つぐないの言葉はいらない‐01 

 一夜明けて。
 謎の筋肉痛に襲われつつ、目が覚めたわたしはスリッパを履いてキッチンに向かった。喉が渇いた。頭、首、肩が痛い。
 首と肩が痛いのはもしかして、筋肉痛ではなくて寝違えたのだろうか。頭が重たい感じがするのは、きっと久しぶりにいろいろなことを頭に詰めたからだろう。知恵熱が出ないだけまだましだ。また風邪を引いてしまってはしゃれにならない。
 よく冷えた美味しい水をコップにひたひた注いで飲み干すと、幾分か頭にかかっていたもやが晴れて、すっきりとした気分になった。

「リサさん、おはよう」
「おはよう九十九」

 わたしと同じく水を飲みに来たらしい九十九が、眠たげに目をこすっている。朝には強い方だと思っていたけれど、さすがに昨日あんなにトレーニングをしたのだから、疲れていて当然だ。
 まだ寝ててもよかったのに、と言うと、目が覚めちゃったから、という返事だった。ごくごくと、九十九の喉仏が上下する。ひょろっとしていてあまり意識することはないけれど、やっぱり男の人なんだなあって思う。そう、男の、人。もうあのちっちゃな九十九はいないのだ。何度だってそう思う。
 進化前とのギャップが一番大きい彼だから、その成長を見ていると、近所のおじさんおばさんが「大きくなったねえ」と言ってくるときの気持ちが理解できるような気がした。

「どうしたの?」
「なんでもないよ」
「水、まだ飲む?」
「ううん、もういいよ」

 ぱかっと冷蔵庫が開いて、オレンジ色がかった光が瞬いて、閉じる。
 裸足でフローリングにいるのは寒かろうと、九十九の背中を押してダイニングテーブルに出ると、はなちゃんが起きてきたところだった。

「おはよう英さん。……あ、おいしい水仕舞っちゃった」
「気にすんな。どっちにしろモーモーミルクの気分だから」

 はなちゃんとおはようの挨拶をして、ベッドルームに向かう。残るは美遥だけ。鳥ポケモンなのに早起きが苦手な彼は、寝ていたいとぐずるくせに、みんなが先に起きて動き出していると、置いて行かれたとすねるのだ。早めに声だけは掛けておいた方がいい。

「美遥、朝だよ」

 ん〜、と生返事。分かる。気持ちはよく分かる。わたしも何度もお母さんに起こされていたから。
 ほらほら今日はジム戦なんだから。早く起きて。
 何度か励ますように声をかけ続けていると、とうとうしびれを切らしたはなちゃんがずかずかと美遥の前までやってきて、べりべりと布団を剥ぎ、米俵のようにそのひょろっとした体を担ぎ上げた。

「うえ、はな!?」
「苦いコーヒーでも飲みゃあ目も覚めんだろ」
「おいらコーヒーきらい〜カフェオレがいい〜」
「よし起きたな」

 とても雑に美遥をソファーへと投げ込んだはなちゃんは、肩をさすりながら対面のソファーに腰を下ろした。美遥を抱えていたのとは反対の肩をさすっていることに気付いて、違和感を口にした。

「はなちゃん、肩どうしたの?」
「筋肉痛だ」
「おいらも背中痛い」

 わたしもだよ、と言いつつ、ふたりの筋肉痛はバトルに差し障りがあるかもしれないと考える。湿布を貼っておいた方がいいだろうか。

「あのひんやりするヤツか」
「あったかいのもあるかもしれないけど」

 ジョーイさんに言えば出してくれるだろう。
 けれど、練習で動きづらくなるからと、結局湿布を所望されることはなかった。
 
 湯気の立つマグカップがテーブルの上に等間隔で並んだところで、コンコンとノックの音がした。龍卉さんかな。

「はーい」

 最後のマグカップを置いたばかりだった九十九がドアを開けると、やはりそこには緑髪の彼がいた。
 手にはカフェオレの缶を持っている。

「調子はどう?」
「みんな筋肉痛」

 それを聞いた龍卉さんは声を上げて笑った。

「いーじゃんいーじゃん。ちゃんとトレーニングした証拠なんだし?」

 温かい飲み物で体を起こし、着替えを済ませたわたし達は、朝食をとるために部屋を出た。なんだかいつもより空腹だ。こんな感覚は久し振り。初めて隣の町まで歩いたときくらいの疲労感と空腹が、私のお腹の辺りをむなしくさまよっている。
 ぐっすり寝たから、まだ少し体がねぼけているのかもしれない。それで眠気と疲労感をごちゃ混ぜに捉えてしまっているのだろう。
 それでも空腹ばかりはどうにもならないから、虚無感を抱えつつ席についたのだった。
 味噌汁の香りで目を覚ましつつ、味覚と熱で空腹をなだめる。
 のりたまふりかけをたっぷり掛けたほかほかの白米を頬張って、ご飯の甘みが感じられるくらいゆっくり噛んで飲み込んだ。誰も彼も、もくもくと温かいご飯でお腹を満たしていた。
 ほぼ無言の朝食を終え、練習のためにバトルフィールドを借りる。ジム戦は午後一から。ジムトレーナーと戦うことも想定すると、あまり激しい練習は出来ないから、今からするのは技の細かな調整や作戦会議だ。

「ジムトレーナーはお任せするけど、ジムリーダーはとりあえずボクが一番手で出て行って様子を見る。時間を稼いで交代。そしたらみんなの休息のためにもなるし?」

 正直言って、龍卉さんだけでジムを攻略することは可能だと思う。彼がそう口にすることはないけれど、きっとそうだ。それでも、彼はわたしのポケモンではないし、あくまで先生であり協力者だ。よほどのことがない限り、バトルの勝敗を左右するような干渉はしないつもりなのだろう。
 ジム戦という使用ポケモンの決められている戦いで、1枠を様子見だけで消費することはデメリットかもしれない。けれど、主力として戦えるのは九十九、はなちゃん、美遥だけで、ジムトレーナーとの対戦を考えると、3人だけに休憩無しで任せっきりにするのは負担が大きすぎる。
 いかに体力を温存した状態でジムリーダーと戦うかが、わたし達にとっては一番の問題だった。

「ジムトレーナー戦も様子を見てしんどそうならボクが出て行って時間を稼ぐけど、あくまで戦うのはキミ達だからね」
「ああ」

 はなちゃんがばちばちと細かな火花を散らしながら、本来の姿形を取る。
 それを合図に九十九や美遥も三々五々、離れた場所で練習を開始した。

 昨日戦ったあのトレーナーは今頃どうしているだろうか。いつ再戦するのか聞いていなかったけれど、彼はもう少し練習してから挑むのだろうか。

 金網のフェンス越しに練習風景を眺めていると、紡希がフェンスにもたれかかって、小さくため息をついた。
 そういう何気ない所作ひとつ取っても絵になるのが紡希だ。絹糸のような髪は、今日も滑らかで美しい。
 
「アタシも戦えたらいいんだけどねえ」
「ううん、十分だよ」

 紡希は無理を押して、わたしを守るために生まれてきてくれたのだ。もう十分戦ってくれている。

「そうは言ってもやっぱりもどかしいのよねえ」
「でも紡希がへとへとになったらわたし、美遥にまたぬいぐるみみたいに掴まれて空飛ばないといけなくなっちゃう」

 それはごめんだ。
 十字の瞳を瞬かせた紡希がからからと笑う。澄んだ空を映したような目が細められた。
 紡希は時々、こわい笑い方をするけれど、今のはそれではない。わたしが安心する方の笑い方だ。
 どこか浮世離れして、諦めてしまっているような微笑みを見ることが、わたしはこわかった。いつか死んじゃうんじゃないかって。わたしが知っている限り、虫というものの寿命は短い。紡希の体は弱い。だから、ひょっとするとって、思うことがある。
 きれい好きの紡希のことだから、醜い姿は見せたくないって、野良猫みたいにいなくなってしまうんじゃないかって。
 ……琳太みたいに離れて行ってしまうんじゃないかって。

「そうね、じゃあアタシがそばにいなきゃダメね」
「うん。……うん」

 手袋越しに伝わる体温にほっとする。ぽんぽんと頭を撫でられながら、わたしはただ、小さな子供のように、何度も頷くだけだった。

 

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