マアトの羽ばたき‐06
ベルに散々泣きついて、すっかり泣きはらしてしまった目をそのままにしておくのも気が引けたので、早急にポケモンセンターで宿を取って、ベッドに横になった。
「はい、目に当てときなさい」
「ありがとう……」
紡希が作ってくれたホットタオルを受け取って、目を覆う。人肌よりほんの少し高めな温度がじわじわと染み渡っていく。あたたかい。
「紡希はどう思う?」
「まあ、一介の主を持つポケモンとしては、変なことに首を突っ込んでほしくないとは思うけれど……アンタ、自分から首を突っ込んでるんじゃなくて、気がついたら巻き込まれてる感じでしょ?逃げ回るにも限度があると思うのよねえ」
そのとおりである。
一方的にNやプラズマ団に目をつけられて、一方的にNのライバル的な存在に指定されているけれど、どれもこれもわたしが望んだものではない。わたしの旅の目的はもっと別のところにあるはずなのに、いつの間にか世界を救う云々の話になってしまっている。
活路を見出せるような素晴らしい潜在能力や特技を持っているならまだしも、そういった英雄らしいものは備わっていない。強いていうならポケモンと会話できることは珍しいことだと思うけれど、そもそもわたしの性格が英雄っぽくない。
「でも、Nの考えには共感できないし、あのまま放っておくのは気が引けるんだよね……」
「いざとなったらあんな黒い石になんか頼らなくてもアタシたちがぶっ飛ばしてあげるわよ」
紡希が力強い声を出す。タオルを少しめくると、力こぶを見せつけるようなポーズをしていたから、ちょっと笑ってしまった。
確かに紡希は、レシラムの炎を受け、その熱を吸収して生まれてきた。その紡希が言うのだから、説得力もひとしおだ。
「リサさんが逃げたいって言うなら、僕はそれを否定しない。僕のやることは変わらない」
逃げることは悪いことだという気持ちにずっと苛まれていた九十九の言うことには、説得力がある。逃げて逃げて逃げ続けて、その結果逃げないことを選んだ彼は、決してわたしの「逃げ」を否定しないのだろう。
「嫌なことがあれば逃げちゃえばいいんだよ。……それを許してもらえた僕が保証する」
「また泣きそうになるからやめて……」
「えっ!?ご、ごめんなさい!」
まっすぐ垂直に曲がる腰と、下げられる頭。勢いに押されて、九十九のふわふわな髪の毛が荒ぶる滝のように飛び散る。それを見て紡希がケラケラと笑った。よく見たらはなちゃんも口元を押さえてそっぽを向いているものの、しっかり肩が震えていて堪え切れていないのが分かる。
一晩考えさせてくださいとは言ったものの、受け取るか断るかではなく、受け取るための覚悟を決めるための時間が欲しかった、というのが本当のところだ。紡希の言うとおり、散々今まで巻き込まれてきた以上、受け取らないという選択肢はない。
だから今晩は、今だけは、わたしが”英雄”を課せられなくてもいい、そのままのわたしでいさせてほしい。
明日からのわたしが英雄になれるのか、それともそのなり損ないになってしまうのかは分からないけれど、わたしと一緒に旅をしてきたポケモン達は、変わらずそばにいてくれる。
受け取るだけ受け取って、ふさわしい人を見つけたら、その人に渡してしまってもいいだろうし、伝説のポケモンの力を借りずになんとかする方法があるかもしれない。
……そういえば。泉雅さんって、結構強力な力を持つポケモンなんじゃなかったっけ。
試しに、洗面所へ行って鏡に向き合ってみる。あのときみたいに泉雅さんが現れてくれないかなあって。小さく口に出して、名前を呼んでみた。
けれど、そう都合よく現れてくれるはずもない。泉雅さんだって忙しいだろうし。
そう思って、冷めてしまったタオルを再び温めようと蛇口を捻り、水がお湯になるまでの短い間、ぼうっとしていると、不意に自分の顔がぐにゃりとゆがんだ。
「……泉雅さん?」
「呼んだかえ、狭間の仔」
「うん」
泉雅さんが、わたしの姿のまま話しかけてくる。わたしの反応があまり面白くなかったのか、泉雅さんはすぐに本来の金髪姿に戻り、着物の袖をひらりとはためかせた。
ずるり、泉雅さんの手が伸びてきて、指先が、細い腕が、薄い肩が、そして整った顔が、鏡の中から抜け出してきた。
あっけにとられているわたしの顔を、泉雅さんの小さな手が包み込む。頬に添えられた手のひらは人の体温とはかけ離れた冷たい温度で、自然と背筋が震えた。
「ふむ。多少はましな面構えになったかの」
みっともない表情はしておるが、と呟くように付け加えて、彼女は親指の腹でわたしの頬を撫でた。品定めをするような目つきだが、ゲーチスの時とは違い、不思議と嫌悪感はない。
「泉雅さんって強いの?」
「愚問じゃな」
「そっか」
「しかし此岸は余の領域ではない」
わたしが言わんとしていること、望んでいることを、泉雅さんはばっさりと切り捨てた。
「そちらは生きているものの領域。死が踏み込んでよい場所ではない。……まあ、そなたが死ねば、構ってやらんこともないが?」
「それはまだ遠慮したいかなあ」
苦笑して、泉雅さんの手に自分のそれを重ねる。やっぱり冷たい。
一瞬眉をひそめた泉雅さんは、ぎゅっとわたしの頬に圧をかけてきた。蛸みたいにすぼまってとんがった口や、中心に寄せられた頬で、みっともない顔になっていることだろう。
「やへてくふゃはい」
「……ふん」
満足したのか、泉雅さんが手を離した。
するりするりと鏡の中に、飛び出ていた上半身が吸い込まれていく。
「英雄は死者ばかりじゃ」
「……?」
「生きながらに英雄と称されるものはそう多くない。死して初めて、嗚呼あの人は英雄だった、勇ましかった、あの子のことを誇らしく思う、などなどなど……全く無価値としか思わんな。諱(いみな)のように英雄英雄と。後ろ指を指しておるのと何ら変わりないわ」
「励ましてくれてるんですか?」
「図に乗るなよ小娘」
口調とは裏腹に、泉雅さんは愉しむような微笑みを浮かべている。生きた血の色をしている瞳が、上弦の月のかたちになる。
「そなたが英雄と呼ばれる日が来るのを楽しみにしておるぞ」
こうして泉雅さんと言葉を交わすのも久しぶりな気がするけれど、こんなに落ち着いて話せたのは、初めてかもしれない。
「あてにしてしまってすみません」
「よいよい。都合のいいときにだけ頼られるのもまた、神の宿命よ」
鏡の表面が波打ったかと思うと、もう泉雅さんの姿はなかった。今日はたまたま機嫌がよかったのだろうか。妙に優しかったような気がする。それとも、わたしが今まで泉雅さんの気遣いに気付く余裕がなかっただけなのだろうか。
こちらの世界に五体満足で連れてきてやった恩義に報いるように強くなれ、と言われたこともあるけれど、それもわたしが一方的な施しに対して心苦しいと思わないようにという考えがあったからなのだろうか。考えすぎかな。
……あ、しまった。お湯を出しっぱなしにしていた。タオルがびちゃびちゃだ。
ホットタオルを作り直してリビングに戻ると、わたしが座っていたソファーは琳太に占拠されていた。ポンチョをソファーの背もたれに掛けて、タンクトップ姿で寝そべっている。
「琳太、風邪引くよ」
「ん」
ポンチョを背中に掛けてやると、うつ伏せになってくつろいでいた琳太が、首だけを回してわたしを見上げてきた。
「目、痛い?」
「ううん、痛くはないよ」
ソファーの空いているスペースに浅く腰掛けて、ホットタオルを目にあてがう。うん、気持ちいい。目が腫れていなくても、寝る前にこれをやるとよく眠れそうだから今度やってみようかな。
「リサ、あの石、受け取る?」
「うん。どうなるかは分からないけれど、受け取ってみようと思う」
わたしが受け取れば、プラズマ団もあの石を探し出すことは、博物館にあったときよりずっと難しいだろう。わたしが受け取ってしまっていいのか、未だに疑問ではあるけれど。
「ドラゴンポケモン、来るのかな」
「どうだろう。でも、ドラゴンだから琳太と一緒だね」
「……」
「琳太?」
琳太から返事がないのを不審に思ってタオルを取ると、変わらず琳太はそこにいた。うつ伏せのまま、顔を伏せている。小さな背中がかすかに上下していた。眠ってしまったのだろうか。
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