回転木馬の逃避行‐08 

 まぶたの向こう側にまぶしさを感じて、自然と目が開いた。
 昨晩閉めたはずのカーテンが開けられていて、そこには腰まである長い白髪を櫛で梳いているウルガモスがいた。

「あら、おはようリサ」
「おはよう……早いね」

 いつもならまだ寝ている時間だ。
 隣の琳太はまだすやすやと眠っていて、起こさないようにそっとベッドから降りた。スリッパが少し冷たいけれど、裸足で床の上に立つよりもましだ。

「こっちいらっしゃい」

 小さな声で、ウルガモスがわたしを手招く。
 どうぞ、と引かれた椅子に座ると、髪の毛を一房手に取られる感覚がした。
 丁寧に櫛で梳かれていく。こんなこと、小さい頃にお母さんがやってくれたとき以来で、なんだか気恥ずかしい。

「痛くないかしら?」
「うん、大丈夫」

 男の人だし、背も高いし、声も低い。でも、不思議と威圧感だとか、男女の壁だとか、そういったものを感じさせない不思議なひとだと思った。

「なんか、お母さんみたい」
「あら。……ふふふ、アタシのママはリサなのにね?」
「あ、そうだった」

 クスクス。声を潜めて談笑するわたし達の声を聞く者は、誰もいない。

「ねえ、ちょっとやってみたかったことがあるんだけど」

 お願い、聞いてくれる?そう言って、ウルガモスはいたずらっぽくウインクをひとつ寄越してきた。かざしていた手鏡越しにそれを受け取って振り向くと、さらさらになったわたしの髪をもてあそびながら、彼はもう片方の手で、わたしの手鏡をそっと奪い取った。
 留守になったわたしの手を恭しく取って、立つようにと促してくる。
 ふと外に目をやると、空は山の端が白み始めた頃で、まだまだ薄暗い。

「やってみたいことって?」
「お散歩よ、お散歩」
「お散歩?」

 甲斐甲斐しく上着を持ってきたウルガモスが、あれもこれも、と手袋とマフラーを押しつけてくる。もごもごとそれらを身につけていると、彼はその間にベランダへと通じる窓を開け放っていた。
 昨日の夜のことを思い出して、つきんと胸が痛む。空虚になりかけた胸の内をどうにか押し込めて、弱々しい風が吹き込んでいる窓辺に立つ。やはり、早朝は冷え込む。厚っでの靴下をはいても、つま先の感覚がどこかに行ってしまいそうになっていた。

「あまり長くはできないけれど、ね?」

 冷たい風が、絹糸のようなウルガモスの髪を揺らす。差し伸べられた手を取りかけて、ちらと横目でモンスターボールのある方を見ると、まだ誰も起き出す様子は見られなかった。

「ちょ、ちょっとまって!」

 机の上に走り書きをしてから、慌ただしくウルガモスの手を取る。ぐい、と引かれてそのまま彼の胸の中に飛び込んだかのように思えたが、寸前でウルガモスはその身をくるりと翻した。わたしの頬が、黒い背中に触れたと思ったその瞬間、なにかとても暖かくてふわふわしたものに、顔がめり込んでいた。

 そのまま、内臓が持ち上げられるような感覚がして、そろそろ慣れ始めている浮遊感。
 ふわり、ベランダから飛び出したウルガモスは、わたしをその背中に乗せ、冷たい空気をものともせずに飛翔した。
 
「うわあ、あったかい!」
『でしょう?』

 さすがは太陽の熱と光を持つと言われるポケモン。これなら防寒具いらずなんじゃないかって言うぐらいに暖かい。空気は確かに冷たいのだけれど、彼が羽ばたきを起こすたびに、巻き起こる風が熱を帯びているような気がする。それに、首元の真っ白な毛並みがふかふかで、そんじょそこらの羽毛布団なんか比ではない。これ以上触れ続けていたらだめになってしまいそうなくらいに、ほどよいぬくもりと心地よい感触。
 思えば、うちにはもふもふ要員が圧倒的に不足していた。琳太と九十九、それからはなちゃんは毛こそあれど、そこまでふさふさの毛並みを持っているわけではない。美遥に至っては鳥だし。

『気に入ってもらえたかしら?』
「うん、とっても!」

 ふかふかの毛並みを堪能していると、閉じたまぶたの向こう側からまぶしい光が差し込んできた。朝日だ。

 ウルガモスは太陽に向かって羽ばたいていく。眼下の建物がゆっくりと流れていき、まばらになる。ちらほらと雪の積もった地面が見え始めた頃、ウルガモスはぐるりと大きくUターンして、ポケモンセンターへと戻り始めた。

「身体、大丈夫?」
『これくらいは平気よ。それよりも、着地をどうしようかしら』

 この身体の大きさでは窓枠に引っかかってしまうとウルガモスは嘆いた。鳥のように羽を折りたたむことができない種族だから、そもそも地面への着陸には向いていないのだ。

『ポケモンセンターの前に降りるしかないかしらね』
「うん、ウルガモスに任せるよ」

 こういうときどうしたらいいのかわたしには分からないし、彼に一任しておこう。
 ウルガモスの首元のふさふさは、擬人化したときのつややかで絹糸のような髪の毛とはまた質感が違って、とても細くて柔らかい。最後の1回、と思いながらそこに頬を寄せると、ウルガモスの身体がわずかに揺れた。

『やだもう、くすぐったいじゃない』
「ごめんごめん」

 笑い声交じりに会話して、背中が温かくなっていくのを感じる。わたしの影がウルガモスに落ちて、ずいぶんと伸びた長い黒髪が後ろになびいていく様を、ぼうっと眺めていた。

 振り向けば、ウルガモスの飛んだ軌跡がきらきらとオレンジ色に輝いている。鱗粉だろうか。それとも、火の粉?
 それは彼が太陽から生まれ、下界へと下ってきた際に残した道筋のようだった。
 そう、彼はまだ、この世界に生まれたばかり。わたしの方がお世話になりっぱなしになる未来が見え見えだけれども、それでもわたしが彼の親なのだ。
 太陽のように明るい、きらきらと周りを照らすような心と、芯の強さを持っている彼は、わたしが暗い道で迷ったときの道しるべになってくれるのかもしれない。彼の紡ぎ出した道は、きっと、とても暖かで、光に満ちているのだろう。

 ガクン、と高度が落ちて、「お散歩」が終わったことを告げる。どうやってちゃくりくするのだろうかと思っていたら、あろうことか、ウルガモスはそのまま地面にゆっくりと突っ伏したのだった。

『うーん、鳥じゃないから、こういうとこがちょっと問題なのよねえ……』

 冷たい地面にうつ伏せで横たわるウルガモス。端から見れば、どう見ても力尽きて倒れている虫ポケモンの図だ。羽が動いているから、まだ生きているとは思ってもらえるだろうけど。
 わたしの安全を考慮してくれた結果、この姿勢になってしまったというのは分かるんだけど、間抜けだと言わざるを得ない。ごめん。

「ごめんね、汚れちゃったでしょ?」
『あら大丈夫よ、ありがとう』

 慌てて地面に降りると、ウルガモスがゆっくり起き上がる。といっても手足を使うのではなく、羽ばたいて徐々に身体を起こす感じ。まるで起き上がりこぼしだ。器用にもそうやって元の姿勢に戻ったウルガモスは、おとなしく土埃を払われている。あとでブラッシングもしておこう。

「部屋に戻る前にね、あの、名前、をさ、決めたんだけど、き」
『聞く』

 食い気味に言われて、土埃を払う手が止まった。
 何でもないことのように言おうとして、結局ぼそぼそとした話し方になってしまったけれど、そうでなくてもここまでぐいぐい来られたら誰だってびっくりすると思う。
 わたしが固まっている隙にちゃっかり擬人化したウルガモスは、期待に満ちた目でわたしの顔をのぞき込んだ。



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