないよ!そんな、ゲーチスの言葉、」
「ゲーチスのところにもおれがいた」
「……!」
「おれ、そいつみたいになるの、嫌だった。どうしようもなく凶暴で、見境なくて、本当に、怖かった。でも、もう間に合わなくて、……ぐ、」

 琳太の姿がまともに確認できなくなるくらい、もやが強くなる。
 いつの間にかボールから九十九が飛び出して、その背にわたしを隠した。視界が青と白で埋め尽くされる。

「リサさん、下がって」
「あァ……」
「でも、」

 わたしの言葉を、獣のような雄叫びが遮った。およそ人の口から発されたものとは思えない、理性無きモノの声だった。それでいて、置いていかれた子供の泣き声のようでもあった。

「少し、俺の時に似てるな」
「はなちゃんまで、」
「あの馬鹿、自分の力が制御できてねえ。……心当たり、あんだろ」

 進化前の、ライモンジムで戦っていたときのはなちゃんだ。あれは進化前だったけれど、琳太の場合は、進化した後に自分の力を持て余しているのか。
 
 黒いもやの中で、わたしを射抜くように、マゼンタがきらめいた。
 深い闇から、3対の翼が飛び出す。

「来るぞ』
『うん』
「リサ、逃げ、ッあああぁぁあ』

 黒いもやが霧散した。霧が晴れるように消えたのではなく、その内側から生まれ出た青白い閃光に、かき消されたのだった。
 一閃、わたしのすぐ横を突き抜けていったりゅうのはどうは、それまでの比ではなかった。
 翼と同じく、3対の目が、マゼンタの光を灯す。

 ちっぽけな琳太はもういない。
 そこにいるのは、理性を失いつつある凶悪なドラゴンだった。

『リサさん、とりあえず、大人しくさせよう』
『このままじゃ落ち着いて話し合いもできやしねえからな』
「う、うん……!」

 琳太は、幼い見た目だったけれど、決して意味の通じない話をしたり、一方的にまくし立てて自分の考えを押しつけるようなことをされたりしたことはなかった。
 今の琳太の方が、よほど冷静さを欠いていて、話の通じない相手だった。
 はなちゃんのときみたいに、思い切り力を出し切れば、落ち着くかもしれない。確信は出来ないけれど、それに賭けるしかない。

 再会が、こんな形になるなんて、あんまりだ。
 ……でも、やるしかない。
 九十九とはなちゃん、2対1は卑怯かもしれないが、琳太がどれほどの力を抱えて暴走しているか分からない以上、そんなことも言っていられない。けれど、非情になりきれないわたしは、美遥たちのボールに触れることが出来なかった。



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