回転木馬の逃避行‐09 

 息を吸う。口を開ける。その小さな動きの一つ一つを、ウルガモスが固唾を飲んで見守っている。

「つむぎ。希望を紡ぐで、紡希」

 ゆっくりと、震えながら、ウルガモスの口角が上がっていく。いかにも堪えきれませんといったふうにほころんでいく顔を見て、心がぽかぽかした。

「素敵な名前ね。リサ、ありがとう」
「これからよろしくね、紡希」

 紡希はくすぐったそうに笑う。
 
「ふふ、むずがゆくて変な気持ちね!」

 まんざらでもない顔をしてしばらくにこにこと笑っていた紡希が、両手を広げた。太陽を背に受けて立つ彼の表情は、とても静かで、穏やかだった。

「この先何があっても、アタシがあなたの道を紡ぐわ」

 陽光がその強さを増していく。幾筋もの光の束が、彼の背中から生えているようだった。光の羽を身にまとい、紡希は言の葉をつむいでいく。

「アタシがあなたを照らしましょう。あなただけを照らす太陽に」

 かつて、世界が闇に覆われたとき、常闇の大地に舞い降りた太陽の使者。あふれんばかりの光と熱を惜しみなく注ぎ、生きとし生けるものを照らしたという。
 くだけた口調や仕草で、するりとわたしたちの懐に入り込んできた彼とは思えないぐらいに、神々しい表情で、いっそ慈愛に満ちたまなざしで、紡希はわたしを見下ろした。

 きっと紡希も、かみさまなんだ。ウルガモスという存在が、世間的にどういう立ち位置なのかは分からないけれど、リゾートデザートに生きるもの達にとって、彼は信仰と崇拝の対象に違いない。
 改めて、わたしはとんでもない存在を引き受けてしまったんだな、と思ったけれど、だからといって恭しく接したり、傅いたりすることを、紡希はひどく嫌うだろう。

「あなたがいれば、きっとどこにいたって明るいんだろうな」

 わたしの言葉を聞いて相好を崩した紡希は、もういつも通りの紡希だった。


 部屋に戻るともうみんな起きていて、わたしを見るなりなんで連れて行かなかったんだと怒られてしまった。

「書き置きしたからいいかなって」
「よくねえ」

 ハイドウモスミマセンデシタ。
 はなちゃんが危惧したのは、わたしが危ない目に遭うことと、そうなったときに紡希が戦ってしまうことだろう。言われてみれば確かに、考えなしで「お散歩」してしまったことには違いない。

「まあまあ無事に帰ってきたんだし!」

 からからと笑ってはなちゃんの肩をたたく紡希。お腹がすいたわ、なんて言ってどっかりと全体重をソファーに預け、糸が切れた操り人形のように四肢を投げ出している。
 足をがばりと広げて座っているから行儀が悪いと言いたいところだけど、まあ男なんだからそう突っ込むところでもないのかもしれない。唐突におっさんくさい動作をされて、ちょっとわたしの頭がついていかないだけのことだ。

「みんな起きたし、ご飯行こうか」

 朝はそんなにたくさん食べられないのだけれど、お腹はすいている。今日はなんとなく、白ご飯が食べたい気分だった。

「紡希、行くよ」
「ハイハーイ!」

 起き上がった反動で、長くて白い髪がカーテンのようにばっさりと揺れる。その隙間から覗く表情は、どことなく嬉しそうな感じがした。

「つむぎ?」
「うん、ウルガモスの名前、紡希にしたの」

 片眉を跳ね上げて口を開いたはなちゃんにそう言うと、何でもっと早く言わないんだとまた怒られた。ひどい。だってさっき言う隙なんてなかったじゃん。

 これ以上ごたごたすると埒があかないとみたのか、まあまあ、と九十九がはなちゃんの背中を押した。お腹がすいているらしい美遥も、九十九を手伝ってはなちゃんを部屋から押し出そうとしている。

「……?」

 いつもなら琳太も美遥と一緒に後押ししそうなものだけれど、と思ったところで、右手がさっきから塞がっていることに気づいた。当たり前すぎて何も思っていなかったけれど、それは琳太の左手で、声をかけるとうなずいて歩き出した。


「アタシ、おにぎり食べてみたかったのよねえ……!」

 ぱりっと歯触りのいいのりが巻かれたおにぎりを頬張りながら、紡希が幸せそうに話している。琳太が初めてとろけるチーズを見たときの反応を思い出して、知らず頬が緩んでいく。
 こういう顔を見ると、もっともっとたくさんのものを見せてあげたいし、感じさせてあげたいと思うのだ。
 甘いスイーツも、しょっぱいスナック菓子も、温かい紅茶のことも。それから、手を繋いだときの温かさだとか、お風呂上がりの扇風機の風だとか。

「紡希、」
「?」
「色んなとこ、行こうね」 
「もちろんよ!」

 ぺろっと指についたご飯粒を取りながら、紡希が笑う。生まれたばっかりなのに最年長って、なんだかへんてこりんだ。でも、この世界で生きているってことに関しては、生まれたてで無垢に等しい。だから、色んなものを見てほしい。綺麗なことばかりじゃないけれど、楽しいことばかりじゃないけれど、わたしは、この世界のことが好きになっていた。

「この味噌汁?っていうの?美味しいわねえ」
「中に入ってるの、全部同じ豆からできてるんだよ」

 多分、紡希は知らないだろう。そう思ってわたしが何気なくそう言うと、紡希だけではなく、全員がびっくりした顔をしていた。あれ、わたしもしかして間違ったこと言った?そんなはずないと思うけど……。

「豆腐とお揚げの味噌汁でしょ?豆腐もお揚げも大豆だし、味噌も大豆が使われてるし」
「すっげー!リサ、色んなこと知ってるんだな!」

 美遥がきらきらした目でこちらを見つめている。
 その目玉焼きにかかってる醤油も大豆からできてると言うと、「ほ、包囲された……」と言っていたので笑ってしまった。
 
 こういうことって常識だと思っていたけれど、そうでもないらしい。正確に言えば、これはきっと、人間の常識なのだろう。一方でわたしが知らない彼らの常識だってたくさんあるだろうし。

「当たり前だと思ってると言わないよな、普通」

 はなちゃんが味噌汁を飲み干してから呟いた。昆布のだしがきいていて、とても美味しい。
 当たり前なことは意識しないし、当たり前じゃなくなったときに気づくものだ。分かってはいるけれど、当たり前だと思わないことは、難しい。

 日常があっけなく崩れ去ってしまうことを知ってしまった今、妙にはなちゃんの言葉が重々しく感じられた。

 この食事が終われば、もう当分、日常には戻れないだろう。
 小鉢から箸でつまみ取ったわらび餅が、ゆっくりと口の中でとろけていくのを感じながら、何か堅いものを噛み締めているような気分になったのだった。
 
 23. 回転木馬の逃避行 Fin.

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